房総の出羽三山信仰についていろいろ調べていて
様々なものがあるなかたまたま2つの報告、論文を興味深く読ませていただいた。
ずっと引っかかっているがなんで出羽三山から遠く離れた房総で出羽三山信仰が盛んなのか。
****************
調査報告:梵天に見る房総の出羽三山信仰の現在(いま)小林裕美
千葉県立中央博物館研究報告 −人文科学−
13(1):1−81. 2012年12月
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/publication/jinbun_13-1_kobayashi.pdf
**************
内容を拝見すると平成23年に千葉県における出羽三山信仰に関する「梵天」の調査がされた貴重な調査報告である。
制作されている地域もさることながら梵天のバリエーションには驚くものがある。
平成23年から10年が経過しこの報告に記載のあるものの中には高齢化が進み、後継者が途絶えた講中ではもうすでに作られなくなってしまった地区もあるかもしれない。また講中自体なくなってしまった可能性もある。
地元山形や東北各県であればまだわかるが、山形の出羽三山から遠く離れた千葉県にあってなぜか出羽三山信仰は深く根付いている。伊勢参りでもなく、大山富士参詣でもなくて、である。
通過儀礼の一つとして三山参りは重要なのだとか理由は様々な要素がある、しかし出羽三山の信仰を布教し続けた行人と呼ばれる優れた行者たちが居たからに他ならないと思う。梵天制作にあたっても三山信仰独特の細やかな考え方が組み込まれている。
そうした行人が在俗の行人を指導して房総でしっかりと根付かせてきたのではないだろうか。
そんな考えが出ていたところに一つのヒントとしてあったのが、以下の論文。
**************
房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因
―長生地域の民俗事例による一考察―
三木 一彦
歴史地理学 58-2(279)1-22 2016. 3
http://hist-geo.jp/img/archive/279_001.pdf
**************
その浸透がどのように進んでいったのか地域社会に密接に関係している様子、地元の祭礼や行事からも細かく考察されている。
論文の中にも取調帳のことについて拝見するとことができる。
さて、この修験道章疏三所収の「羽黒派末寺並修験院跡大數取帳」を見ると、
延享(1744-1748)の分限改を以て、羽黒派は全国で総計3,782個院ということになっている。
上野、下野、上総、下総、信濃、常陸、安房、相模、遠江、9か国合わせて1,016個院。
この1,016のうちにの上総、下総、安房がどのくらいの内訳になっているかは史料からは分からない。
さらには、
「右の外、御府内関八州関西諸国羽黒法流一代修験一世行人共数百人の儀に御座候得共院跡不定の儀に御座候間書上申さず候」とあることから、書上には載せてはいないが、数百人の羽黒法流の一代修験、一世行人と呼ばれる後継が定まらない一代限りでの活動が許された行者の存在がある、ということが記載されている。
各地で活発に活動していたこの一代修験、一世行人という一代限りで跡形もなくなってしまう聖たちの存在。
いままで日の当たらないこの行者たちの脈々とした熱いものが、あくまで想像の域を出ないが、房総にも流れ込んでいるような気がしてならない。
様々なものがあるなかたまたま2つの報告、論文を興味深く読ませていただいた。
ずっと引っかかっているがなんで出羽三山から遠く離れた房総で出羽三山信仰が盛んなのか。
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調査報告:梵天に見る房総の出羽三山信仰の現在(いま)小林裕美
千葉県立中央博物館研究報告 −人文科学−
13(1):1−81. 2012年12月
http://www.chiba-muse.or.jp/NATURAL/publication/jinbun_13-1_kobayashi.pdf
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内容を拝見すると平成23年に千葉県における出羽三山信仰に関する「梵天」の調査がされた貴重な調査報告である。
制作されている地域もさることながら梵天のバリエーションには驚くものがある。
平成23年から10年が経過しこの報告に記載のあるものの中には高齢化が進み、後継者が途絶えた講中ではもうすでに作られなくなってしまった地区もあるかもしれない。また講中自体なくなってしまった可能性もある。
地元山形や東北各県であればまだわかるが、山形の出羽三山から遠く離れた千葉県にあってなぜか出羽三山信仰は深く根付いている。伊勢参りでもなく、大山富士参詣でもなくて、である。
通過儀礼の一つとして三山参りは重要なのだとか理由は様々な要素がある、しかし出羽三山の信仰を布教し続けた行人と呼ばれる優れた行者たちが居たからに他ならないと思う。梵天制作にあたっても三山信仰独特の細やかな考え方が組み込まれている。
そうした行人が在俗の行人を指導して房総でしっかりと根付かせてきたのではないだろうか。
そんな考えが出ていたところに一つのヒントとしてあったのが、以下の論文。
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房総半島における出羽三山信仰の浸透とその要因
―長生地域の民俗事例による一考察―
三木 一彦
歴史地理学 58-2(279)1-22 2016. 3
http://hist-geo.jp/img/archive/279_001.pdf
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その浸透がどのように進んでいったのか地域社会に密接に関係している様子、地元の祭礼や行事からも細かく考察されている。
論文の中にも取調帳のことについて拝見するとことができる。
さて、この修験道章疏三所収の「羽黒派末寺並修験院跡大數取帳」を見ると、
延享(1744-1748)の分限改を以て、羽黒派は全国で総計3,782個院ということになっている。
上野、下野、上総、下総、信濃、常陸、安房、相模、遠江、9か国合わせて1,016個院。
この1,016のうちにの上総、下総、安房がどのくらいの内訳になっているかは史料からは分からない。
さらには、
「右の外、御府内関八州関西諸国羽黒法流一代修験一世行人共数百人の儀に御座候得共院跡不定の儀に御座候間書上申さず候」とあることから、書上には載せてはいないが、数百人の羽黒法流の一代修験、一世行人と呼ばれる後継が定まらない一代限りでの活動が許された行者の存在がある、ということが記載されている。
各地で活発に活動していたこの一代修験、一世行人という一代限りで跡形もなくなってしまう聖たちの存在。
いままで日の当たらないこの行者たちの脈々とした熱いものが、あくまで想像の域を出ないが、房総にも流れ込んでいるような気がしてならない。
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