ほらふきにっき

発作的な日記です

伊豆が岳を越えて子の権現へ その2(伊豆が岳~子の権現)

2008-03-22 | つれづれ
山頂で休憩しすぎで歩くのを忘れるところだった。
さてさて、歩き出す。9:20


古御岳のあたり。どんどん道を下ってゆく。9:35


日差しはやわらかい。


杉の木立を歩く。


さらに杉の木立を歩く。


アセビの森に入った。9:55
アセビは馬酔木と書く。馬が食べてラリるくらいなので人間には毒である。


さらにさらに杉木立を歩く。かなり杉木立ばかりで飽きてきた。



天目指峠(あまめざすとうげ)にたどり着く。10:30
こんな山奥にウナギの伝説。


ウナギの伝説に出てくる龍神さんだろうか?
少し離れた木の根元に祠が2つほどある。


山では食料が容易に取れるので古くからこの土地にも人が住んでいたようだ。



最後のほうの上り。山道は杉ばかりであまり変化が無いのが残念。
どこからか風に乗って鐘を突く音が聞こえてくる。
お返しに法螺を吹いて返す。
しかし鐘突きはいつまで経っても終わらない。


赤い旗が誘う奥に桧皮葺きの子の権現の庫裏が見えてきた。11:30


本堂周辺には中高年ハイカーが多く見られる。
なんと言うかかなり渋いルートのようだ。


「日本一社 子ノ聖大権現」の額のとおり神仏混交の名称である。

子ノ権現天龍寺の縁起によると当山は延喜11年(911)6月13日初めてこの地に子ノ聖が十一面観音像をお祀りし創建、その後弟子の恵聖聖人が子ノ聖を大権現と崇め子ノ聖の自刻像を本尊として子ノ聖大権現社を建て天龍寺を別当とした、とのこと。

興味深いのがこの子ノ聖は出羽三山の開山能除太子を慕って湯殿山で修行しており、ある日月山の頂上から般若経を投げるとそのお経は南へ飛んで現在の天龍寺の奥の院(経が峰)に降り立ち光を発したとのこと。

プロ野球選手以上に肩のいい選手というか、遠投しすぎでしょ、と思われます(笑)

そんな縁もあり第一世の恵聖聖人から第二十九世真海代まで羽黒山の末寺として弟子相承していたようです。ただ第三十世教海で宝永2年(1705)ということなので一代20年と考えて600年前と考えると若干数字が合いませんが、歴史のあるお寺であります。



足腰の神様ということで、大きな下駄。
奥の院の光に誘われ当地に来た子ノ聖は、悪鬼によって山に火を付けられ妨害されその際腰から下に火傷を負ったという伝説が残されています。
そのため子ノ聖は臨終に際し腰から下の病に悩むものを救う誓願を立てられて亡くなったということです。


こちらも同じく、大きな草履。大きいことはよいことです。


庫裏は見事な桧皮葺き。見ごたえあります。



庫裏玄関には古い奉納額が回廊のほうまで所狭しと飾られている。


昭和50年代前半の講中登拝の記念写真。
まだこの頃はこうした講が地方にかなり残されていたのですね。

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