反・公式的見解

夢の形は千差万別、儚くも燃ゆる我が命、私の軌跡は明日への奇跡

移転から移転、ブログは天下の周りモノ

2006年01月23日 | Weblog
再・移転。というより帰国

原点、再開しました。

安田と岡野のブログです。



するってぇとやっぱり大垣かい?

2005年09月01日 | Weblog

 あまり世界には知られていないが、ユーラシア大陸の東に日本という小さな島国が存在する。ただ日本は国といっても自らの歴史を礎に威風堂々とその存在を誇示する独立した国などではなく、長い年月を経て培われてきたその伝統・価値観・歴史をないがしろにしてまでアメリカの属国としてせせこましく働く世界で唯一認められた植民地国であり、ドラえもんのキャラでたとえるならスネ夫のような国なのである。

 しかしこの日本の中に、まるでイタリアにあるバチカンのように、全世界の注目を集め続けている国がある、そう、ご存知『大垣』である。

 大垣は世界の経済・産業・軍事の全てを担っており、その住人全ての一挙手一投足を世界中の人間が気にしているという大国である。もうどの人間も大垣の住人が気になって夜も眠れない。というより眠ってない。眠れないんだから眠らない、眠らないんだから疲れがたまる、疲れがたまるんだから栄養補給が必要、栄養補給はドリンク剤が一番、全世界の人間(大垣の住人を除く)がドリンク剤に手を染める、製薬会社はやたらと儲かる、給料がアップして生活に余裕の出来た社員達は休暇にはバカンス三昧、旅先で豪快に長者のようにお金を使う、バカンス先の経済は潤う・・・ほらね、製薬会社一つとってもいかに大垣が世界経済に貢献してるかが分かるでしょ。

 大垣は現在も直接民主制を取り入れており、住民一人一人が議員である。しかし特筆すべきは各々の住民がそれぞれ何らかのスペシャリストであることである。たとえばブラックジャックは大垣住民であるし、アインシュタイン、ノーベル、湯川秀樹、オスマンサンコンなど、どこかの道に精通している者しか大垣にはいないのである。国家機密だが、もちろんストローを曲がるタイプのストローに変えるスペシャリストもいる。現在の議長がその人物である。

 大垣国内の報道は全て大垣中央放送が統括しており、事前検閲のスペシャリストが何人も在籍している。彼らは他国に大垣内部の一般市民の生活が漏れるのを必死に防いでおり、それを必死に防いで華々しい部分だけを放送しようと努めており、その努力の過程で流す汗は何物にも変えがたいほど美しいものである。彼らがいてくれてよかった、つくづくそう思う。

 これが人類最後のユートピア・大垣の概要である。世界にここより素晴らしい国は存在せず、またこの国の存在なくして世界は成り立たない。そして大垣を「地上の楽園」と信じてやってきた人々の消息はいまだ不明なのがまた魅力的である。


monkeyflip

2005年08月31日 | Weblog

 今日街中を悠々闊歩していたら完全なサルがいた。もう足の先(ここではくるぶし周辺のこと)から頭のてっぺん(前頭葉を想像してもらいたい)までサル、どの部分を取り上げてもサル、サル以上でもサル以下でもない、それほどのサルがいたのである。

 サル自身あまりにサルすぎて、しかしサルすぎるあまり逆説的にサルであることを忘れているようで、ウィンドーショッピングのテイストを感じさせつつ歩いていた。周辺の人々からは口々に「あれは擬人化だ」とか「擬人化以外の何ものでもない」とか「魏志倭人伝」という声が上がったが、サルは自分があまりにサルすぎることを忘れ人間気分でいるので、周囲の声に反応して「擬人化しているのは誰だ」とでも言わんばかりにキョロキョロしていた。

 当然こうなってくると登場するのが動物愛護団体である。「サルにも人権を!」をと彼らは声高に横断幕を掲げ、「去る人間!サル人権!」と叫びながら街中を過激に素敵にパレードし始めた。その数は数十万人にものぼった。

 しかしこういうときパレードは報道されるため大変目立つが、やはりマジョリティはパレードに参加しない人々である。「サルにも人権なんて何を馬鹿げた事言ってるんだ!」と周囲のマジョリティは石をパレードに向かって投げ始めた。あの「タマちゃんを見守る会」の面々さえも石を投げていた。これには本当に驚いた。彼らはタマちゃんに住民票を与え市民権を与えたが、動物に人権までは望んでいなかったのである。

 が、しかしもっと驚くべきことがあった。なんとこの騒動の主人公であるあのサルまでもが彼を守ろうとしてパレードしている人間に石を投げていたのである。パレード人間達からすれば桃太郎がきびだんごを与えた瞬間犬にかまれるようなものであろう。民主主義を与えようとイラクを攻めたアメリカがイラク人に攻撃されるのとも似ている。というよりこの場合後者の方が的確だ。パレード人間もアメリカもどちらもただただ恩着せがましく、相手の意思無視で自分達のエゴを押し付けてるだけだ。余計なお世話、この言葉がよく似合う。

 やはりその通りで、石を投げつけつつサルは言った、「サルはサルでいい」と。サルは言葉を続ける、「サルは人権などいらない、なぜならサルだから。人権などといってサルを人と平等に扱おうとしている時点でサルを見下している。結局サルを弱者と決め付けてその弱者を守ろうという姿勢で自分達のアイデンティティを守っているだけだ。いいだろう、それならば私にも考えがある。お前達に猿権をやろう、どうだ、嬉しいだろう。私と平等になれて。他者の気持ちなど他者と同じ立場になってみなければ分からないのだ。お前らが向こう岸でいくら他者の幸せを訴えようとも向こう岸にお前らがいる限り何の説得力も無い。滑稽そのものだ。持つ者が持たざる者の幸せを訴えても、結局その持ち物を捨てる覚悟まではないはずだ。そこまで綺麗ごとを並べて可哀相に思うのならば自分と交換してやればよいだろう。偉そうに貧困を訴えるのなら私財を全てなげうて、偉そうに人権を訴えるのなら自分の立場を捨て与えよ、それぐらいせねば他者に響く言葉は生まれない。消極的参加による積極的な意思表示、これこそがお前らに出来る唯一最大限の努力ではないのか。それで世界は救われる。」

 こうしてサルは去っていった。サルらしくたまに両手をつく感じで去っていった。
 

gree mixi 水墨画

2005年08月30日 | Weblog

 うさんくさい、これが最近流行のソーシャルネットワーキングサービスに大して私のあまりに清らかな四万十川のような心が閉ざされてしまっている最も大きな理由である。

 まず友達を招待し紹介文を書き合うというのがその主な機能であるが、本当に友達なのか?一度しか会ったことがなくても友達としての契約をネット上で結び、その“友達”という響きだけでその関係があたかも濃いような印象を与えているだけな気がする。そもそも人間関係の薄さを“友達”という言葉だけで補っていることがうさんくさい。濃さをかもしだそうとしているところがうさんくさい。僕たちは友達なのだ!ああ仲間なのさぁぁ!と波止場で無意味に叫んでいるに等しい。あの友達が“知り合い”という表記ならば私も勇んでソーシャルネットワーキングサービスの海へ気分ルンルン意気揚々と船出していたかもしれない。

 実際他者の他者に対する紹介文を閲覧ランランしているとあまりに当たり障りが無くて気味悪いものが多い。それどころかお互いがお互い相手のいいところを探しあって悦に入っている感さえある。失礼のないよう大いに気を遣い合い、大人な付き合いを必死に演じている。うさんくさい。もはや友達でもなんでもない。“ちょっとした知り合い”に友達の仮面を被せているだけだ。
 
 もう一つ、このソーシャルネットファッキングサービスを利用する者が主張するこの大きな機能の一つに“他人の自分に対する評価を聞ける”というものがある。はっきり言う、そんなもの聞けるわけあるかい!相手の肯定的な側面しか書くことを許されない状況の中で、その人間に対する真の評価を垣間見ることなど出来るわけがないのだ。褒められたら褒めてあげよう主義やとりあえず無難に書いておこう主義が横行しているのだから。うさんくさい。

 もし本当に自分に対する評価が知りたいのなら自分の知り合い・友達全員に盗聴器を仕掛け、自分のいないところで彼らが自分のことを話題にするチャンスを常にうかがい続けることをお奨めする。薄暗い密室でメロンパンでも片手に他人の会話を聞き続けることを提案する。それか自分に対する評価を無名で書き込むことのできる専用掲示板を大好きなネット上に作り、そこへ様々な人に書き込んでもらうしかないだろう。こうでもしなければ他人の自分に対する真の評価など出てはこない。

 結局こういうサービスは人間の帰属本能につけ込んでいるのかもしれない。どこかでつながっていたい、どこかで共通点を見出したい、僕も!私も!ヤン坊マー坊天気予報!である。しっかりとした契約、前提がなければ人を信じることさえ出来なくなっているような気さえする。ああうさんくさい。

 ただしもちろんこれらのようなことを全て理解している上で利用しているならば全く問題ない。「しょうがないよね」、この一言で完全OKである。しかし本気で“友達の数”=友達の数だと思っていたり、その数字が増えること=友達の数の増加だと信じ込んでいるならば、乳首周辺にハイビスカス模様のタトゥーを施し、両耳から国連の旗をたなびかせ、「ガンバルンバ」とでも叫びながらミシシッピ川を逆流したほうがよいと思う。


外様の殿様

2005年08月29日 | Weblog

 自分の日常を公表するのがブログの大きな役割ではある。しかし私はこれまで私生活を書き連ねることはしてこなかった。今日何を食べたとかどこへ行ったとか、そんなことはわざわざ発表するようなことではないと思っているからだ。しかし今回私の身に起きた出来事は日本中が注目していることであり、これを無視して今までと同じように誇大妄想ブログを書き続けるわけにもいかなくなってしまった。このことに触れなければ苦情が殺到することも考えられる。もちろん私のブログ姿勢はガタガタに崩れてしまうことになるし、スタンスを曲げたことに対する苦情も考えられる。しかし今回の出来事はやはり無視して通ることはできない。

 現在、チームの力的にもその人気的にも危機に瀕しているプロ野球球団がある。そう、読売ジャイアンツである。『巨人、大鵬、卵焼き』ともてはやされ、その試合中継はドル箱と言われ、人気・実力ともに不動の地位を気づいていたのはいつのこと、いまやセ・リーグで最下位争いを演じ、視聴率は同一時間帯のテレビ東京の番組よりも低く、滑稽なもののような扱いを受けているのである。

 その立て直し案として監督の交代が持ち上がっており、その候補者が節操の全く無い星野仙一と単純実直脳みそ不足な原辰徳である。しかしやはりどちらの監督でも物足りないことは巨人執行部も分かっており、そして前置きが長くなったが(さらに皆さんもテレビ・新聞等の報道でご存知のこととは思うが)、私に読売巨人軍時期監督への就任要請があったのである。

「正直めんどい」と断りました。

渡辺恒雄からの返答は「うそ~ん」でした。

お門違いなシュワルツネッガーは「I'll Be Back」と言いました。 


大特価セール・売らば大樹の陰

2005年08月28日 | Weblog

「ちょっとあなた、今年もあそこで滅多に手に入らない『感動』が大量に、しかも大安売りで放出されてるみたいよ。」

「な、な、な、なんだとぉぉぉぉ!それは手に入れねば!ああ、一刻も早く感動したい!そして感動させられたぁぁい!」

「毎年毎年素晴らしいおいしさだものね。我々大衆が扇動されやすいようにしてあるわ。去年もあの『所詮他人事』を口にした瞬間、口いっぱいに苦味の一切無いとても味わいやすいおいしさが広がって、涙腺という涙腺からその場だけの涙が大量に放出されたわ♪」

「うむ。無理矢理苦労してる感の否めない『マラ損』なんかは我々愚民にはたまらないのどごしじゃ。ほら、こんなに一生懸命走ってるんだよ!感動しなさいよ、というゴリ押し・押し売り、まことに見事!あっぱれ!たっぷり涙を流さしてもらいたいもんじゃ。」

「あの一切の照れや自己批判なく純粋一直線にいいことしてるんだ~な感じが素晴らしいわよね。偽善者だと感じつつも、恥ずかしながら・・・という感じを少しでも出さないところがまたいいわ~。完全に自分の中だけで自分を処理して、全く外から見えてないのよ♪最高!」

「ちなみにわしは一足先に寄付のためTシャツを買ったのだぞよ!」

「ああ、あなたさすがよ!素敵過ぎるわ!普段はコンビ二とかの店先に募金箱が置いてあっても1円もいれないくせに。街頭で募金募集してても眼中にないくせに。自分の生活に一切の我慢もせずに暮らしてるくせに。このTシャツのように、いいことした感が多分にでるものにはすぐ飛びつくのね♪寄付というより流行りものだからでしょ♪あなたってス・テ・キ♪さすがだわ!」

「もちろんじゃ!買っただけで『僕は世界を考えてます』という感じが出る!なんという素晴らしいこと!そして買っていない奴らには『え?どうして買わないの?』という言葉を投げかけたり、『もっと困ってる人々のこと考えようよ』という目でみたりする。混じり気の全く無いどこかのビールのような瞳でTシャツを着ちゃったりもするぞぉぉぉぉぉ!」

「いやぁぁぁ~!あなたぁぁぁ!もっとよく見せてぇぇぇ!」

「ほら!ほら!ほら!ほらほらほらほら!」

「いやぁぁぁぁ!そんなものをそんなに上下させないでぇぇぇぇ!」

「もっとよく見てごらん!」

「ああああああぁぁぁぁぁぁああああああ!」


茶番とほっとけない世界の貧しさ

2005年08月26日 | Weblog

 どれだけ何かを決断しても否決する人間が世の中には存在する。その人間にとって決断は否決へのプロローグであり、否決は決断へのエピローグとなるのである。
 
 私の眼前で繰り広げられた劇中劇はやはり劇中劇の劇である側面を拭い去るものではなく、茶番中茶番となって私の全てを切り裂いた。

 ここで一つこのうらぶれたブログを惰性のままに閲覧している皆さんに疑問を投げかけたい。

 「人は簡単に変われるものなのだろうか?」

 ある人間は言う、俺があの子を変えてみせると。
 
 しかし私はやはり人間には生まれ持った性質というものがあり、それは決して根本から変えられるものではないと思うのだ。もちろん三つ子の魂百までというように、幼き頃の変革ならば可能でもあろう。しかし、20数年連れ添った性格・性質というものはそう易々と変えられるものではない。というより変えられないに決まってる。

 たとえば人間界では珍しいほど“気分屋”な人間がいたとする。気分がいいときや自分にとって都合のいいときはその人間は非常にいい表情を見せる。一緒にいる者を幸せの海に溺れさせる。しかしである。ひとたび自分に都合が悪くなったり気分が良くなくなったりした途端、一緒にいる者に暴言を浴びせたり逆ギレの様相を平気で表したりする。一緒にいる者に遺書を書かせて涙の海で溺死させる。

 このような性質はたとえ一時的な反省をどれだけ見せようとも変わらないものなのではないのだろうか。しかし問題なのはそこではない。そのような人間と時間を共有している人間は、たとえ相手に全く理性を欠いた暴言を浴びせられその人間と縁を切ることを決断したとしても、相手はすぐ非常に良い対応もしくは表情を見せるため、すぐに怒っていたことを忘れコロッと仲直りに話を進めてしまうのである。気分屋な人間が相手の性格を逆手に取る“うまさ”を持っているならなおさらたちが悪くなる。雨とムチ、上げては下げての応酬で、結局はその人間と一緒にいる人間は離れるどころか益々はまっていくばかりになってしまうのだ。

 そして私が最も変えることのできないと考える人間の持つ性質、それは『嘘つき』という性質である。これは断言できる、嘘つきは絶対に直らない。この世に生を得た瞬間から得た『嘘つき』という性質は棺おけに入場を進められるまで『嘘つき』である。仮に嘘つきな人間とその人間がついた嘘がきっかけで大喧嘩をしたとする。そして大喧嘩の末にその嘘つきな人間がもう絶対あなたには嘘をつかないと宣言したとする。しかしその仲直り劇がいくらお互いが涙を流した大感動的なものであっても、そして嘘をつかないというのがどれだけかたい約束であったとしても、嘘つきという性質と嘘をつくという行動だけは絶対直らない。なぜなら嘘つきな人間はその場しのぎで平気で嘘がつけるだけでなく、交わした約束も簡単に破ることが出来るものであるからである。つまり「嘘をつかない」という言葉がすでに嘘なのである。嘘つきの嘘は間違いなく繰り返され、その嘘に関わった人間の落胆も繰り返されるのが世の常である。しかしいくら嘘がばれようと、そしていくらそれに対して他者が怒ろうとも、結局は機転の利いた新たな嘘にそそのかされ誤解による和解を選択してしまうのである。

 以上に述べたような者と関わる人間が、人類最後のヒューマニストと揶揄されるほど優しさに満ち他人を大きな愛で常に包んでいるような者ならばなおさらその
「別離決意→結局和解」という傾向は当然強くなる。本人的には別離をかなり強く決意したつもりでも、結局相手のうまさに彩られ、最終的には相手の良さばかりを思い浮かべ、“感動的な仲直り”という結末を何度も迎えることになるのである。

 しかしもしかしたらそれでいいのかもしれない。大きな決断を決意しては取り消す、そんな人間がいてもいいのかもしれない。どれだけひどいことをされようとも他者を潔く切れない人間、確かに格好良くはないがそれがその人間の良さでもある。人間関係がもつれるたびにその人間が私に相談をしてくれるのも有難いことではある。

 私はこれからもこの優柔不断を多分に持ち合わせたガンジー主義・博愛主義の持ち主を見守っていこうと思う。


仮ー・ポッターと炎のポリデント

2005年08月13日 | Weblog

 小野妹子になってしまった以上、中国に行かないわけにはいかなくなってしまった。聖徳太子の手となり足となり働かされる毎日がやってきてしまったようだ。

 中国の地を踏んだ瞬間、あのリンリンとランランに襲われた。パンダだと思って甘く見ていたら血だらけになっていたのである。パンダ、そうは言ってもやはりクマ、でもクマかどうかはいまだに分からない。
 
 とりあえず仏教くらいは日本に伝えなくてはと思って仏教がかったものをさがしたのだが、どうやら仏教は百済にしかないらしく場所を間違えたことを恥じるはめに。

 聖徳太子は私にお金を全く持たせてくれなかった。つまり中国の地で寝泊り・飲食することが出来なかった。そこでバイトでもしようと思ったが、異国の地から来た私にまともな職はなく、仕方なく日雇いで万里の長城の建設を手伝うことにした。親方の怒声、ほとばしる汗、束の間の休息と弁当、楊貴妃との秘密の逢瀬、一つ一つの体験が私には新鮮だった。日本には帰りたくない、そう思うのに時間はそれほど必要なかった。というより、パンダあたりからもう思っていた。それにしても仕事中はとにかく汗をかいた。ノドが渇いてしかたなかった。炎天下、太陽は私の体力を著しく奪っていった。

「エビアン!」


仮ー・ポッターとアズカバンの臭人

2005年08月09日 | Weblog

 私が怒声を浴びせると魔法使いの顔はみるみる紅潮し、何を思ったか急に一句詠みあげた。
 「蛤の ふたみに別れ 行く秋ぞ」

(畜生、意味が分からない・・・。)

私が対応に困り苦渋の表情を示していると、彼はスッと立ち上がり私の隣まで駆け足でやってきて、私の耳元でなにやらブツブツ言い始めた。最初は魔法使いなのだから何か呪文を唱えているのだと思っていた。殺される・・・それぐらいに思っていた。しかしよく聞いてみるとそうではなかった。呪文などではなかったのだ。このうらぶれた魔法使いは
「年功序列、年功序列、年功序列、年功序列・・・」
とささやいていたのである。私の部屋で日本企業の伝統的なシステムを唱えていたのである。わざわざ私の耳元で、そしてこのタイミングで外資系の企業に異を唱えていたともとれる。そんな彼に共感した私は彼の右手を両手で強く握った。

「馴れ馴れしいわ!!」

遂に魔法使いは本気で怒った、礼儀の無い若造を目の当たりにして。丸坊主のくせに長髪を振り乱し、わけの分からない魔法を唱えて私の姿を変えたのだ。私に耐え難い魔法をかけたのだ。私が変身させられたモノ、というより者、それは『小野妹子』である。自分の変わり果てた姿を見た私は叫んだ。大粒の涙を流し、絶叫した。

「遣隋使!」 

仮ー・ポッターと秘密のヘア

2005年07月26日 | Weblog

 私の質問にも彼は答える素振りを一切見せず、私をチラ見することすらなく立ち上がり、そのまま足を台所の方に進め、冷蔵庫からマーガリンを取り出した。
(なんだ、結局使うんじゃねーか・・・。)
 私がそう思い、さらにその思いを口に出そうとした瞬間、彼は冷蔵庫から取り出したばかりのマーガリンを電子レンジに入れ、さらに温め始めた。そして何食わぬ顔でまた席に着いた。しかしこの時彼は少し半笑いであった。そう、『半笑い』で、さらにその半笑いが『少し』であったのだ。
 
 ひんやりしているべきマーガリンを温め始められた、そんな事実を突きつけられた私は大慌てで電子レンジの所までいきマーガリンを取り出した。そして矢継ぎ早にマーガリンを冷蔵庫にしまうやいなや、彼の方に向かって怒声を上げた。

「溶解!」