シルクロード風紀行

シルクロードを中心に、旅をしています。写真と文章で、シルクロードを紹介します。

玄奘三蔵ゆかりの寺・大雁塔

2008-09-15 11:16:50 | Weblog


南門を出て、南関正街に入る。右手遠方に見えるのは、小雁塔である。市内で最も、唐代の面影を残しているという建物だ。左折して雁塔路に入り、4kほど行くと慈恩寺である。大雁塔は、この境内にある。
この辺一帯は、かつては城内にあり、城壁で囲まれていたそうだ。かつての長安城の巨大な規模に、驚かされる。
見上げる、西安の象徴でもある大雁塔。高さ64mで、四角七層の朽葉色の塔は、どっしりと構えて天に突き上げていた。各層には、アーチ型の窓がある。
この塔は、玄奘がインドから持ち帰った、大量のサンスクリット語経典や仏像などを保存するために、652年に建立された。当時は、インド様式の五層の塔だったが、修復を繰り返して現代のような姿になったのは明代である。



慈恩寺は、唐の第三代皇帝・高宗が、亡くなった母・文徳皇后への報恩のため、648年に建てられた仏教寺院である。隋末の戦乱で消失した廃寺を、再建したものという。
往時は、現在の敷地面積の7倍以上あったそうだ。最盛期には、300人ほどの僧侶が住んでいたというが、唐代末期の戦乱により焼失している。
シルクロードを通って、西域128ヵ国を巡って、インドで遊学を終えて戻った玄奘。多くの経典と仏像を、長安に持ち帰った。この慈恩寺を大層気に入り、境内に塔を建てて、仏像と経典を保存したいと願い出た。高宗は、玄奘のその願いを適えてあげたのだった。



玄奘の建議によって、インドの塔婆に似せて塔を造った。その材料は、レンガや石灰、土、餅米を使い、内部は土で、外面にレンガを積んだ。塔が早くできるようにと、玄奘も毎日重労働を手伝ったという。
塔の完成後に仏像を安置し、持ち帰った経典を、約11年もの間翻訳を続けていたそうだ。
塔の内部は、人が擦れ違うことができるほどスペースのある、螺旋階段がある。最上層まで上ることができるので、ゆっくりと上っていく。しかし、しぜんに足早になってしまい、上に着くころには汗が流れ落ち、足が棒のようになってしまった。
四方の窓からの眺めは素晴らしく、大窓から吹き込んでくる風が心地好い。
遠望する西域の空が靄っているのは、黄砂が舞い上がっているのだろう。



大雁塔から約2K西に「陝西歴史博物館」がある。
ここには、陝西省地区からの出土品約11万3000点が収蔵されている。一階の第一展覧室は、先史時代から秦代。二階の第二展覧室には、漢代から魏晋南北朝時代の文物。第三展覧室は、隋、唐、宋、明、清時代の出土品を展示している。時代順に巡ることができて、分かり易い。
ここの建物の特徴は、唐代の建造物の風格を持ち、中国の伝統的な「院落(四合院)」様式の古典的な建物を模して設計されている。屋根には瑠璃瓦を用いて、古代建築の雰囲気を出している。

城壁に囲まれた街

2008-09-12 14:20:38 | Weblog


四方を城壁で囲まれた西安の繁華街は、鐘楼を中心にして、道路が東西南北に延びている。商店やレストラン、デパートなどが並び、若者や観光客で賑わっていた。
先ずは見晴らしの良い、高さ36mの鐘楼に上る。
戦時中は、物見台や司令部になったというほどに、展望が良い。どの方角からも、街が一望できる。わたしはしばし、西の安定門の方向を眺めていた。すると自身が、古の旅人になってしまったかのように思えてきて、思わず呟いた。
「ここから、ローマへとシルクロードが続いているのだなあ……」
この鐘楼は、1384年に創建されたものだ。当時は、西大街と広済街の交わる辺りにあったそうだが、1582年にこの場所に移された。高さ8mのレンガ造りの土台の上に楼閣が建てられている。
その造りは重櫓複屋(ちょうろふくおく)といい、屋根は三重だが、実際には二階建だ。正方形の木造建築の鐘楼には、釘が一本も使われていない造りである。楼閣の扉のレリーフに刻まれているのは、有名な故事という。
かつては、楼の上には大きな鐘が吊るされ、毎朝70回撞き終ると、東西南北の4つの城門が開かれたといわれている。



鐘楼から400mほど西に建つのが、鼓楼である。
どっしりとした構えの鼓楼は、鐘楼よりも4年早い1380年に建てられた。高さ33mの楼閣の土台にはアーチ型の通路があり、今でも人や車が通っている。
往時の楼上には大きな太鼓が掛けられており、夕方になるとその太鼓を打って、時を知らせていたという。その音を合図に、東西南北の門が閉められたそうだ。鼓楼は、清代に二度修復されている。
鐘楼から、南大門を1キロほど行くと南門に出る。見上げる、強固な造りの城壁の側へ来ると、賑わった街とは裏腹に、過去にタイム・スリップしたようである。
西安のシンボルでもある城壁は、唐の長安城を基礎にして造られている。1370年から1378年にかけて、レンガを積み重ねて築かれたものだ。その後、再三の修理を経て現在の姿になった。
東西に長い、矩形の城壁。その周囲の長さは、約14kある。高さは12mで、上部の幅が12mから14m。底部は、15mから18mにも及ぶそうだ。東西南北には城門楼があり、我々は南の城門に登楼した。



現在の城壁は、かつての6分の1の規模しかないという。城壁から眺める、遥か南に聳えている大雁塔は、当寺は長安城内にあったそうだ。
安定門が、西門になる。古の旅人たちが、西方シルクロードを目差して旅立った門である。しかし以前の西門は、8kほど先にあったのだ。西安から、昭陵、乾陵への途上である。現在、城門の模造がある場所が、唐代の西門があった地点になる。
そこには、「絲綢路起点群像」の石像が建っていた。彫りが深て髭を伸ばした、西域商人が彫られている。キャラバンの駱駝を率いて、シルクロードを旅する当時の隊商の姿である。古人はこの門で送別会を行い、シルクロードへと旅立っていったのだろう。



城壁に囲まれた南門の側に、「陝西省博物館」がある。1950年に創建された、陝西省最大の博物館だ。かつては孔子廟だった建物で、「碑林」とも呼ばれている。
収蔵物は8万点以上あり、館内は、歴史陳列室と石刻芸術陳列室、碑林の三部分から成っている。
ここには、史都西安に伝わる、「草書般若波羅蜜多心経の石碑」や「達磨趺坐図石碑」を始め、各時代の逸品が多々展示されている。
この博物館の中心をなすものは、碑林である。1087年に創建され、多くの石碑が林立するところから碑林との名が付けられたそうだ。



古の憧憬の都・西安

2008-09-09 15:07:16 | Weblog

中国関中平原の中部に位置する西安は、かつて長安と呼ばれていた陝西省の省都である。
約2000年に渡って政治・経済・文化の中心であり、紀元前3世紀の西周、秦から北周、隋、唐など13の王朝がここを都に置いている。この地から輩出した英雄やヒロインは多く、秦の始皇帝や前漢の武帝を始め、唐の玄宗や楊貴妃、さらに多面に渡った偉人たちである。

唐代の長安は、西方からやって来た多くの外国人で、賑わった大都市として栄えていた。
日本との交流も古く、遣隋使や遣唐使として長安に派遣されていた。阿倍仲麻呂は54年もの間この地に住み、宗教や文化の伝播と日中友好に貢献していた。さらに僧侶・空海は、青龍寺で密宗を学んでいた。往時この長安には、多くの文化人の交流があったのだった。

往時の長安城は、諸民族の憧れの的だった。日本でも「平城京」や「平安京」などは、長安城をモデルとして造られた都市である。
平安時代初期の嵯峨天皇は、京都の平安京の西を「長安」、東を「洛陽」と名付けた。しかし、しだいに右京が衰えて左京が発展したために、「長安」の名が消えて「洛陽」と呼ぶようになった。
現在でも、洛中、洛外、洛南などの言葉が使われている。
中国とは違って、平安京には城壁がないのは、騎馬民族の侵攻がなく、不必要だったからである。
長安の華やぎが失っていくのは、唐代の末期だった。戦乱の荒廃により、都はしだいに寂れていったのだった。そこで首都を、東の洛陽に移されたのだ。
長安があまりにも大都市に発展したために、食糧問題という、致命的な弱点を抱えてしまったためである。食糧搬入が容易な場所に、朝廷を一時的に避難させるために、洛陽を副都に置いて対処したのだ。

首都機能を失った長安は、縮小されて、一地方都市となってしまった。明時代に、長安への遷都論が唱えられたこともあった。しかし、唐時代の食糧問題が尾を引いていて、返り咲く余地はなかった。
没落の道を辿った長安は、1369年の明代に再建されてから、西安と改められたのだった。

関林堂から博物館へ

2008-09-08 11:16:11 | Weblog
三国志の英雄、関羽を祭る「関林堂」は、市街から南へ8kほどのところにある。
義を重んじて呉の馬忠に殺された、三国時代の蜀の大将・関羽。その一途な忠義心は、後世さまざまな信仰の対象となり、全国に祭られるようになった。この廟は、その最初のものともいわれており、関羽の衣冠が埋められているそうだ。
殿内には、彩りも鮮やかな関羽の像が、どっしりと据えられていた。
木々の生い茂った廟内には、山門や舞楼、拝殿、二殿、三殿などが配置されている。三殿の後ろには、小さな丘のような首塚がある。
この廟は、唐代に造られ、明、清代に修復された。
市のほぼ中心にある「洛陽博物館」を訪れると、洛陽の歴史を、詳しく知ることができる。
1958年に設立された「洛陽博物館」。現在の三階建の建物は、1974年に新築されている。展示品は年代順に並んでいるので見易く、二階には夏から宗王朝までの文物が展示されている。
歴代9つの王朝が置かれた、「九朝の都洛陽」といわれるだけに、陳列物は地方博物館の水準を超えた、一級品揃えである。
唐三彩は、洛陽付近の出土品が最も多く、質量ともに群を抜いている。
緑、茶、黄色の三色の釉薬をかけて焼き上げた唐三彩は、人物や馬、駱駝、食器などさまざまだ。特に、正面入口の駱駝は有名である。これらの唐三彩は、唐代に、王侯貴族の墓の副葬品として作られたものである。

中国最古の白馬寺

2008-09-07 15:25:41 | Weblog
洛陽市の東方12kほどの地にある、「白馬寺」。この寺院は、中国に仏教が伝えられてから最初にできた仏教寺院で、「釈源」とか「祖庭」と称えられている。後漢時代、永平11年(68年)の創建である。
伝説によると、インドから二人の僧が白馬に経文を積んでここに来て、仏教を伝えたところから「白馬寺」と命名されたそうだ。そのインド僧の二人の土塚も、ここに守られている。山門前には白馬の像があり、門をくぐるとインド僧の墓がある。
境内には天王殿や大仏殿、大雄殿などが建っているが、当時の伽藍の規模は、今よりもずっと大きかったという。
山門を出て東へ300mほど行くと、斉雲塔がある。高さ24mの13層のレンガ造りの仏塔で、1175年に建造されたものだ。

洛陽を愛した詩人・白居易

2008-09-06 12:46:08 | Weblog
やや風は強いが、雨が治まった。
しかし着ていた服が、上から下までずぶ濡れになってしまった。
近くの店でトレーナーを買い求めて、濡れた上着やズボンを着替えた。おかげで、身も心も軽くなった。
酒をこよなく愛した、中唐の大詩人・白居易(白楽天)の墓は、龍門石窟の東山側の香山寺にある。
白園入口から階段を上ると、寺院に出た。境内の木々は、雨上りの若葉で眩いほどだ。
木立に囲まれた白居易の墓石の周りには、いくつもの石碑があった。
「香山居士」との号の白居易が、この辺の風光を愛したというだけに、香山は今でも閑静な地である。
白居易は、晩年の18年間この地に住み、846年に75歳でこの世を去った。
その遺言どおり、香山に葬られたのだ。
「長恨歌」や「琵琶行」などの作品で知られた白居易。その流麗で平易な詩は広く愛誦され、平安時代の日本文学にも多くの影響を与えていた。
「酔吟先生」とも呼ばれていたという白居易は、酒に酔っては、素晴らしい詩を吟じていたであろうと察する。この香山で、仲間と酒を酌み交わしては詩を吟じ、琴を弾じ、音楽を聴き、将棋を楽しんでいたという。実に風流な生活を送っていた、風流人・白居易である。
この香山寺には、蒋介石の別荘も残っている。

壮大な龍門石窟

2008-09-06 11:04:28 | Weblog

牡丹が花盛りだった、5月の始めに訪れた洛陽。春は乾燥していて雨は少ないというが、異常気象の影響なのであろうか、あいにくの天気になってしまった。
夜半から降りだした強い雨は、朝になっても止まず、さらに強風を伴ってきた。当地では恵みの雨であろうが、我々旅人にとっては無情の雨である。
ホテルでの朝食後に、バスで龍門石窟へと向かう。まるで台風のような風雨は、止みそうもない。水捌けの悪い市内のそこここの道路は、冠水している。
やっとの思いで、石窟近くの伊河のほとりに辿り着いた。でも風雨は益々激しくなり、雷まで伴ってきた。傘をさしていられないほどの強風だが、ここまで来て引き下がるわけにはいかない。
濡れネズミになり、寒さに震えながら、石窟に辿り着いたときにはほっとした。
龍門石窟は、黄河の支流の伊河に沿って約1キロに渡って広がる石窟で、莫高窟と雲崗と並ぶ、中国三大石窟の一つである。
石窟は1352ヵ所あり、仏像数は97000余体といわれている。2000年に、ユネスコの世界遺産に登録された。石窟寺院の造営は北魏の494年に始まり、唐代までの約400年間に渡って続けられた。

代表的な窟は、〈龍門の顔〉ともいわれている「奉先寺」だ。
巨像のルシャナ仏は17メートルあり、唐代随一の巨像で、初唐の代表的傑作でもある。北魏時代の仏像はヘレニズムの影響が見られるが、この像は中国的な造形である。
則天武后をモデルにしたという尊顔は、柔和で慈悲に満ちている。台座がだいぶ破損していて、定印と趺坐の姿が分からない。

北壁にある、力士像も素晴らしい。今にも激しい言葉が飛び出してきそうな、気迫に満ちた憤怒相をしている。
ヘレニズムとの関わりが、はっきりと表れている賓楊洞。万仏洞の壁には、数センチの小仏の群が、15000体余りも刻まれている。
薬の調合法が記されているという薬方洞や、古い歴史を誇る古楊洞。
無数に彫られた石窟の仏像の数々を眺めていると、往時の仏教の歴史と深い信仰心から生まれた、仏教芸術の素晴らしさが窺い知れる。

芸術の古都・洛陽

2008-09-05 15:23:38 | Weblog
河南省西部にある洛陽は、黄河の中流域にある都市である。
紀元前770年東周時代に、洛邑(らくゆう)と呼ばれる首都になったことに都の歴史が始まっている。
その後は、後漢、三国の魏、西晋、北魏、隋、後唐など、歴代9王朝の首都になってきたことにより、「九朝古都」ともいわれてきた。
その最盛期は唐代で、経済や学問、芸術の都として花開き、李白や杜甫、白居易を始めとして、多くの詩人、文人墨客が集まってきた。
現在、洛陽市の花となっているのが、牡丹である。この栽培の歴史は古く、隋代に始まり、唐代には一大名所になったという。
洛陽の土が牡丹に合っているというが、「芸術と文化が育んだ」といっても過言ではないだろう。

東西文化を結ぶシルクロード

2008-09-05 14:45:52 | Weblog

シルクロードとは、アジアとヨーロッパとを結ぶ、内陸アジアの交易路の総称である。
古代から続く、東西交通の全貌はきわめて複雑であるが、大別すると、ステップ路とオアシス路、南海路の三つに分けられる。しかし一般に、狭義にシルクロードというと、中央アジアを東西に横断するオアシス路をさしている。
その壮大な砂漠の中のオアシス路は、線で結ばれているのではなくて、面で繋がれているのだ。南北に結ばれた連絡路は、大きな網の目のように縦横に走っている。その網の目が、オアシスと呼ばれる都市国家である。
お互いのオアシスを結び合う、シルクロード。その主な機能は交易であり、東から西に絹が運ばれ、西から東へガラスが伝わっていった。
我が国に入ってきた仏教文化も、シルクロードを通ってインドから中国、朝鮮半島を経て渡来したのである。仏教文化は交易に付随した結果であり、シルクロードはまさに、東西文化の架け橋ともいえよう。
わたしはいつのころからか、そんなシルクロードに興味を持ち、しだいにその言葉が脳裏の隅々にまで響き渡っていったのだった。
東方の出発点といわれる中国・西安から、シルクロードの終着点でもあるイタリア・ローマまでの約12000km。出発点にもこだわらずに、シルクロードの古都を旅してきた。わたしの目で見た、シルクロードの現在の姿を紹介します。