陸前高田に行ってきました。読売旅行のバスツアーなので、各地を回ってやっと山越えの国道へ。
峠を越え、高速に乗って、一関インターで降りると、お弁当屋さんが待っていました。
そしてバスに乗ってきたのがこのちゃいち~お弁当。まだ、10時半だし…。
周りが食べ始め、約20分我慢して11時に昼食開始。
大好きなうには、煮こんですっかり味が抜けてました。でもおいしくいただきましたよ。
バスはその間、東へ東へと走り、陸前高田に到着。
道の駅「高田松原」
細かい瓦礫はないものの、中も周りも震災当時のまま残されていました。
鉄骨も壁もグニャグニャ、バラバラです。声が出ませんでした。
追悼施設ができていました。2013年1月に開所式をしたそうです。
どこに手を合わせたらよいかわからないままよりは、気持ちを寄せる場所があるのはいいかもしれません。
どの方向を向いて…なんて、関係ありません。
魂は、思い思いの大切な場所にきっとたどり着いているのですから。
近くの山はどんどん削られています。
陸前高田の山際から長い長いベルトコンベアができていました。
かさ上げのための土砂を運ぶためのものだそうです。
10億円かけて、3年でかさ上げ工事を終えて早く復興することを選んだ陸前高田。
これなしでダンプカーだけで運ぶと10年かかるそうです。
10年…子供は成長し、お年寄りは体の心配も増えてくる。復興支援が10年ちゃんと続くか保証もない。
「希望のかけ橋」と呼ばれるこのベルトコンベアは、人生のかけ橋です。
気仙中学校…震災遺構に指定されています。
風になびくぼろぼろのカーテンがとても切ない。
この中学校は、津波避難訓練、当日の適切な対応で全員助かったそうです。
地獄絵図を見せないように、将来トラウマにならないようにと、
先生方が後ろを見ないように声をかけながら高台に走ったそうです。
奇跡の一本松は、近くまで歩くと時間がかかるというので、
少し遠いけどちゃんと見えるところまで移動して、車窓から。
7万本の美しい松原が海岸線を彩っていたこと、夏は海水浴でにぎわったこと…
切ない話ばかりでした。
奇跡の一本松についてはこちら
http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/kategorie/fukkou/ipponmatu/ipponmatu-bokin/ipponmatu-bokin.html
ガソリンスタンドの高い看板も激しく壊れていました。
持ち主の岡本さんは、被害の記憶が風化しないように、これを残すことに決めたそうです。
駅前通り…えっ?ほんとに?
ガイドの菅野さんが震災前の写真と比べて話をしてくれました。
ここに○屋さんがあって、ここには△屋さんがあって…自分の住む街だったらと考えると恐ろしくなりました。
この高い3F建てのビルの持ち主米沢さんは、、この建物を残し、
震災を忘れないようにしようと屋上に看板を設置したそうです。
こんなに高いビルも飲み込んだ津波…どれだけ恐ろしかったか。
次は三陸鉄道南リアス線です。
発車時間まで時間があったので、高台にある駅から少し歩いてみました。
看板の周りは津波で何もありません。
Happy Birthday と書かれた看板が立っている、何かの碑がありました。
だれかの霊を弔うためのものでしょうか。
大津波資料館と看板が掲げられた、がれきで作った建物。子ども達と作ったと書いてありました。
2Fからのすべり台、ベンチ…集う場所が必要だったのでしょう。
ご自由にお入りくださいと書いてあったので中へ。
津波の恐ろしさを伝える写真や、止まったままの時計が飾られていました。胸が締め付けられます。
がれきの中から出てきたピアノが外に置いてありました。
学校の門柱。ここに学校があったのでしょうか。
三陸駅から東の方角。右の瓦の家の1Fまで波が来たそうです。すぐ向こうは海です。
三陸鉄道に乗車。すぐに売り子のおばちゃんが登場。
震災応援ツアーです。黒糖パンケーキ、豆餅などを買いました。
ハートの吊革。
電車のなかのミニ売店。干物などを売っていました。
盛駅で右の電車を下車。左はJRの代替バスです。
再びバスに乗り、中尊寺へ。ちゃいちい「ひっつみなべ」と稲荷2個。
1個は旦那様へ。お母さんも1つ旦那様へ。あちゃ~~
テレビで、ネットで、たくさん情報が発信されて、まったく知らなかったわけじゃないけど、
実際に現地に足を運び、震災・津波被害にあった方にお話を聞くことで、また違う思いを持ちました。
つらいけれど、嘘のようだけど、信じたくないけど…現実。
完全な復興なんてあるわけないけど、少しでも復興が進むことを祈り続けること、
「忘れずにいること」がわたし達にできること。
何ができるか、時々考えていかなくては。
峠を越え、高速に乗って、一関インターで降りると、お弁当屋さんが待っていました。
そしてバスに乗ってきたのがこのちゃいち~お弁当。まだ、10時半だし…。
周りが食べ始め、約20分我慢して11時に昼食開始。
大好きなうには、煮こんですっかり味が抜けてました。でもおいしくいただきましたよ。
バスはその間、東へ東へと走り、陸前高田に到着。
道の駅「高田松原」
細かい瓦礫はないものの、中も周りも震災当時のまま残されていました。
鉄骨も壁もグニャグニャ、バラバラです。声が出ませんでした。
追悼施設ができていました。2013年1月に開所式をしたそうです。
どこに手を合わせたらよいかわからないままよりは、気持ちを寄せる場所があるのはいいかもしれません。
どの方向を向いて…なんて、関係ありません。
魂は、思い思いの大切な場所にきっとたどり着いているのですから。
近くの山はどんどん削られています。
陸前高田の山際から長い長いベルトコンベアができていました。
かさ上げのための土砂を運ぶためのものだそうです。
10億円かけて、3年でかさ上げ工事を終えて早く復興することを選んだ陸前高田。
これなしでダンプカーだけで運ぶと10年かかるそうです。
10年…子供は成長し、お年寄りは体の心配も増えてくる。復興支援が10年ちゃんと続くか保証もない。
「希望のかけ橋」と呼ばれるこのベルトコンベアは、人生のかけ橋です。
気仙中学校…震災遺構に指定されています。
風になびくぼろぼろのカーテンがとても切ない。
この中学校は、津波避難訓練、当日の適切な対応で全員助かったそうです。
地獄絵図を見せないように、将来トラウマにならないようにと、
先生方が後ろを見ないように声をかけながら高台に走ったそうです。
奇跡の一本松は、近くまで歩くと時間がかかるというので、
少し遠いけどちゃんと見えるところまで移動して、車窓から。
7万本の美しい松原が海岸線を彩っていたこと、夏は海水浴でにぎわったこと…
切ない話ばかりでした。
奇跡の一本松についてはこちら
http://www.city.rikuzentakata.iwate.jp/kategorie/fukkou/ipponmatu/ipponmatu-bokin/ipponmatu-bokin.html
ガソリンスタンドの高い看板も激しく壊れていました。
持ち主の岡本さんは、被害の記憶が風化しないように、これを残すことに決めたそうです。
駅前通り…えっ?ほんとに?
ガイドの菅野さんが震災前の写真と比べて話をしてくれました。
ここに○屋さんがあって、ここには△屋さんがあって…自分の住む街だったらと考えると恐ろしくなりました。
この高い3F建てのビルの持ち主米沢さんは、、この建物を残し、
震災を忘れないようにしようと屋上に看板を設置したそうです。
こんなに高いビルも飲み込んだ津波…どれだけ恐ろしかったか。
次は三陸鉄道南リアス線です。
発車時間まで時間があったので、高台にある駅から少し歩いてみました。
看板の周りは津波で何もありません。
Happy Birthday と書かれた看板が立っている、何かの碑がありました。
だれかの霊を弔うためのものでしょうか。
大津波資料館と看板が掲げられた、がれきで作った建物。子ども達と作ったと書いてありました。
2Fからのすべり台、ベンチ…集う場所が必要だったのでしょう。
ご自由にお入りくださいと書いてあったので中へ。
津波の恐ろしさを伝える写真や、止まったままの時計が飾られていました。胸が締め付けられます。
がれきの中から出てきたピアノが外に置いてありました。
学校の門柱。ここに学校があったのでしょうか。
三陸駅から東の方角。右の瓦の家の1Fまで波が来たそうです。すぐ向こうは海です。
三陸鉄道に乗車。すぐに売り子のおばちゃんが登場。
震災応援ツアーです。黒糖パンケーキ、豆餅などを買いました。
ハートの吊革。
電車のなかのミニ売店。干物などを売っていました。
盛駅で右の電車を下車。左はJRの代替バスです。
再びバスに乗り、中尊寺へ。ちゃいちい「ひっつみなべ」と稲荷2個。
1個は旦那様へ。お母さんも1つ旦那様へ。あちゃ~~
テレビで、ネットで、たくさん情報が発信されて、まったく知らなかったわけじゃないけど、
実際に現地に足を運び、震災・津波被害にあった方にお話を聞くことで、また違う思いを持ちました。
つらいけれど、嘘のようだけど、信じたくないけど…現実。
完全な復興なんてあるわけないけど、少しでも復興が進むことを祈り続けること、
「忘れずにいること」がわたし達にできること。
何ができるか、時々考えていかなくては。