私的武士論

思いつくまま私の歴史に対するイメージを形にしていきます。

武士の所領とは

2023-11-10 19:00:02 | 日記

武士の所領って何だろう。

長い間疑問だった。荘園の所有者は、本家とか領家とかの貴族であり、武士たちは土地所有者ではない。歴史の本は、はっきりその答えを示してはくれない。唐突に所領という単語が出てくるだけである。

武士=ヤクザ

に当てはめて、ようやく納得する答えを得ることができた。

要するに所領とはヤクザの縄張りのことである。

こんにち我々が武士と呼ぶヤクザたちは、公権力が解決してくれない数々のトラブルをうまく処理してくれる存在だった。昭和のヤクザが民事不介入の警察に代わって、水商売のトラブルを処理していたような感じだ。当時は、ヤクザとの関係抜きに水商売をやっていくのは難しかった。平安・鎌倉時代はなおさら役人や警察が頼りにならなかったので、気は進まなくてもヤクザたちに頼らざるを得なかったのだ。

都の貴族たちも、ヤクザに頼らざるを得なかった。家臣を荘園に荘官として派遣しても、うまく年貢を取り立てることができない。背に腹は代えられないからヤクザに年貢取り立ての代行を頼むことになる。ヤクザを荘官に雇うこともあっただろう。その場合ヤクザには名誉だったので、畠山庄司などと誇らしげに名乗ったりしている。

ヤクザの力が強くなると、その縄張りには役人も手を出せなくなる。徴税、治安維持果ては祭祀までヤクザが執り行うようになる。縄張り争いは現在のヤクザ同様に武力衝突に発展する。これが武士の所領の実態だ。

源頼朝は、ヤクザたちの縄張りにお墨付きを与え、公的な裏付けを持たせた。
これが頼朝の権力基盤である。徒手空拳から手品のように大きな軍事力を持つタネがこれだった。


武士とヤクザ

2023-11-07 16:13:08 | 日記

武士=ヤクザ、武士団=暴力団

なのである。

非合法で未公認の暴力組織、それが武士である。

地方の有力者は、中央からの統制が緩く、好き放題にやっていた。今のヤクザと同様、いろいろなシノギによってかなり裕福だった。
シノギは今のヤクザと同様に、用心棒やショバ代稼ぎである。当てにならない警察に代わっていろいろなトラブルやいざこざを解決していた。用心棒は盗賊などから守ってやっていたが、盗賊もヤクザも大して代わらない連中である。いつ盗賊に早変わりしてしまうかもしれない。
当時の警察は、全く頼りにならなかったので、ヤクザたちは忌み嫌われつつもなくてはならない存在となってゆく。警察の側も、ヤクザに身を落とす者もおおくなる。どっちがどっちかわからないような世の中になっていったのである。

そして、貴族や役人たちもヤクザの力を便利に使うようになる。地方の年貢を都に運ぶにもヤクザの用心棒がいなければ無理である。貴族や役人の手下、正規の警察たちも頼りにならず、背に腹は代えられなかった。
ヤクザの方も、貴族や役人と結びつくことで、正式に官職をもらい、非合法組織から合法な組織へとカンバンを掛け替えることができた。現代の政治家に食い込むヤクザと同じである。正規の警察官になるヤクザも出てくることになる。

ヤクザというのは今も昔も仁義とかで格好をつけたがる。昭和のヤクザもやたらと古風で和風なセレモニーを好んだが、昔のヤクザたちも同じである。

警察どころか軍隊までもヤクザに代行させるところまでいってしまう。武力が必要な場面では正規の軍隊ではなく暴力団を使うようになる。天皇が武力討伐の命令を与えれば、その暴力団はもはや正規の軍隊ということになるのだ。

やがて、ヤクザを統括する者が現れ始める。源頼朝である。幕府というのは広域暴力団を率いる有力政治家が現れるようなイメージである。とうとうヤクザに国を乗っ取られた、それが武家政権というものの正しい姿だ。ヤクザたちは頼朝の家来、「御家人」となることで「侍」という地位を得る。

「侍」とは貴族である公卿、諸大夫の下の階級である。貴族の家来という意味合いの言葉だ。位階でいうと六位、七位の階層であり、庶民である「凡下」の一つ上の階層になる。一部の有力ヤクザは貴族である諸大夫の地位にまで上りつめた。

サムライ=武士 という誤解があるが、そうではないことがおわかりだろうか?日本人としてここだけは誤解のないようにしておこう。


私の日本史遍歴

2023-11-07 12:34:09 | 日記

小学生以来、長らく私のヒーローは鎮西八郎為朝、だった。
ちょっと変わっている。

名だたる坂東武者が束になっても倒せない、史上最強の武士である。
質実剛健、忠義一徹、一騎当千それが坂東武者、ヘロヘロ西国武士たちとは対照的な武士たち。そんな坂東武者が、対戦して生きて帰ったことが一生の自慢になるような男である。

やがて司馬遼太郎を読みふけり、大河ドラマを欠かさず見る。そんな少年に育っていった。

名だたる戦国大名は、関東御家人、坂東武者の末裔である。そうでない織田、豊臣は興味の範囲外だった。戦国のヒーローは武田信玄、名族甲斐源氏の直系であり、最強軍団を率いる大大名だ。

系図を見るのが大好きだった。

歴史は史料至上主義、文書(もんじょ)と系図がその中心だ。書かれていないことは歴史ではない。

だけど、色々と疑問に感じるようになった。人生経験を積むうちに色々と出てきた。

「そんな訳ないじゃん。」

例えば律令制、公地公民で天皇を頂点とした社会があった。墾田永年私財法などにより律令制が崩れて私有地荘園をもつ貴族の社会に変化した。と。

識字率が非常に低かった時代に、律令制を世の中に広げていくことが本当に可能だったのか?貴族ですらあの難解な律令を理解できる者はごく限られていたはずだ。民を従わせるためには役人が律令を噛みくだいて説明しなくてはならない。そんなことはとてもじゃないができなかったと思う。
律令制の時代なんか元々なかったんじゃないか?

坂東武者の大部分は桓武平氏だ。あまりにも多すぎる。天皇の子孫ばかりが繁栄する、そんなことあるだろうか?
そう考えると系図がとても信用できるものとは思えなくなる今の私は、源頼朝が清和源氏だということすらウソだと思っている。

そんな訳で、日本史のイメージが私の中でどんどん変化している。そのイメージをアウトプットしたくなった。

歴史の先生たちから見たら馬鹿げた妄想、ツッコミどころ満載でしょう。でもこれはあくまでも個人的見解、広げていくつもりはない。老後の些細な楽しみにしようとしているだけなのでご容赦願いたい。