堀田さんの 第33回 読書会で心に響いたのは、聖書に書かれてあることで、我々は神は我々をご自分に似せて創造されたという箇所だ。
しかし、白い髭を垂らした老賢人のイメージがあったとしても、今時、それを本当に、この言葉を文字通り受け取る人はいないだろう。 それでは 私たちは神の何を似せて作られたのか? 堀田さんは、それを「質」という言葉を使って表現された。
「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された」(創世記1章27節)
神には、形はない。 それは明白なことだ。
形があるということは有限であるということだから。
スピノザの神は自然科学的な法則の体系と重なる。 「神即自然(deus sive natura)」となる。 形ではなく、形を創造する法則とイメージしていいのかもしれない。 つまりそれは「質」の方に入る。 この姿勢は科学万能主義の現代には受け入れやすいものだろう。
しかし、奇跡講座の言う「質」は、この法則を超えたものを指している。
宇宙万物の法則自体は、エゴの思考体系により形成されたものだ。 だから、いくら科学者が神の指紋を読み解こうとしても、そこに本質はない。 たとえ、超ひも理論が完成しても、神には届かない。 地震がどうやって発生するか? 地震の全てがわかり、予想することが正確にできたとしても、神には届かない。 そしてこれを、ただ議論の土俵が違うと言って、形而上と、形而下の違いというようなことでは片づけられない。
エゴの思考体系とは全く違う聖霊の体系があると、奇跡講座は教える。
「形」は「質」の対義語ではないが、特定の文脈で対比されることがある。 目に見えるのと見えないものと言えば、わかりやすいかもしれない。 奇跡講座の言い方では「形」は我々が神から分離して、誤創造したものである。
この言葉を改めて聞いて、自分の中で反芻した時、バラバラに散らばっていたものが、さっと一つにまとまったような気がした。
奇跡講座の「忘れられた歌*」には、こう書いてある。
*T-21.Ⅰ.6~7
耳をすましなさい。 おそらくあなたは、完全に忘れ去られていない往古の状態を、かすかに思い出すだろう。 それはおぼろげなものかもしれないが、全く馴染みのないものではない。 まるで、とうの昔に題名を忘れた歌のようであり、 あなたはそれをどこで聞いたかも少しも覚えていない。 その歌の全部ではないが、特定の人や場所や物などに付随してはいない旋律のほんの一部が、あなたと共にとどまっていた。 それでも、このほんのわずかな断片から、あなたはその歌の麗しさや、それを聞いた時の素晴らしい情景や、その場にいてあなたと共にそれを聞いた者たちを自分がどれほど愛していたかを思い出す。 その歌の調べ自体は無である。 それでもあなたが、それを自分の中に抱き続けたのは、その調べそのもののゆえにではなく、それが思い出せば、涙せずにいられないほど愛おしく大切なものの記憶を、そっと呼び覚ますものだからである。 あなたは思い出せる。 だが思い出せば、これまで自分が学んだこの世界を失うことになると信じて、恐れているのである。 それであなたは、これに比べれば、 自分で学んだ世界の中にあるどんなものも、その半分も大切でないということを知っている。 耳をすましなさい。 そして、はるか昔にあなたが知っていた往古の歌を、覚えているかどうかを確かめなさい。 その歌は、大切にするようにとこれまで自分に教えてきたどんな旋律よりもずっと大切にされてきた歌である。
Listen,-perhaps you catch a hint of an ancient state not quite forgotten; dim, perhaps, and yet not altogether unfamiliar, like a song whose name is long forgotten, and the circumstances in which you heard completely unremembered. Not the whole song has stayed with you, but just a little wisp of melody, attached not to a person or a place or anything particular. But you remember, from just this little part, how lovely was the song, how wonderful the setting where you heard it, and how you loved those who were there and listened with you.
7 The notes are nothing. Yet you have kept them with you, not for themselves, but as a soft reminder of what would make you weep if you remembered how dear it was to you. You could remember, yet you are afraid, believing you would lose the world you learned since then. And yet you know that nothing in the world you learned is half so dear as this. Listen, and see if you remember an ancient song you knew so long ago and held more dear than any melody you taught yourself to cherish since.
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耳をすますと、はるか昔に我々が知っていた往古の歌を思い出す。 奇跡講座では我々にさんざん、しつこいくらい我々が「神の子」であることを述べる。 ところが、我々は自分が「神の子」だなんて、これほどしっくりいかないことはない。 試しに誰かの前で「あなたも、私は神の子だ」と言ったら、自分が不正直者の偽善者だと証明しているような気分にならないだろうか?
我々が一人残らず、神の子なのは、「神は人を自分のかたち(質)に創造された」からだ。
そしてその記憶が我々に残っている。 残っているという表現は実は正しくない。 元々そちらの方が、本質だからだ。 デフォルトだからだ。 このことをじっくりと染み込ませていきたい。
そしてここで、もう一つ奇跡講座で頻繁に出てくるもう一つの言葉がある。 それは、「想念は源を離れない*」という言葉だ。 これは「内的状況の外的映像」と同義だ。 これも最初のころは、何が何だかわからなかった。
これも我々は神の子以外にはなれないということを明確に示している。 孫悟空が釈迦の手から一歩も外に出られないようなものであり、サルトルがいくら『自らの意志により自らを定義することができる』と叫ぼうが、それらは虚偽にならざるを得ない。
*T-26.Ⅶ.4
知覚の法則は真理とは正反対であり、 智識について真実であることは、智識から離れているいかなるものについても真実ではない。 だが、 彼は病んだ世界に答えを与えた。 そしてその答えは、そのすべての形に適用できる。 彼の神の答えは永遠であるが、 それが必要とされている場である時間の中でも働く。 だが、それは神からのものであるから、時間の法則はその働きに影響を及ぼすことは無い。 それはこの世界の中にあるが、 世界の一部ではない。 なぜなら、それは実在するものであり、実相の全てがある所に存在するからである。 想念はその源を離れないので、その結果は想念から離れているように見えるだけである。 想念は心に属するものである。 外に投影されて、 心の外にあるように見えるものは、決して外側にあるのではなく、 内側にあるもの結果であり、その元を離れてはいない。
Perception's laws are opposite to truth, and what is true of knowledge is not true of anything that is apart from it. Yet has God given answer to the world of sickness, which applies to all its forms. God's answer is eternal, though it works in time, where it is needed. Yet because it is of God, the laws of time do not affect its workings. It is in this world, but not a part of it. For it is real, and dwells where all reality must be. Ideas leave not their source, and their effects but seem to be apart from them. Ideas are of the mind. What is projected out, and seems to be external to the mind, is not outside at all, but an effect of what is in, and has not left its source.
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ワプニック先生は、形を超えたものについて、彼の好きなベートーヴェンとフルトヴェングラーをひいて、こんなことを言った。
以下引用:
重要なのは歌そのものであり、音符自体は無意味です。しかし、その歌は誰もが持っています。それは私たちの統一の歌です。それは、大文字の「S」(true Self)で表記される、私たちの真の自己の歌です。それは、ここの何とも関係のない歌です。そして、私にとって、それはベートーベンが到達した歌です。ある指揮者は、ベートーベンとモーツァルトについて、ベートーベンの音楽は天国に届き、モーツァルトの音楽は天国から来ると言いました。
ですから、モーツァルトの音楽には、おそらくすべてのものが愛の反映として見られますが、ベートーベンには、彼の作品が本当にプロセスであるため、天国の平和と愛、そしてその歌を実際に体験できるでしょう。そして、音符の向こう側に耳を傾ければ、それが聞こえてくるのです。
しかし、私たちが皆この世界に、この肉体の中にいる理由は、その歌を恐れてそこから逃げてきたからです。ですから、もしあなたが人々の話を本当に聞けば、その愛に対するブロックや防御が聞こえてくるでしょう。以前にシューベルトについて話したとき、彼のセカンド・トリオ(ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調 D.929 )で私が聞くことができたのは、彼が立ち止まったところがあるということでした。ベートーベンが続けたところ、それをシューベルトはそこで立ち止まり、「私はそこには行かない」と言いました。
そこにはブロックがあり、すべてのブロックは恐れ、恐れの表現です。イエスは多くの異なる場所で、すべての夢の核心は恐れであると語っています。そしてもちろん、罪や罪悪感なども付け加えることができますが、恐れが核心です。そして、最初にエゴの腕の中に私たちを駆り立てた究極の恐れは、その歌を私たち自身にすることへの恐れです。
なぜなら、その歌の前では、すべての音符が消え、私たちは音符として存在することを好みます。私たちは具体的であることを好みます。私たちはすべてが秩序正しくあることを好みます。フルトヴェングラーはかつて、彼は指揮者に対して、ワーグナーほどの激しい非難ではありませんでしたが、非常に批判的で、ある指揮者の言葉を引用し、その指揮者が誰であるかは明言しませんでしたが、その指揮者が、オーケストラを完璧にリハーサルし、パフォーマンスに彼自身が必要ないほどになったとき、指揮者の仕事は完了する。なぜなら、すべてが決まっていて、音楽がどこに行くか正確にわかるからだと言ったのですが、フルトヴェングラーにとっては、まさにその反対で、彼の演奏、特にライブ演奏を聴けば、多くの間違った音符や、間違った入り方を聞くでしょう。 オーケストラがいつも完全に合っているわけではありませんが、あなたの息をのむような、リズムの広がりを聞くでしょう。
It's the song itself that is what is important, but the notes itself is nothing. But that song is in everyone. That's the song of our oneness. That's the song of our true Self with a capital S. That's the song that has nothing to do with anything here. And, again, for me that's the song that Beethoven attained. A conductor once said of Beethoven and Mozart that Beethoven's music reaches Heaven and Mozart's music comes from Heaven.
So what you'll find in Mozart's music probably everything is just a reflection of that love, but what you find in Beethoven, again because his work really is a process, is you really experience the attainment of that peace of Heaven and that love and that song. And then when you listen beyond the notes that's what you hear.
However the reason we all are in this world, in this body, is that we are terrified of that song and we have fled from it. And so if you really listen to people what you will hear will be the block or the defense against that love. So when I spoke about Schubert earlier what I was able to hear in his Second Trio was that there was a place where he stopped. Where Beethoven continued Schubert stopped and he said I am just not going to go there.
There's a block and all blocks are fears, are expressions of fear. In many different places Jesus tells us that the core of every dream is fear. And of course you could also add sin and guilt, etc., but fear is the core. And the ultimate fear, which is what drove us into the arms of the ego in the first place, is the fear of letting that song be who we are.
For in the presence of that song all the notes disappear and we like being a note. We like being specific. We like having everything orderly. Furtwangler used to say, and he could be quite critical of conductors, not quite what the vituperation Wagner was, but he was quite critical of conductors who felt and he quoted one conductor, he never named who he was, saying that a conductor has done his job when he has rehearsed the orchestra so perfectly that he's not even necessary for the performance because everything then becomes very set and you know exactly where the music is going to go.
And for Furtwangler it's exactly the opposite. So that if you listen to any of his performances especially the live ones you'll hear lots of wrong notes, you'll hear some false entrances, the orchestra is not always quite together, but you will hear a sweep, a rhythmic sweep that will take your breath away.