goo blog サービス終了のお知らせ 

Northern Bear Spirit

気づいたこと 奇跡講座 哲学 宗教 スピリチュアル

形を超えたもの by northern bear

2025-04-13 20:20:50 | ノート

堀田さんの 第33回 読書会で心に響いたのは、聖書に書かれてあることで、我々は神は我々をご自分に似せて創造されたという箇所だ。
しかし、白い髭を垂らした老賢人のイメージがあったとしても、今時、それを本当に、この言葉を文字通り受け取る人はいないだろう。  それでは 私たちは神の何を似せて作られたのか?  堀田さんは、それを「質」という言葉を使って表現された。

「神は人を自分のかたちに創造された。/神のかたちにこれを創造し/男と女に創造された」(創世記1章27節)

神には、形はない。 それは明白なことだ。 
形があるということは有限であるということだから。

スピノザの神は自然科学的な法則の体系と重なる。 「神即自然(deus sive natura)」となる。 形ではなく、形を創造する法則とイメージしていいのかもしれない。 つまりそれは「質」の方に入る。 この姿勢は科学万能主義の現代には受け入れやすいものだろう。

しかし、奇跡講座の言う「質」は、この法則を超えたものを指している。

宇宙万物の法則自体は、エゴの思考体系により形成されたものだ。 だから、いくら科学者が神の指紋を読み解こうとしても、そこに本質はない。 たとえ、超ひも理論が完成しても、神には届かない。 地震がどうやって発生するか? 地震の全てがわかり、予想することが正確にできたとしても、神には届かない。 そしてこれを、ただ議論の土俵が違うと言って、形而上と、形而下の違いというようなことでは片づけられない。

エゴの思考体系とは全く違う聖霊の体系があると、奇跡講座は教える。 

「形」は「質」の対義語ではないが、特定の文脈で対比されることがある。 目に見えるのと見えないものと言えば、わかりやすいかもしれない。 奇跡講座の言い方では「形」は我々が神から分離して、誤創造したものである。 

この言葉を改めて聞いて、自分の中で反芻した時、バラバラに散らばっていたものが、さっと一つにまとまったような気がした。

奇跡講座の「忘れられた歌*」には、こう書いてある。

*T-21.Ⅰ.6~7
耳をすましなさい。 おそらくあなたは、完全に忘れ去られていない往古の状態を、かすかに思い出すだろう。 それはおぼろげなものかもしれないが、全く馴染みのないものではない。  まるで、とうの昔に題名を忘れた歌のようであり、 あなたはそれをどこで聞いたかも少しも覚えていない。 その歌の全部ではないが、特定の人や場所や物などに付随してはいない旋律のほんの一部が、あなたと共にとどまっていた。 それでも、このほんのわずかな断片から、あなたはその歌の麗しさや、それを聞いた時の素晴らしい情景や、その場にいてあなたと共にそれを聞いた者たちを自分がどれほど愛していたかを思い出す。  その歌の調べ自体は無である。 それでもあなたが、それを自分の中に抱き続けたのは、その調べそのもののゆえにではなく、それが思い出せば、涙せずにいられないほど愛おしく大切なものの記憶を、そっと呼び覚ますものだからである。 あなたは思い出せる。 だが思い出せば、これまで自分が学んだこの世界を失うことになると信じて、恐れているのである。  それであなたは、これに比べれば、 自分で学んだ世界の中にあるどんなものも、その半分も大切でないということを知っている。  耳をすましなさい。 そして、はるか昔にあなたが知っていた往古の歌を、覚えているかどうかを確かめなさい。 その歌は、大切にするようにとこれまで自分に教えてきたどんな旋律よりもずっと大切にされてきた歌である。  
 Listen,-perhaps you catch a hint of an ancient state not quite forgotten; dim, perhaps, and yet not altogether unfamiliar, like a song whose name is long forgotten, and the circumstances in which you heard completely unremembered. Not the whole song has stayed with you, but just a little wisp of melody, attached not to a person or a place or anything particular. But you remember, from just this little part, how lovely was the song, how wonderful the setting where you heard it, and how you loved those who were there and listened with you.

7 The notes are nothing. Yet you have kept them with you, not for themselves, but as a soft reminder of what would make you weep if you remembered how dear it was to you. You could remember, yet you are afraid, believing you would lose the world you learned since then. And yet you know that nothing in the world you learned is half so dear as this. Listen, and see if you remember an ancient song you knew so long ago and held more dear than any melody you taught yourself to cherish since.
---------------------------------------------------

耳をすますと、はるか昔に我々が知っていた往古の歌を思い出す。 奇跡講座では我々にさんざん、しつこいくらい我々が「神の子」であることを述べる。 ところが、我々は自分が「神の子」だなんて、これほどしっくりいかないことはない。 試しに誰かの前で「あなたも、私は神の子だ」と言ったら、自分が不正直者の偽善者だと証明しているような気分にならないだろうか?

我々が一人残らず、神の子なのは、「神は人を自分のかたち(質)に創造された」からだ。
そしてその記憶が我々に残っている。 残っているという表現は実は正しくない。 元々そちらの方が、本質だからだ。 デフォルトだからだ。 このことをじっくりと染み込ませていきたい。

そしてここで、もう一つ奇跡講座で頻繁に出てくるもう一つの言葉がある。 それは、「想念は源を離れない*」という言葉だ。 これは「内的状況の外的映像」と同義だ。 これも最初のころは、何が何だかわからなかった。

これも我々は神の子以外にはなれないということを明確に示している。 孫悟空が釈迦の手から一歩も外に出られないようなものであり、サルトルがいくら『自らの意志により自らを定義することができる』と叫ぼうが、それらは虚偽にならざるを得ない。

*T-26.Ⅶ.4
知覚の法則は真理とは正反対であり、 智識について真実であることは、智識から離れているいかなるものについても真実ではない。 だが、 彼は病んだ世界に答えを与えた。  そしてその答えは、そのすべての形に適用できる。  彼の神の答えは永遠であるが、 それが必要とされている場である時間の中でも働く。 だが、それは神からのものであるから、時間の法則はその働きに影響を及ぼすことは無い。 それはこの世界の中にあるが、 世界の一部ではない。 なぜなら、それは実在するものであり、実相の全てがある所に存在するからである。 想念はその源を離れないので、その結果は想念から離れているように見えるだけである。 想念は心に属するものである。  外に投影されて、 心の外にあるように見えるものは、決して外側にあるのではなく、 内側にあるもの結果であり、その元を離れてはいない。  
 Perception's laws are opposite to truth, and what is true of knowledge is not true of anything that is apart from it. Yet has God given answer to the world of sickness, which applies to all its forms. God's answer is eternal, though it works in time, where it is needed. Yet because it is of God, the laws of time do not affect its workings. It is in this world, but not a part of it. For it is real, and dwells where all reality must be. Ideas leave not their source, and their effects but seem to be apart from them. Ideas are of the mind. What is projected out, and seems to be external to the mind, is not outside at all, but an effect of what is in, and has not left its source.
-------------------------------------------------

ワプニック先生は、形を超えたものについて、彼の好きなベートーヴェンとフルトヴェングラーをひいて、こんなことを言った。

以下引用:
重要なのは歌そのものであり、音符自体は無意味です。しかし、その歌は誰もが持っています。それは私たちの統一の歌です。それは、大文字の「S」(true Self)で表記される、私たちの真の自己の歌です。それは、ここの何とも関係のない歌です。そして、私にとって、それはベートーベンが到達した歌です。ある指揮者は、ベートーベンとモーツァルトについて、ベートーベンの音楽は天国に届き、モーツァルトの音楽は天国から来ると言いました。

ですから、モーツァルトの音楽には、おそらくすべてのものが愛の反映として見られますが、ベートーベンには、彼の作品が本当にプロセスであるため、天国の平和と愛、そしてその歌を実際に体験できるでしょう。そして、音符の向こう側に耳を傾ければ、それが聞こえてくるのです。

しかし、私たちが皆この世界に、この肉体の中にいる理由は、その歌を恐れてそこから逃げてきたからです。ですから、もしあなたが人々の話を本当に聞けば、その愛に対するブロックや防御が聞こえてくるでしょう。以前にシューベルトについて話したとき、彼のセカンド・トリオ(ピアノ三重奏曲第2番変ホ長調 D.929 )で私が聞くことができたのは、彼が立ち止まったところがあるということでした。ベートーベンが続けたところ、それをシューベルトはそこで立ち止まり、「私はそこには行かない」と言いました。

そこにはブロックがあり、すべてのブロックは恐れ、恐れの表現です。イエスは多くの異なる場所で、すべての夢の核心は恐れであると語っています。そしてもちろん、罪や罪悪感なども付け加えることができますが、恐れが核心です。そして、最初にエゴの腕の中に私たちを駆り立てた究極の恐れは、その歌を私たち自身にすることへの恐れです。

なぜなら、その歌の前では、すべての音符が消え、私たちは音符として存在することを好みます。私たちは具体的であることを好みます。私たちはすべてが秩序正しくあることを好みます。フルトヴェングラーはかつて、彼は指揮者に対して、ワーグナーほどの激しい非難ではありませんでしたが、非常に批判的で、ある指揮者の言葉を引用し、その指揮者が誰であるかは明言しませんでしたが、その指揮者が、オーケストラを完璧にリハーサルし、パフォーマンスに彼自身が必要ないほどになったとき、指揮者の仕事は完了する。なぜなら、すべてが決まっていて、音楽がどこに行くか正確にわかるからだと言ったのですが、フルトヴェングラーにとっては、まさにその反対で、彼の演奏、特にライブ演奏を聴けば、多くの間違った音符や、間違った入り方を聞くでしょう。 オーケストラがいつも完全に合っているわけではありませんが、あなたの息をのむような、リズムの広がりを聞くでしょう。
It's the song itself that is what is important, but the notes itself is nothing. But that song is in everyone. That's the song of our oneness. That's the song of our true Self with a capital S. That's the song that has nothing to do with anything here. And, again, for me that's the song that Beethoven attained. A conductor once said of Beethoven and Mozart that Beethoven's music reaches Heaven and Mozart's music comes from Heaven.
So what you'll find in Mozart's music probably everything is just a reflection of that love, but what you find in Beethoven, again because his work really is a process, is you really experience the attainment of that peace of Heaven and that love and that song. And then when you listen beyond the notes that's what you hear.
However the reason we all are in this world, in this body, is that we are terrified of that song and we have fled from it. And so if you really listen to people what you will hear will be the block or the defense against that love. So when I spoke about Schubert earlier what I was able to hear in his Second Trio was that there was a place where he stopped. Where Beethoven continued Schubert stopped and he said I am just not going to go there.
There's a block and all blocks are fears, are expressions of fear. In many different places Jesus tells us that the core of every dream is fear. And of course you could also add sin and guilt, etc., but fear is the core. And the ultimate fear, which is what drove us into the arms of the ego in the first place, is the fear of letting that song be who we are.
For in the presence of that song all the notes disappear and we like being a note. We like being specific. We like having everything orderly. Furtwangler used to say, and he could be quite critical of conductors, not quite what the vituperation Wagner was, but he was quite critical of conductors who felt and he quoted one conductor, he never named who he was, saying that a conductor has done his job when he has rehearsed the orchestra so perfectly that he's not even necessary for the performance because everything then becomes very set and you know exactly where the music is going to go.
And for Furtwangler it's exactly the opposite. So that if you listen to any of his performances especially the live ones you'll hear lots of wrong notes, you'll hear some false entrances, the orchestra is not always quite together, but you will hear a sweep, a rhythmic sweep that will take your breath away.


見るということ         (心眼についてのノート)  by northern bear

2025-04-08 10:50:58 | ノート

見るということ         (心眼についてのノート)

○ フランクル 霜山徳爾訳,『夜と霧』,みすず書房にこう書かれている。

強制収容所にいたこの若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時彼女は快活であった。「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」と言葉どおりに彼女は私に言った。「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」その最後の日に彼女はまったく内面の世界へと向いていた。「あそこにある樹はひとりぽっちの私のただ一つのお友達ですの。」と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。「この樹とよくお話しますの。」と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。役女は譫妄状態で幻覚を起しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。「樹はあなたに何か返事をしましたか? ─ しましたって! ─ では何て樹は言ったのですか?」彼女は答えた。「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる ─ 私は ─ ここに ─ いる。私はいるのだ。永遠のいのちだ…。」

-------------------------------------------------

○ 映画 ノー・アザー・ランド 故郷は他にない

破壊される故郷を撮影するパレスチナ人青年と、彼の活動を支えるイスラエル人青年の友情を、2023年10月までの4年間にわたり記録したドキュメンタリー。2024年・第74回ベルリン国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞と観客賞を受賞し、第97回アカデミー賞でも長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

ヨルダン川西岸のパレスチナ人居住地区マサーフェル・ヤッタで生まれ育ったバーセル・アドラーは、イスラエル軍による占領が進む故郷の様子を幼い頃からカメラに収め、世界へ向けて発信してきた。そんな彼のもとに、自国政府の非人道的な行為に心を痛めるイスラエル人ジャーナリストのユバル・アブラハームが訪ねてくる。同じ思いで行動をともにし、パレスチナ人とイスラエル人という立場を越えて対話を重ねるなかで、2人の間には友情が芽生えはじめる。しかしその間にも軍の破壊行為は過激さを増し、彼らが撮影する映像にも痛ましい犠牲者の姿が増えていく。

この映画の非凡なところは、ただ、悲惨な状況をメッセージとしてアピールするだけではなく、その中でも、子どもたちは遊びを忘れず、笑い合うところを見ているところだ。 パレスチナ人とイスラエル人の二人は、共に夕陽の美しさを見つめる。 絶望的悲惨な状況の中にも彼らは「今、ここ」にそれらを超えた何ものかを見ている。

-------------------------------------------------

○ みにくいむすめ 作: レイフ・マーティン 絵: デイビッド・シャノン 岩崎書店

これはアメリカ先住民の民話で、二人の姉にいつもいじめられていた顔にやけどを負った醜い娘の美しく神秘的なシンデレラ物語の絵本。

「見えない人の姉が、人を見る時は、その人の目をまっすぐにみつめるのです。そうすれば、その人の心のなかが、なにもかもすっかりわかるのでした。」

上の二人にはその「見えない人」が見えない。 それに対してみにくい末娘は見える。
見えない人の姉が質問する。


弟の弓はなにでできているか?
- あの方の弓? それはもちろん大空に架かる虹ですわ!
弟のそりはなにでできているか?
- あの方のそり? それはもちろん夜空にまたがる天の川 魂の道ですわ!

-------------------------------------------------

○ 「冬の光」      イングマール・ベルイマン監督

1963年公開のスウェーデン映画で、「神の不在」をテーマにした三部作(『鏡の中にある如く』『沈黙』『冬の光』)の最終作。
スウェーデンの寒村を舞台に、信仰の危機に直面する牧師トーマスの内面的葛藤を描く。

神の沈黙と人間の愛が対比的に描かれる。トーマス牧師は妻の死後、信仰と人間関係の両方で無力感に苛まれる。信者の自殺未遂者への対応失敗や、献身的な女教師マルタへの冷たい態度を通し、神の不在と人間の限界が浮き彫りにされる。

この映画の終盤で、自殺事件直後に一瞬の光が差し込んでくる。 しかし、この牧師はそれを知らない。 見ていない。

-------------------------------------------------

○ 叔母の死  
わたしは遠方に住んでいたため、自分の両親の死に付き添うことができなかった。 その代わり、同じ札幌に住んでいた叔母の晩年から死と葬儀まで付き添ったが、これは私にとって初めての経験だった。 教会の一室にお腹の上に氷を載せた叔母の死体が横たわっており、葬儀屋が来るまで、しばらく一人で叔母の横に座っていた。 他に誰も身寄りがなかったのだ。 小さな部屋には、死体と自分しかいない。 しかしよくホラー映画に出てくるような死の恐怖のようなものは全く無かった。 そのうち、葬儀屋の人が来て、叔母の体を手際よく、そして丁寧に敬意を込めて整えていった。 
それを見ていて心が安らいだ。 それどころか、荘厳な何かを見た。 これは全く予想していなかったことだ。

-------------------------------------------------

○ エクソシスト TVシリーズ
よくある悪魔祓いの話だが、この悪魔祓いの神父が言ったことが印象に残った。 因みにわたしが若い頃、通っていたカトリックの修道会にはバチカン公認の本物のエクソシストがいた。彼らには我々にも役に立つような知恵があり、その中に「悪魔は我々の過去の記憶を改ざんする」ということがある。 悪魔が実際にいるか、いないかということは今は問題ではない。 いずれにせよ、それは幻だからだ。 しかし確実なことはエゴは、我々の記憶を改ざんするということだ。  

我々が鬱状態のときは、自分の今までの人生に良いことは一つもなかったと思い込む。 悪いエピソード記憶だけが、悪い脚色をされてますます悪く、救いようもなく、再現される。 我々が躁状態のときは、その逆になる。 しかしこのどちらも真実ではない。 過去は変えられないと言われるが、実は過去に起こったことの記憶はいとも簡単に改ざんされる。 実際に過去のそのエピソードが起こったときには、我々が保持している記憶よりも遥かに多くの事が起こっている。 それらは、我々が良いとか悪いとか判断する以前の、一見関係のないような事柄まで実は影響しており、そのことは我々自身がその時、その場で否応なく、そう選択し、また他者がそう選択したしたのだ。 その時まで絶対に信頼していた人が、裏切ったということがあるならば、その人の裏切り行為には、その時、その場では否応なく、動かしがたい理由があったのだ。 しかし私自身には、それが見えない。 また、たとえ、その時、その場で、その最もな理由が見えていても、記憶にはとどまらない。 記憶は、ただ、絶対に信頼していた人に裏切られたという信念と心的苦痛だけが残る。
投影が知覚を作り出す。 人はその心に思うごとく知覚する。 それは過去の知覚の記憶にも当てはまる。

-------------------------------------------------

マタイ13章 14-17        新共同訳
イザヤの預言は、彼らによって実現した。
『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍り、
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
耳で聞くことなく、
心で理解せず、悔い改めない。
わたしは彼らをいやさない。』
しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

-------------------------------------------------

T-14.Ⅹ.7:3~6
あなたは内容にではなく形態に、あまりにも縛られている。 あなたが内容とみなすものは、全く内容ではない。それは形態に過ぎず、それ以外の何物でもない。 というのは あなたは兄弟が本当にあなたに指し出しているものに応答しているのではなく、彼の差し出すものについて自我が判断する基準となる特定の知覚に応答しているだけだからである。

-------------------------------------------------

W.161.2~3.1
完全な抽象性が、心の自然な状態である。  しかし今は、心の一部が不自然になっている。 その部分は、すべてのものを一つと見ていない。 その代わりに全一なるものの断片だけを見ている。 それ以外に、今あなたが見ているような断片的な世界を作り上げることはできない。 「見る」という行為はすべて、自分の見たいと願うものを自分に見せることを目的としている。  「聞く」という行為はすべて、あなたの心が聞きたがっている音を、あなたの心にもたらすだけである 。 こうして具体性のある個別のものがつくられた。  だから今、私たちの練習において、具体的なものを使わなければならない。 私たちはそれらを聖霊に預ける。 そうすれば、私たちが与えていた目的とは違った目的のために、聖霊がそれらを使えるようになる。 しかし聖霊が私達に教えるために使えるのは、私たちが作り出したものだけである。 それを使って、異なった視点から私達に教え、私たちはすべてのものに異なった用途を見ることができるようになる。  

-------------------------------------------------

T-21.Intro.1
投影が知覚を作り出す。 あなたに見えている世界は、あなた自身がそこに与えたものであり、それ以上のものではない。しかし、それ以上でないとは言え、それ以下でもない。 したがって、あなたにとって、 それは重要である。 それはあなたの心の状態を証するものであり、 内的状況の外的映像である。 人はその心に思うごとく知覚する。だから、世界を変えようとするのはやめなさい。 そうではなく、 世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。  知覚は結果であって、原因ではない。 だからこそ、奇跡における難しさの序列というものは無意味なのである。  心眼(ビジョン)で見る一切は癒やされており、神聖である。  心眼(ビジョン)を通さずに知覚されるものは何も意味しない。 そして意味がないところには、混沌がある。

-------------------------------------------------

○ 奇跡
今朝、明け方に見た悪夢のせいで、うつ状態になっていた。 
私の内的状況は過去と未来と、現在の自分の身体的病状の不安と恐怖に揺さぶられていた。聖霊に助けを求めた。 いつもの通り、返事は直ぐにはこない。 だが、朝のZOOM瞑想の時、ふと机の上のバラのドライフラワーを見て、奇跡が起こった。 そう言うとなにか大げさだが、奇跡講座では、それは超常現象のことではない。(しかし、ある意味ではこれも超常現象と言える。) 奇跡とは聖なる瞬間への移行のことであり、ごく自然で正常なこととして理解されている。 
-------------------------------------------------
W.PⅡ-13.1
奇跡とは訂正である。 それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない 。 奇跡はただ惨状(devastation、荒廃)を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると、心に思い出させるだけである。 それは誤りを取り消すが、知覚を超えるところまで進もうとせず、赦しの機能を超えようともしない。  それ故に、奇跡は時間の枠内にとどまる。 それでもそれは、 超時性が戻って愛が目覚めるための道を開く。 奇跡がもたらす優しい癒しの下では、恐れは必ず消えていくからである。
-------------------------------------------------

今、見ているバラの花は私にとって、突然、アンカー(錨)のような存在になった。 幻想とは何か? それは移ろいゆくもの、消えていくもの、モータル(mortal)なものだ。それ自体では現象できないものだ。

それに対して、このバラはドライフラワーであって、言わば死体のようなものだが、それにも関わらず、確固とした存在があった。 これも幻であるに違いないのだが、実在する形にならないものを象徴していた。 たぶん、フランクルが記述したカスタニエンの樹を見た女性が思ったことを、ほんの少しだけ私も感じたのかも知れない。 これが奇跡講座が言うところの心眼(ヴィジョン)なのかも知れない。

私はここにいる ─ 私は ─ ここに ─ いる。
私はいるのだ。永遠のいのちだ…。

W.161.3.1
今、私たちの練習において、具体的なものを使わなければならない。 私たちはそれらを聖霊に預ける。 そうすれば、私たちが与えていた目的とは違った目的のために、聖霊がそれらを使えるようになる。 しかし聖霊が私達に教えるために使えるのは、私たちが作り出したものだけである。 それを使って、異なった視点から私達に教え、私たちはすべてのものに異なった用途を見ることができるようになる。
-------------------------------------------------

○ よく見ること。 ただ見つめること。

よく見ること、ただ見つめることとは、感覚器官としての眼からの情報の奥に、何かを見ようとすることだ。 私達はそれを聖霊に預けることによって異なった視点を得ることができる。 そのためには、静かになり、何もせず、待って、判断しないことだ。

「赦しは静かに、何もせず、ただ見つめ、待ち、判断しない。(裁かない)」

"Forgiveness is still and quietly does nothing. 
It merely looks, and waits, and judges not." 

W.Ⅱ.1.4-5
一方赦しはじっと静かにしていて何もしない。 実相のどの側面も害することはせず、自らが好む外観へと捻じ曲げようともしない。ただ見て待つのみであり判断はしない。 赦そうとしないものは価値判断をせずにはいられない。 赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。 しかし自分自身を赦そうとするものは必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。 
だからあなたは何もせずにいなさい。そして何をなすべきかは聖霊による赦しを通して教えてもらいなさい。 聖霊はあなたの導き手、救済者、保護者であり、強い希望を抱き、あなたが最後には成功を収めると確信している。 聖霊はすでにあなたを赦している。それが神から聖霊に与えられた機能だからである。 今度はあなたが聖霊の働きを共有し、聖霊が救ったものを赦さなければならない。 聖霊は彼の無罪性を見ており、神の子である彼を讃えている。 


対話 ルパート・スパイラ & ルパート・シェルドレイク    意識の本質

2025-03-20 12:23:47 | ノート

対話 ルパート・スパイラ & ルパート・シェルドレイク    意識の本質

Rupert Spira & Rupert Sheldrake: The Nature of Consciousness
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=zVLczQNVE9Y&t=115s

対話者紹介 
-------------------------------------------------
*ルパート・スパイラ
現代の非二元的な精神性と覚醒に関する著名な教師および作家。1960年生まれ。幼少期から現実の本質に強い関心を持ち、17歳から瞑想を学び始めた。

スパイラは20年にわたって古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統を研究し、実践した。その間、ピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシなど、多くの精神的教師の叡智を探究した。

スパイラの教えは、気づきの本質や永続的な安らぎと幸福に焦点を当てており、非二元性の概念をシンプルに説明することで知られる。

*ルパート・シェルドレイク 1942年生まれ。
イギリスの元ケンブリッジ大学フェロー、生物学者、超心理学者として知られる。 彼は「形態形成場仮説」または「モルフォジェネティク・フィールド仮説」として知られる独自の理論を提唱した。

シェルドレイクの主要な理論
シェルドレイクの仮説の核心は以下の通り:
あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受け、継承される。
離れた場所で起こった出来事が、他の場所の出来事に影響を与える可能性がある。形態だけでなく、行動パターンも「共鳴」する。これらの現象は「形の場」による「形の共鳴」というプロセスによって起こるとされる。

シェルドレイクは、記憶や経験が脳ではなく、種ごとの「サーバ」のような場所に保存されているという仮説も提唱している。
-------------------------------------------------

Sheldrake:  こんにちは、ルパート・シェルドレイクです。 もう一人のルパートと一緒にいます。 これは、瞑想を教え、意識の本質について語るルパート・スピラとの対話です。 これは、彼が長年研究と実践を捧げてきたテーマです。 

ルパート、あなたは意識をどう捉えているかをお聞きしたいのですが、私はこれを意識の観念論哲学と見なしていますが、西洋観念論哲学の伝統と関連があると考えていますか、それとも関連があるとは考えていませんか?

Spira:  関連性はパルメニデス*(Parmenides)まで遡ればあります。 

-------------------------------------------------
*訳注: パルメニデス
パルメニデス(古希: Παρμενίδης, Parmenidēs)は、紀元前520年頃から紀元前450年頃に活躍した古代ギリシアの哲学者。南イタリアのエレアに生まれ、エレア学派の創始者として知られる。

思想と貢献
パルメニデスは、哲学史上初めて「ある」という概念を論理的に探求した人物。彼の主要な思想は以下の通り:
「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」という原則を提唱。
真の存在は唯一、不変、永遠であると主張。
感覚による認識を「臆見」(ドクサ)とし、理性による認識を「真理」(アレーテイア)とした。 変化や多様性は錯覚であり、実在ではないと考えた。

著作と影響
パルメニデスの思想は、教訓詩『自然について』(ペリ・フュセオース)の断片として現存する。彼の哲学は後世に大きな影響を与え、以下の点で重要とされている:
論理学の祖、合理主義の祖、存在論の祖と呼ばれる。
存在と非存在、存在と思惟という哲学の重要な問題を提起。
後の認識論や存在論の発展に寄与。
-------------------------------------------------


Sheldrake:  はい。 

Spira: パルメニデスは、すべての人やすべてのものが、一見独立した存在として現れているのは、単一の不変の無限の現実から来ていると信じていました。 私もまったく同じように考えます。 この単一の無限の不変の現実の本質は何かと聞かれたら、それは意識だと答えるでしょう。 

Sheldrake: そうですね、それはとてもシンプルで率直な答えですね。 確かに、答えよりも疑問が多くなりますが、とても明快です。 ありがとうございます。 今日、非常に似たような見解を唱えている別の哲学者、ベルナルド・カストラップ*(Bernardo Kastrup)を私は知っています。 あなたの見解と彼の見解はかなり一致していると言えますか? 

---------------------------------------------------
*訳注:Bernardo Kastrup
ベルナルド・カストラップは、1974年10月21日にブラジルで生まれたオランダの哲学者であり、コンピュータ科学者。 意識研究の分野での研究、特に分析哲学の伝統に根ざした形而上学的観念論の一形態である分析観念論の発展で最もよく知らる。 

カストラップは2つの博士号を取得。 1つはアイントホーフェン工科大学でコンピューター工学の博士号を取得しており、再構成可能なコンピューティングと人工知能に焦点を当てている。 もう1つはナイメーヘン・ラドバウド大学で哲学の博士号で、心の哲学と存在論に焦点を当てている。 

現在、カストラップは分析観念論の研究と教育を推進するエッセンシア財団のエグゼクティブディレクターを務めている。 彼の研究は、現実は本質的に精神的であるという概念である形而上学的観念論の現代のルネッサンスのきっかけとなる影響力を持ってる。 
---------------------------------------------------

Spira: はい、ベルナルドと私は、私たちの結論は非常に似ていると思います。 私たちはまったく異なる2つの経路から結論に至りました。 ご存知のように、私はアドヴァイタ・ヴェーダーンタとカシミール・シャイヴァ*(Kashmir Shaivite)派の伝統で教育を受けました。 ベルナルドは科学と西洋哲学を通じてこれに至りました。 

---------------------------------------------------
*訳注: カシミール・シヴァ派
カシミール・シャイヴァ、またはカシミール・シヴァ派は、ヒンドゥー教の一派で、9世紀頃にカシミール地方を中心に栄えた不二一元論の思想を持つ宗派。 この派は、解脱に至る道の系統としてマントラ道(Mantramārga)に分類される。 

哲学的立場:不二一元論を採用し、個我を含む世界の全てがシヴァ神であると考える。 
---------------------------------------------------

ベルナルドは私と同様、意識を本質とする単一の現実があると信じています。 そして、私たちが物理的宇宙として認識するものは、その意識の活動が局所的な視点からどのように見えるかです。 これもまた私の見解です。 

私は、夢の中で起こることとの類推を通じてこれにたどり着きました。 私たちが夜に夢を見るとき、私たちは自分の心の中で夢の中の世界を夢見ますが、夢の中の世界を自分の心から直接知覚することはできません。 夢の中の世界を知覚するためには、私たちは自分自身を局所化する必要があります。 私たちは夢の中の登場人物として自分の想像の世界に入り込む必要があり、その人物の視点から、私たち自身の心の活動が外の世界として現れます。 そして、これは究極の夢想家、つまり無限の意識の非常に良いモデルを与えてくれると私は思います。 その活動は宇宙です。 言い換えれば、宇宙は究極的には意識の活動であり、物質でできた実体ではないと私は思います。 しかし、それは古典的な方法で現れます。 その世界内の局所的な心の視点からのみ、物質でできているように見えます。 言い換えれば、私たち一人一人の心の視点から見てです。 

Sheldrake: なるほど。 では、これはおそらく歴史上これに最も近いイギリス人、またはアイルランド人の哲学者であるバークリー*の哲学に似ているのでしょうか?  世界を夢見る人の考えは神であり、ご存知のとおり、すべてが心の中にあるなら、見ていないときに木はそこにあるのか?  すると、彼の答えは、自然界全体が神の心の中にあり、神の意識によって支えられている、というものです。  あなたが言っていることは、それと似ているのでしょうか? 

-------------------------------------------------
*訳注:  ジョージ・バークリー(George Berkeley)
ジョージ・バークリー(George Berkeley)は、1685年3月12日にアイルランドのキルケニーに生まれ、1753年1月14日に逝去した18世紀の著名な哲学者および聖職者。

バークリーは、イギリス経験論の代表的な哲学者の一人として知られる。彼の哲学の中心的な主張は「存在するとは知覚されることである」(Esse est percipi)という根本命題に要約される。この観念論的な立場から、バークリーは物質的実体の存在を否定し、知覚される観念と、それを知覚する精神のみを実在するものとした。

彼の哲学は、ロックの経験論を継承しつつも、それを観念論の方向へ発展させた。バークリーは抽象的普遍観念の存在を否定し、知覚される個別的な観念のみを認めた。

バークリーの哲学は、同時代には広く受け入れられませんでしたが、後のスコットランド学派やデイヴィッド・ヒューム、ジョン・スチュアート・ミルを経て、20世紀の経験論にまで大きな影響を与えた。
-------------------------------------------------

Spira: 類似点もあると思いますが、違いもあります。 それは… 木は、別の心で認識されていないときに存在するのではなく、私たちが今認識している木は、宗教的な言葉を使うなら、神の心の活動であるということです。  神は、無限で分割できない、無限の意識全体を表す伝統的な用語だと思います。 私たちが今、木として認識しているものが、まさにそれです。 私たちの有限の心が認識していないときに、それが神の心の中に存在しているわけではありません。 むしろ、それは今や神の心の活動、または意識の活動なのです。 しかし、有限の心、または局所的な視点で認識されると、それは物質でできた個別の物体として現れます。 

Sheldrake:  ふむふむ。 

Spira: つまり、類似点はありますが、バークレーとまったく同じではありません。 

Sheldrake:  なるほど。 しかし、この哲学全体がほとんどの人にとって直感に反する理由は、科学者として育てられた私も含めて、私たちが通常抱いている見方は、自律的な物理世界です。 私たちが見ていないときでも、神の心が星、惑星、銀河を支えているのなら、自然全体が継続的な連続性を持っているという見方もあるでしょう。 それはバークリーの見解に近いでしょう。 しかし、あなたはそうではないと言っています。

それは新しいことです。…あなたがここにいないときにそれらがすべてそこに存在すると仮定するのは、不必要な仮定にすぎません。 

Spira: これはあなたには非常に過激に聞こえるかもしれませんが、私たちが見ていないときにそれらがそこにないと思うだけでなく、本当にそこにいるとは思いません。 つまり、私たちが外の世界を眺めるとき、これらの木々を眺めるとき、それらは意識から独立しているように見えます。 それらは意識の外にある物質から作られた、独自の独立した存在であるように見えます。 それが物質の定義です。 意識の外に存在するものです。 

私は、それらが今でもそのように存在しているとは思いません。 私は、世界が現実ではないと言っているのではありません。 世界は非常に現実的だと思います。 ですから、これはよくある誤解です。 アドヴァイタ・ヴェーダーンタのアプローチでは、世界は非現実的であると退けられています。 私は世界は非常に現実的だと思います。 しかし、これを探求していくと、その現実は物質ではなく意識であることがわかります。 つまり、世界は幻想です。 幻想であるものと、現実ではないものの間には誤解がよくありますが、なぜそうなるのかは理解できると思います。たとえば、夜にカリブ海のビーチを夢に見るとき、そのカリブ海のビーチは幻想であり、現実ではないからです。 

Sheldrake:  ふむふむ。 

Spira: しかし、この文脈では、幻想とは現実のものですが、見た目どおりではないということだと思います。 ですから、私は世界が実に現実的であると考えています。 実在しないものが非常に現実的であることに気付きませんが、その現実は究極的には意識であり、物質と呼ばれる死んだ無生物ではありません。 しかし物質は意識の外に存在するだけでなく、意識を生み出すと信じられています。 

Sheldrake:  ええ、ええ。私はそれについて完全に同意します。つまり、唯物論的な見方は、世界が物質でできており、少なくとも無生物で、非意識の物質でできており、それが宇宙の歴史全体を通して進化し、複雑な脳の中で説明のつかない方法で意識に到達すると考えています。

Spira: はい。 

Sheldrake:  それは皆さんが育てられてきた一般的な見解です。ただし、私自身はそのような見解はとっていません。 私は…私は確かにそうでした。私はクリスチャンであり、究極の現実を三位一体と見ています。そして、私が聖三位一体をどのように理解しているかというと、そこには意識の基盤があり、それはおそらく不変であり、存在の基盤、父、子、聖霊です。それはヒンドゥー教の見方におけるサット=チット=アーナンダ*によく似ています。 そして、存在の基盤はすべてのものの根底にある意識であり、意識の中に一緒に存在すると彼らは言います。 チットはヒンズー教徒が名前と形、ナマ・ルーパ*と呼ぶものであり、キリスト教の三位一体ではロゴスであり、それはプラトンの形やアイデアの領域、そしてそれらの名前と形に似ています。 これらは、私たちが木に名前を付けるときに、私たちの心の中にある概念です。 私たちの心の中には、木のテンプレートのようなもの、つまり、木の理想的な形、または少なくとも以前の木の記憶があり、それによって木の形を木として識別できます。 茂みや車輪や自転車や道路ではなく、木は明らかに異なります。したがって、それは自然界に存在する形にも対応しています。 プラトンの教義では、形は神の心の一部である内部の原型の反映です。
-------------------------------------------------
*訳注:   サット・チット・アーナンダ
サット・チット・アーナンダは、ヒンドゥー教の哲学において人間の本質(真我)を表す重要な概念。この三つの要素は以下のように説明される:

サット(存在):永遠に存在し、自立しているもの。意識によって認識されるすべてのもの。

チット(意識):世界を認識し、自己を認識する能力。多くの人が日常的に体験している自己意識のこと。

アーナンダ(至福):制限から解放された状態、または深い喜びと満足感を表す。

これら三つの側面は、人間の真の本質が体や心ではなく、より深い次元にあることを示唆している。

この概念は、仏教の「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」やキリスト教の三位一体「父と子と聖霊」など、他の宗教的概念とも本質的に類似した意味を持つとされている。

-------------------------------------------------
*訳注: ナマ・ルーパ
ナマ(名):感情(vedanā)、認識(saññā)、意思(cetanā)、接触(phassa)、作意(manasikāra)
ルーパ(色):四大要素と、四大要素に依存するもの 
---------------------------------------------------

Spira: はい。 

Sheldrake: キリスト教のバージョンはより動的です。 なぜなら、神の心を持つだけでなく、世界に反映される形を生み出すからです。 三位一体の3番目の部分は精神です。 これは風、息、空気などの動く原理であり、エネルギー、または科学者がエネルギーと呼ぶものとして物理世界に現れます。 したがって、物事のエネルギーは、物事に現実性を与え、現実性へのリースを提供し、他の物事に作用する能力を与えます。 現代科学では、エネルギーがとる形は、あらゆるエネルギーを振動パターンに組織化するフィールドによって与えられます。 

Spira: そうです。 

Sheldrake:  そして、それらの共通の源は神の心にあります。 ですから、私がその木を見ると、ある種のロゴスに根ざし、エネルギーが流れている一種の組織化フィールドの現れとして見えます。 その究極の源は意識的な心かもしれません。 それは一種の汎神論的な見方です。 神は自然の中にあり、自然は神の中にあります。 事物の形とエネルギー、つまり事物を現実にしているものが幻想であるのではなく、実際に神の性質の一部であるという考え方です。

Spira: そうです。 

Sheldrake:  いいえ、それはあなたの言っていることとは違うはずですが、よくわかりません。 

Spira: では、最初におっしゃった存在の基盤と、すべてのものとそれとの関係は何ですか?誕生、でもそれは、考え、銀河、バラ、木、何であれ、存在するものすべてそうです。存在は、絶対にすべてのものの共通要素です。 

Sheldrake: その通りです。 

Spira: そして、すべてのものの共通要素であるため、何にも限定できず、したがって無制限でなければなりません。 

Sheldrake: はい。 

Spira: または無限。 無限の存在、私が示唆しているのは、伝統的に神と呼ばれているものです。 

Sheldrake: そうですね、三位一体には父なる神がいます。

Spira: 神、あなたの父、神、神格、思考。 

Sheldrake: 神格はエックハルトによれば、三位一体を超越しています。三位一体は、神が世界とどのように接するかを示すモデルですが、それ自体は私たちの理解を超えています。神格は、そのような区別化の前に存在します。

Spira: はい、わかりました。 では、それについて話してもいいですか? 神が…神格が究極、答えであり、それが三位一体に分化し、その後顕現するものであるならば、この究極の、絶対的な現実とすべての人、そしてすべてのものとの関係は何ですか?

Sheldrake: そうですね、この絶対的な絶対、または究極の現実は、存在するすべてのものの存在の基盤です。 

Spira: そして、そこにあるもの、存在するものがありますか? それとは別に、または究極的にはそれとは異なるものが存在しますか? またはそれとは異なるものが存在したことはありますか?

Sheldrake: いいえ。 ですから、すべてのものはこの究極の存在の中にある、あるいはこの究極の存在に根ざしていると言えるでしょう。 

Spira: そして、おそらくその言葉が使えるのであれば、それ自体以外には何も作られていないので、その存在から作られているのでしょう。 

Sheldrake: はい。 

Spira: その意味では、あなたと私は、非常に異なる方法で再定式化していますが、その理解を共有しています。 それはバガヴァッド・ギーターで表現されている理解です。 決して存在しなくなるものはなく、存在しないものは決して存在することはありません。 つまり、すべてのものがその顕現であり、その存在する性質は、究極的にはこの単一の、無限の、そして分割不可能な現実または故郷(home)にたどることができます。 

Sheldrake: はい、私もそう思います。 そのようです。

Spira: 私たちは同意しているようですね。 

Sheldrake: そうですね。 実際、私たちは何かを見つけました。 それは最初は非常に異なっているように聞こえますが、聖書の創世記の記述ではやや曖昧ですが、創造に関する神学的考察では、トマス・アクィナスは、創造はex nihilo(ラテン語:無から)、つまり無からの創造であり、宇宙の神の創造は無からであるという結論に達しました。 言い換えれば、他に何もないので、それは神から出たものでなければならないということです。 それは神から出たものである可能性があります。 つまり、すべては神の存在に根ざしています。

Spira: そうです。 

Sheldrake:  それはどこか別の場所にある存在の独立した源ではなく、したがってすべては神の存在に根ざしているに違いありません。 

Spira: ええ、そうです。 私は神の存在が非常に顕著であると感じています。 そして、すべてのものと同様に、それはすべての存在そのものです。 しかし、それは超越するか、超越しないかは別として、あらゆる形態に先立っています。 つまり、それはすべての形態において顕著ですが、それ自体には固有の形態がありません。 そして、それが理由で、それ自体は形がないため、あらゆる可能な形態の形をとることが可能です。 つまり、それは内在的であり、超越的でもあるのです。 

Sheldrake:  ええ、私は実際、それと非常によく似たことを考えていると思います。 というのは、私はインドのアシュラムに2年間滞在したのですが、ファーザー・ビート・ブレナン・グリフィス(father beat Brennan Griffis)のアシュラムにいました。彼はタミル・ナドゥにインドスタイルのアシュラムを持つベネディクト会の修道士でした。 英語では聖三位一体のアシュラム、インドの言語ではサッチタナンダ・アシュラム(Satchitananda Ashram)と呼ばれていました。 ビート神父は、サット=チット=アーナンダ*である意識の至福と、三位一体、父、子、聖霊との間の非常に明確な関係があること述べました。 ロゴスは、ナザレのイエスだけではありません。 明らかに、ニカイア信条では、彼を通してすべてのものが作られたことを非常に明確にしています。 それは、形式とより限定された存在の宇宙原理という考え方です。 それが子が父から生じる理由です。 父は広い存在であり、子は父から生まれます。 つまり、必ずしも時間的に優先されるのではなく、年代順に優先する必要がないものについて話しているからです。 しかし、聖三位一体には、存在の原理と最初の現れ、つまり神が聖書に最初に啓示されたモーセに対する「私はある。私はあるものである」という現れにおいて、優先順位があります。 したがって、それは究極の源の定義として、現在の意識的な存在です。

Spira: はい。 そして、「私はある」という知識は、誰もが例外なく心の中で輝いています。 
これらの問題に関心があるかどうか、知能が高いか低いか、健康かどうか、何が好きか、経験の状況に関係なく、誰もが例外なく「私はある」と言うことができます。 ほとんどの場合、「私はある」という知識、つまり存在の感覚は、経験によって修飾されています。 それは私たちの経験と混ざり合っています。 したがって、ほとんどの人は純粋な「私はある」を感じていません。 「私は45歳または65歳である」「私は男性または女性である」と感じています。 しかし、経験、私たちの思考、感情、歴史から得られるすべての性質を取り除いた基本的な「私はある」は、神の存在であると思います。 言い換えれば、神はすべての自己のまさに自己なのです。 彼は私たちの中で「私」または「私はある」という知識として輝くものです。 その存在が経験から得たすべての制限を取り除かれたとき、それが神の祈りです。 神の存在が私たちに近いということではありません。 神の存在が近い個々の自己は存在しないからです。 そして私は、存在する唯一のものは神の自己、純粋な存在であると思います。 そして、人間、つまり人は、一時的な経験に囲まれた神の無限の存在を覆う、見かけ上の制限です。 

Sheldrake:  ええ、人間だけではありません…。

Spira: 人間だけではなく、すべてのものにおいて、絶対にそうです。 神の存在は、人間の中で「私はある」という知識として輝き、世界の中で「それはある」という知識として輝き、物事の存在性として輝くと言えるでしょう。 そして、私たち自身の存在性は、同じ無限の存在です。

Sheldrake:  ええ、でも、おそらくこの「私はある」という認識にはさまざまなレベルがあるのでしょう。 つまり、おそらくすべての動物には何らかの認識があり、すべてが何らかの認識を持っています。 植物にはある種の認識があるかもしれませんし、星にもある種の認識があるかもしれません。 しかし、もしそうだとしたら、その認識の基本的な基盤は、単に「私はある」と定義することでしょう。 

Spira: 私はそうは思いません…。 植物、星、植物、動物、さらには人間でさえも、認識があるとは思いません。 意識や認識は、星、岩、人間など、どんな存在の属性でもないと思います。 逆に意識は他のすべてを持っています。 意識を持つものはありません。(意識は持たれるものではなく、)意識や認識は、今や私たちがそれを呼べる最も基本的な要素であり、何かの属性ではないと私は考えています。 他のすべては、その属性です。 たとえば、人間は意識を持っていない、または意識があると思います。 意識があるのは意識だけだと思います。 意識だけが気づいています。 

Sheldrake:  わかりました。 でも、意識だけが気づいていると言うなら、この神聖な意識は宇宙全体と自然全体を通して気づいているので、その意味では全知です。 

Spira: そうです。 でも、それは、自然に現れるものすべてが意識があるという意味ではありません。 いや、例えば、個々の心を取ると、個々の心は意識の場であり、思考や感覚はその心に現れ、その心に現れるものはすべて明らかにその心からできています。 しかし、思考や感覚自体は意識的ではありません。 

Sheldrake:  はい。 

Spira: それは意識でできていますが、自己意識ではありません。 ですから、木や岩や星が意識の中に現れるのと同じ理由で、究極的には意識でできていますが、自己意識ではないと私は思います。 

Sheldrake:  そうかもしれません。 私は今、「役に立たない無意識」(Useless Unconscious)というタイトルの本を書いていますが、その中で太陽は意識があると主張しています。 

Spira: わかりました。 そのエッセイを楽しみにしています。 なぜなら、意識は誰かの属性でも、何かの属性でもなく、意識だけが意識的であるということを示唆したいからです。 

Sheldrake:  しかし、私たちの中で、私たちが自分の存在を意識できるようになったり、自分の存在に気付いたりできるようになったりしたら、太陽も同じようなことができるのではないでしょうか。 

Spira: できないと思います。 なぜなら、私たち人間が自分の存在を意識するわけではないからです。 意識は太陽のようなものです。 自ら発光します。 太陽は常に自らを照らしています。 意識もそのようなものです。 常に自分自身を認識していますが、その知識は、思考、知覚、感情など、他の事柄に関する知識と混ざり合っています。 その結果、その知識は経験によって薄れ、暗くなります。 その知識が完全に隠されることは決してありませんが、他の事柄に関する知識によって不明瞭になります。 言い換えれば、意識が経験と混ざり合うとき、それ自体についての知識は、回帰の旅である祈りまたは瞑想と呼ばれるものによって、意識が経験から得たすべての制限を取り除き、再び明るく輝きます。

雲が晴れたときに、太陽の明るさが明らかになるようなものです。それは常にそこにあり、常に輝いており、常に照らしていました。ですから、再び意識は常にそれ自体を知っており、意識だけが意識を意識することができ、意識だけが認識し、常にそれを認識しているので、その本質は自己認識です。

太陽がそれ自体を照らすことができないのと同じように、それはそれ自体を知らないということではありません。それはそれ自体の知識と混ざり合っており、その結果、経験によって確保されています。ですから、言い換えれば、自分の存在を認識する人間や動物ではなく、常に意識が意識であり、そして、それがそれ自体を忘れたり、経験の中でそれ自体を失ったりするので、再びそれ自体に戻ってきて、それ自体を再び知る必要があるように見えますが、人間が意識の経験をすることは決してありません。常に意識がその経験をしています。

Sheldrake: 意識は太陽や人間以外の動物でその経験をしますか? それとも、この能力は人間に限定されていると思いますか? 

Spira: いいえ。それは何かではないと思います。別の例を挙げてよろしいですか? 

リア王の役を演じた俳優のジョン・スミスを想像してください。リア王とは何ですか? それは一連の思考と知覚にすぎません。ジョン・スミスが想定しています。 したがって、ジョン・スミスは一連の思考と知覚を想定し、あらゆる意図と目的のためにリア王になります。 そのジョン・スミスが自分が俳優のジョン・スミスであることを忘れ、自分がリア王であると本当に信じ、感じたと想像してください。そして、その結果、彼は不幸になり、ジョン・スミスは自分がリア王の役になりきっているため、劇の終わりにジョン・スミスに戻ることを忘れてしまいます。したがって、彼の友人が彼を祝福するために楽屋に来たとき、友人が惨めな姿の彼を見つけ、「素晴らしかったよ。でも、なぜあなたは惨めなの?」と聞きます。 そして、リア王は彼の娘の名前で彼の経験を語ります。彼の友人は「ばかなことを言わないで。あなたは自分が惨めだから惨めなのではない。 あなたは自分が誰であるかを忘れてしまったんだ。 あなたは本当は誰なんだ?」と聞きます。 彼は自分がイングランドの王である、3人の娘の父親であると言います。 彼の友人は、「いや、あなたはそうじゃないでしょ。 あなたはイングランドの王になる前は何だったの? あなたは3人の娘の父親になる前は何だったの?」と聞きます。 このようにして、彼の友人はリア王に、自分の本質的な自己に遡るように教えます。そして、ある時点で、「私はジョン・スミスだ」という認識が戻ります。 その認識、「私はジョン・スミスだ」という認識は、リア王の人生には起こりません。リア王の人生とは何の関係もありません。

それをあなたの質問に関連付けると、私たち一人一人が、「私は本当に誰なのか」という質問を自分自身にするとき、私たちは自分の道を遡り、私は常に58歳であったわけではない、私は常に結婚していたわけではない、私は常に父親であったわけではないと、自分の道を遡っていきます。そして、ある時点で私たちの裸の存在の認識があります。その認識は、人であることとは何の関係もありません。私は、それが人の中で起こるとは思いません。その瞬間に、私たちは人であることをやめ、無限の意識として明らかにされます。したがって、意識の認識が人、または動物、または植物、または太陽、または何かに起こるとは思わないのです。
 
Sheldrake:  そうですね、あなたがそのように言うことができることはわかります。 人間に起きると考えなければ、あなたはそれについて教えないでしょう。 私の質問は、これが人間に起きる可能性があるとしたら、人間以外の生物に起きる可能性があるかどうか、ということです。 たとえそれが、誰かが意識を持っているのではなく、意識が自分自身に気づくことであってもです。 

Spira: はい、もし私たちが、すべての経験、存在するすべてのもの、名前と形に包まれた意識の可能性を受け入れたり、その可能性を検討したりできるなら…。
ウィリアム・ブレイクが言ったことを思い出してください。 

「空を切り裂くすべての鳥は、五感に囲まれた無限の喜びの富である」

ですから、私たちは、すべてとすべての人を、究極的には、彼らが言うところの存在の光の意識の広大な世界と見なし、すべてとすべての人は、名前と形をまとった意識の衣服であると考えます。 そして、その経験のいずれにおいても、意識は、それがどのように現れようとも、その名前と形を脱ぎ捨て、自分自身を認識することができます。 

Sheldrake: それは素晴らしいビジョンです。 そして、それは、つまり、自然界を違った見方で見る助けになります。 私たちは、これが自然界に対するあなたの見方を変えることに気づきました。 それはただあなたの不在ということですか? 

Spira: いいえ。 それは私のすべてのものに対する見方を変えます。 なぜなら、私は年を取るにつれて、経験がその現実を覆い隠す能力を失っていることにますます気づいているからです。 ですから、私はますます、すべての人とすべてのものが同じ共通の存在であり、物体自体の多様性と多様性、その脱ぎ捨てられた存在を覆い隠す能力が、年を取るにつれてますます透明になっていると感じています。 ですから、私はすべての人とつながっていると感じます。 愛の経験とは、私たちが存在を共有する経験であり、美の経験もまったく同じ経験だと思いますが、私たちが存在を共有する物や自然との関係において、それは私の人生に非常に現実的な影響を与えています。 

Sheldrake: そうですね、私自身のこれらの物事の解釈方法も、私の人生に非常に似た影響を与えていると思います。 つまり、結局のところ、私たちは非常に異なることを言っているのではなく、異なる方法で表現しているだけなのかもしれません。 

Spira: はい、人間のことを知る限りでは、私たちが何か非常に異なることを言っているとは思いません。 私たちは異なる方法でそれに取り組んでいます。 あなたと私は異なっており、あなたは私がそうであるよりも科学的なチャンネルを通してそれに向かっているので、私たちのサット・チット・アーナンダと三位一体の解釈はわずかに異なるかもしれませんが、それらはすべて中間的な違いであり、それほど多くも、重要でもなく、私たちは基本的な理解を共有していると感じています。

Sheldrake: その結論に達することは非常に良いことです。私たちは自然の本質についてもっとたくさん話すことができると確信しています。しかし、これはおそらく最初の会話として十分でしょう。このことは非常に素晴らしいことです。

Spira: ありがとうございました。 夏に出るあなたのエッセイを楽しみにしています。 とても興味深く、心を開いて読みたいと思います。 


赦しと瞑想  by Northern bear

2025-02-09 11:56:35 | ノート

赦しと瞑想  by Northern bear

 

赦しは 静かに、何もせず、ただ見つめ、待って、判断しない。

瞑想をするときも、静かに、何もせず、ただ自分の内を見つめ、待って、判断しない。

瞑想は赦しなのだ。

数人の人と一緒に瞑想をする時、

わたしたちはひとつになる。

なぜなら、わたしたちは皆、静かになり、何もせず、ただ見つめ、待って、判断しないからだ。  そこになんの分離もない。 わたしたちはひとつになる。

分離は眼を外に向け、他の人と区別し、善悪を判断し、様々な違いを比較し、過去と未来を思考し、大声を上げる。

私たちの原初の間違いは分離からおこった。

バラバラな私たちの心の奥底にある遠い記憶が、このひとつの故郷へ還ろうと呼んでいる。

私たちは、

瞑想する度に、

自分がいなくなる度に、

赦す度に、

ひとつの故郷にある愛と安らぎを確かめている。

 


心の旅路:ローレンス・フリーマン神父OSBへのインタビュー

2025-01-03 09:51:10 | ノート

心の旅路:ローレンス・フリーマン神父OSBへのインタビュー - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5LKcTZAvCgQ

ノート:
ローレンス・フリーマン神父はベネディクト会修道士であり、世界キリスト教瞑想コミュニティのディレクター。
瞑想について探していたところ、この神父にたどり着いた。 ベネディクト会と言えば、カトリック教会最古の修道会であり、いわば瞑想のエキスパート。
このYoutubeでは肝心の瞑想についてはあまり詳しく聞けなかったが、下記の言葉は心に響いた。 

「瞑想は祈りであり、…… 祈りには様々な形があります。祈りを、様々なスポークを持つ大きな車輪だと考えてください。スポークは、礼拝、聖書、嘆願、巡礼、様々な霊的な実践を表しています。しかし、その車輪の中心には、すべてのスポークが収束するハブがあります。そこには、仏教徒が「無」と呼ぶもの、道教徒が「無」と呼ぶものがあります。しかし、その「無」はエネルギーの中心なのです。」

------------------------------------------------------------------

以下訳:

 

質問者: ローレンス神父、本日はお話しする機会をいただき、ありがとうございます。数週間後に開催される「科学と知恵のライブカンファレンス」を前に、このような機会を得られたことを嬉しく思います。今回の対話に、神父をお迎えできることを心待ちにしております。今日は、少し個人的な質問もさせていただき、神父のことを深く知りたいと思っています。神父は、非常に興味深い人生を歩んでこられたと思います。本日は、本当にありがとうございます。

Laurence: お会いできて大変嬉しいです。どんな質問にもできる限りお答えします。

質問者: ご丁寧にありがとうございます。
それでは、最初の質問です。神父の子供時代についてお聞かせください。今の神父を形作る上で、重要な出来事があれば、共有していただけますか?

Laurence: もし差し支えなければ、少しずるをして、3つの出来事を挙げてもよろしいでしょうか。その理由は、一つを考えると、いつも不完全な気がするからです。しかし、この3つは、本質的に人の人生の一つの経験が、多様性をもって展開するにも関わらず、神秘的な統一を保っているという、3つの側面を形成しているように思えるからです。

さて、最初の出来事は、私が非常に幼い頃の記憶の一つです。
何歳だったのかさえ覚えていません。母が車かタクシーで迎えに来るのを待っていたのです。しばらくの間、母と離れていたので、家に帰るのがとても楽しみでした。とても暖かい夏の日のことで、空気がバラの香りで満ちていたのを覚えています。車が到着するのを待つ興奮を覚えています。

そして、車が到着した時、私は小さな子供のように歓喜し、なぜか木の陰に隠れました。このことは、瞑想について書かれた「無知の雲」という本をいつも思い出させます。

私たちは、神を見つけるために、神から隠れるというものです。とにかく、それは大きな期待、大きな喜び、そしてバラの香りや車の匂いといった素晴らしい感覚的な記憶でした。
それは、真の欲求の本質と、それが満たされた時の象徴なのかもしれません。

2つ目の記憶は、私が初めて瞑想について聞いた時です。大学1年生の時、私の師であり、霊的な教師であるジョン・メインというアイルランドの修道士と会いました。私は、人生における様々な疑問について話し合うために、彼を訪ねました。そして、会話の終わりに、彼は瞑想について、非常に軽いタッチで、思いがけず話しました。「あなたは瞑想しなければならない」といったものではありませんでした。

本当に、この教えを非常に軽やかに、私の前や周りに広げたような感じでした。しかし同時に、私はそれが、沈黙と統一と存在の体験に入りたいという、より深いレベルで、私の心の中で何かを目覚めさせたことを知っていました。
ちゃんとした瞑想の習慣を身につけるまでに、それから数年かかりましたが、それでも、それが始まりでした。

そして、3つ目は、私が現在いる、フランスにある国際センター、ボンヴォに到着したことでしょう。3年ほど前のことです。私たちは、新しい国際センターを探していて、様々な場所を見て、推奨されたものの、どれもピンと来ませんでした。そして、少し落胆し始めていた時、私たちはここに着き、角を曲がってボンヴォを見た時、それがもともと12世紀のベネディクト会修道院だったということもあり、ここだと確信しました。残念ながら、たくさんの作業と修復が必要でしたが、まだ続いています。しかし、それは一種の明快さと、帰郷感でした。

この3つをどう結びつければ良いのか分かりませんが、それらの間には、根本的なテーマがあると思います。

質問者: それらはすべて、ある意味で、家のように感じる、深い意味と重要性のあるものを見つけるという、異なる方法なのです。

Laurence: そうです。それは帰郷についてもです。チベットの伝統では、瞑想という言葉は、自分自身に慣れ親しむという意味だと考えられています。瞑想を、家に帰るような感覚だと表現する人も多いですね。

質問者: 自分自身を発見するような瞬間、自分が誰であるか、そして、より大きな目的のために、どのように世界と関わっているのかを発見する瞬間です。とても素敵なお話です。

それでは、日常生活についてもう少しお伺いします。今日の日常生活で、あなたが最も満足を感じるのはどんな時ですか?また、他者に貢献していると感じるのはどんな時ですか?

Laurence: そうですね、私はたくさんのことで喜びを感じます。音楽、文学、自然の一部であることなどです。しかし、もっと公式な言い方をすれば、瞑想自体が最も満足を得られるものだと思います。瞑想は、偉大な基盤であり、常に新しく、常に新鮮です。もちろん、外的な経験は変化するかもしれませんが、本質的には、常に正しい行いをし、正しい道に関わっているという感覚があります。そして、もちろん、自分の人生が再調整、再設定されるという感覚もあります。ですから、瞑想という行為自体が、私にとっては大きな喜びです。私たちはここで、1日に4回以上瞑想をしています。

次に、瞑想がどのようにコミュニティを形成するのかを見ることです。瞑想を共にすることで、お互いにコミュニティを形成し、それがどこにいても、他の人たちとのつながりを意識するように促します。瞑想がコミュニティを形成すること、それは私の人生におけるテーマであり、私たちの活動における洞察の一つです。私は、それを、ユートピア的な意味で言っているわけではありません。コミュニティを作ることは大変な作業です。しかし、瞑想が、コミュニティと人間関係の成長プロセスを育み、癒すのを見てもいます。

そして3つ目は、多くの人と出会い、共に生活できるという特権を与えられていることです。彼らの中で、霊が感知できるほどに働き、形作り、導き、しかし支配することはなく、霊の驚くべき力強い影響によって、人を解放し、子供扱いせず、人の尊厳を損なうこともありません。

そういったこと全てを通して、私は、神の体験に対する異なる認識があると思います。
素晴らしいですね。

質問者: あなたはキリスト教における瞑想の役割を拡大する上で重要な役割を果たしてきました。クリスチャンとしての観点から、瞑想とはどういう意味で、祈りとはどう違うのか、あるいは同じなのかについて、お話できる範囲で教えてください。

Laurence: それは、良い質問であり、両者を対立させる良い方法だと思います。なぜなら、それは問題の本質に触れるからです。瞑想について聞いたことがなく、キリスト教内の観想の伝統を知らない、あるいはそれをキリスト教の外のものだと考えている、多くのクリスチャンにとって、神についての二元的なイメージに囚われている可能性がある人たちにとって、瞑想は祈りなのか?という問いに、向き合うことは大切です。

実際、答えはイエスであり、それは、キリスト教の観想的な霊的伝統全体が、非常に中心的に肯定していることです。観想的な側面は、周辺化され、様々な時期において、疑いの対象にさえなっていました。

ちょうど、今日、私たちの教師の一人であるサラ・バチェレットが、去年のジョン・メインセミナーで講演した内容をまとめた、「観想的キリスト教」という本の校正を見ていたところです。彼女の講演は、観想的キリスト教の出現について、素晴らしい概観を与えてくれます。20世紀の偉大な神学者の一人であるカール・ラナーは、「未来のクリスチャンは、神秘的になるだろう、さもなければクリスチャンは存在しないだろう」と言いました。

瞑想と祈りについての質問に対する具体的な答えは、そうです、瞑想は祈りであり、それは、初期のキリスト教の著述家たちが「純粋な祈り」と呼んだ心の祈りです。

祈りには様々な形があります。
祈りを、様々なスポークを持つ大きな車輪だと考えてください。スポークは、礼拝、聖書、嘆願、巡礼、様々な霊的な実践を表しています。しかし、その車輪の中心には、すべてのスポークが収束するハブがあります。

そこには、仏教徒が「無」と呼ぶもの、道教徒が「無」と呼ぶものがあります。しかし、その「無」はエネルギーの中心なのです。

また、それはハートとも言えるでしょう。ハートは、ウパニシャッドによると、すべてが存在する場所であり、ハートの小さな空間には、全世界が存在すると言われています。キリスト教の言葉、そして聖書では、キリストはあなたのうちにいると言います。イエスの祈りが重要なのであり、私自身の祈り、私が自分のものと呼ぶことができるものは、徐々にエゴが取り除かれるにつれて、他のすべてのものとともに手放されなければなりません。

では、何が残るのかというと、霊の祈りだけが残ります。クリスチャンとしての答えとして、私たちは、愛の交わり、創造と超越のダイナミズム、そして、神聖な中心にある神秘的な苦しみにさえ触れる必要があるでしょう。それは、すべてのものを創造するものです。

瞑想は、心から心への旅をすることで、その祈りへと入るための道だと言えるでしょう。

質問者: それは非常に美しいですね。瞑想とは、エゴを手放し、宇宙や神と直接つながるための方法であり、ある意味で神秘的な方法なのですね。

Laurence: ええ、それは直接的なつながりです。瞑想を、ただ血圧を下げるための方法だと考えることもできます。それは悪い副作用ではありません。しかし、血圧が下がることを実感すれば、「他にどんな効果があるのだろう?」と考えるでしょう。

質問者: それは、科学について少し質問する良い機会かもしれません。今回の対話は、科学と観想的な伝統についてですが、科学的な研究は、あなたの瞑想や観想に何か影響を与えたことはありますか?

Laurence: それは、イエスでもあり、ノーでもあります。私は科学者として訓練を受けたわけではありません。文学、そして後に神学の訓練を受けました。しかし、文学が私の最初の訓練なのです。

それによって、科学を、多くの人が心地よく感じられないかもしれないが、詩に近いものとして捉えるようになりました。科学は、発見を表現するための言語と概念を探しています。しかし、発見という行為や、発見や研究のプロセス、そして、若い科学者に訪れる、世界の認識を一変させるような、素晴らしい直感の瞬間は、認識の変化であり、それは、言語の変化、用語の変化を必要とします。科学者は、美しい数学という言語も持っています。私はその言語は話せませんが、それを尊敬しています。しかし、もちろん、彼らは、自分たちが発見したことを伝達し、明確化し、意識化するために、他のタイプの言語や表現も必要としています。

さて、科学は私の瞑想に影響を与えましたか? 瞑想に導いたわけではありませんが、他の宗教はもちろん、科学者との対話を重ねるにつれて、行われている研究に魅了されています。

その研究が還元主義的になると、私はがっかりします。「これが説明だ」と言ってしまうと、瞑想は、これらのプロセスや、ニューロンの発火、シナプスの結合の組み合わせに過ぎないと言ってしまうことがあります。それは、常に後退し、決して特定できない経験を説明するためのメタファーのように思えます。その意味で、それは宗教に近いものです。

宗教的な人は神を求めており、神に近づけば近づくほど、決して神を捕まえることはできないと悟るからです。 これは、量子場が発見されたことで明らかになりました。量子場が、他の物理学、ニュートン力学やアインシュタインの世界観と、どのように関係しているのかということです。それらは互いに競合し、議論するかもしれませんが、それらは最終的には、一部分に過ぎません。人間の好奇心の一つの側面は、科学に焦点を当てています。

瞑想と科学的研究、あるいは瞑想に対する科学的研究は、非常に興味深いものですが、瞑想についての研究論文を読んだからと言って、誰も瞑想を始めたり、瞑想を長く続けたりはしないでしょう。誰かのプロフィールを見たからといって結婚する人がいないようにです。

しかし、瞑想が明らかに、人間の身体的および精神的な次元に触れるのを見るのは、魅力的です。そして、それは人間自身に対する驚異、そして精神的で二元的なものではないものへの意識を目覚めさせます。

現代では、知的な人々が、人類はプロジェクトに失敗した、今できることは遺伝子工学によって自己を再創造することだけだと主張しています。それは、最高の愚かさの表明だと思います。あるいは、私たちが創造している人工知能が、私たちを支配し、ペットに変えてしまうという考えを主張している人もいます。ジェームズ・ラブコックは、その計画をそう表現しています。

これらの考えは、非常に動揺させるものであり、説得力があるとは思えません。しかし、非常に影響力がある可能性があり、人間の尊厳、人間の驚異を深く損なうものです。瞑想は、私たちを再び人間化し、驚異の感覚を回復させる素晴らしい能力を持っています。

質問者: 私は、科学について、あなたがそれについて評価している点は、それが、世界の多様性と驚異に私たちを開く言語(数学の言語を含む)であるということだとおっしゃったことが好きです。それは、それを言うための良い方法ですね。

もう一つ質問させてください。それは、あなたが、科学と観想の組み合わせによって問題を解決するために、一つだけ願いを叶えてもらえるとしたら、どんな問題にしたいかという、願望的な質問です。

Laurence: おそらく信頼でしょう。私たちは、懐疑的になっただけでなく、意味を見失ってしまいました。政治プロセスやニュースの報道における信頼の崩壊を目にしています。また、金融分野、政治や公共の言説における、信頼と礼儀正しさの崩壊も見られます。それは、徐々に起こってきましたが、現時点ではピークに達したように思えます。科学技術が私たちにもたらしたものを見てください。それは、私たちが今やっているように、ズームでコミュニケーションをとり、他の人と共有する能力です。ソーシャルメディアでできることもあります。しかし、その一方で、私たちがどれほど破壊的にテクノロジーを使っているか、あるいは、いかに自己破壊的になり得るか、そして、テクノロジーへの依存が、人間の尊厳をどれほど損なうかということも見えます。

私たちは、どちらかの極端に走ってはなりません。 私たちは、精神的なものや人間的なものを完全に拒絶する、私が今説明したように、人間をロボット化する、逆に機械を破壊したいと思うラッダイト(訳注:1811年から1817年頃にイギリスで起こった機械打ち壊し運動)になるという極端に走る必要はありません。 

テクノロジーは、パンデミックの間、私たちに必要でした。治療法など、テクノロジーが必要です。コミュニケーションをとり、研究を行う必要があります。しかし、私たちは、人間の至上性(the primacy of the human)を忘れてはなりません。

観想的な科学者と、科学的に敬意を払う霊的な教師と求道者との間の、本当のパートナーシップが必要です。今回の会議は、それを目指していると思います。それは、相互に有益なパートナーシップであり、その中心にあるのは、観想の実践を真剣に、忠実に実践することで、私たちを再び人間化し、お互いの人間性を愛し、敬うのに役立つという、並外れた能力です。

質問者: 素晴らしいですね。あなたは最初に、お互いと、私たちの組織への信頼を回復するとおっしゃいました。そして、信頼を再構築するために不可欠と思われる敬意についても言及されました。
それは、非常に良い願望であり、終えるには良い場所だと思います。ローレンス神父、貴重なお時間をいただきありがとうございました。数週間後のイベントを楽しみにしています。
はい、喜んで。ご一緒できて嬉しかったです。私も、それを楽しみにしています。