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タイ語板  5枚目~!!  

前板の続き2/3 ~ブレイブハート

ーーーーーーーーーー ※ 続きです。  

                         M2:【サー・ウィリアム・ウォレス(英: Sir William Wallace、1270年頃 - 1305年8月23日)】 とは

 スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。

イングランド王エドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。

この戦功でスコットランド守護官に任じられるも、1298年のフォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。

その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となり、残虐刑で処刑された。 しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った。

 


ウィリアム・ウォレス William Wallace
  ※アバディーンにあるウォレスの像
生誕  1270年頃 スコットランド王国・レンフルーシャー・エルダズリー
死没  1305年8月23日 イングランド王国・ロンドン・スミスフィールド
軍歴  1297年 - 1305年

 


 その生涯は以下の通り。
1 出自・前半生など

 ウォレスの前半生については★ほぼ不明だが、レンフルーシャーのエルダズリーの地主マルコム・ウォレスの子との伝承がある。しかし後述する「リューベック文書」の印璽から見られるウォレスの父親の名前は「アラン」である。

ウィリアム・ウォレスの伝承の多くは、★15世紀後半の吟遊詩人ブラインド・ハリーの詩から拾い集められた物であり、その詩はウォレスの★死後およそ200年後に書かれた物であるため、確証はできない物が多い。

「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、スコットランド歴史家ナイジェル・トランターは、これはウェールズ人であることを意味せず、北方ゲール系ケルト人でなく、★南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味していると主張している。

2 抵抗運動の始まり 🔴以下未

 記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない。

ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークのハイ・シェリフを務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれである[7]。この殺害について、ブラインド・ハリーが伝える伝承ではウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐とされるが、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる。

ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた[2][8]。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった。
  ※※スターリング・ブリッジの戦い
  ※※スターリング・ブリッジの戦いを描いた絵画

スコットランド北部で抵抗運動を行うアンドルー・モレーの軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジにおいて、スコットランド総督でイングランド貴族の第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦った(スターリング・ブリッジの戦い)。

兵力はイングランド軍の方が優勢であり、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた。しかしウォレスはフォース川の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した。

イングランド王エドワード1世が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた。
スコットランド守護官

スターリング・ブリッジの戦い後、セルカークにおける会議で、モレーとともにスコットランド守護官に任じられた。1296年にスコットランド王ジョン・ベイリャルがイングランド王エドワード1世に敗れて退位のうえイングランドに連行されて以来、スコットランドは王位が不在となっており、スコットランド王権はエドワード1世が接収していた。ウォレスのスコットランド守護官への就任はそれを認めず、ロンドン塔で幽閉されているジョン・ベイリャルを真のスコットランド王に見立てて、ジョン王のスコットランド王国を守護するという立場を示すものだった                        またこれ以降ウォレスは「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では騎士であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが[14]、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている。この記述からナイジェル・トランターはキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない。

守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月にはドイツのリューベックとハンブルクに宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容のラテン語の手紙をモレーとの共同署名で送っている。この文書は「リューベック文書(The Lübeck letter)」と呼ばれるが、第二次世界大戦末にソ連軍が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中のリューベック空襲で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている。

ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドに進攻した。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している)。

1298年3月29日付けでウォレスとスコットランド議会の名義でスコットランド軍世襲の旗手アレクサンダー・ル・スクリムジャーに書簡が送られているのが確認できる。
フォルカークの戦い

ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった[20]。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた。

エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い)。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、バデノッホ卿ジョン・カミン率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた。
フランスやローマで交渉

この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いたスコットランド議会で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した。

この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、フランスやローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している。ローマへはセント・アンドリューズ司教ウィリアム・ド・ランバートンと共に行き、ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し「スコットランドはローマ教皇の権威の支配下にある」「スコットランドとイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」とする宣言を出すとともに、エドワード1世にジョン・ベイリャルの釈放とその身柄をローマ教皇の権威に引き渡すことを命じた。フランス王フィリップ4世からは金銭的な手当てといくつかの称号と地所を与えられたというが、ウォレスの愛国心は強く、1303年にはスコットランドへ帰国した。

一方フォルカークの戦いに勝利したエドワード1世は、1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、とうとう1303年5月に制圧に成功した。
捕縛・処刑
大逆罪によりウェストミンスター・ホールの法廷で裁判にかけられるウォレスを描いた絵画(ダニエル・マクリース画)

ウォレスはスコットランドに帰国したが、エドワード1世から執拗な追撃を受けた[28]。エドワード1世は「大逆者」ウォレスを捕らえようと血眼になり、賄賂と脅迫によってウォレスの部下たちにウォレスに対する裏切りを仕向けた。

1305年8月5日、ウォレスはかつての部下だったダンバートン総督ジョン・ド・メンティスの裏切りにあってイングランドに引き渡された。

その後17日間かけてカーライル城を経てロンドンへ移送された。その道中の様々な町や村で市中引き回しにされた。エドワード1世の勝利を印象付けようという狙いだった。

8月22日にロンドンへ到着したウォレスは、ロンドン塔へ送られる予定だったが、ウォレス捕縛を一目見ようと雑多な群衆が集まってきてロンドン塔までの道が塞がれたため、フェンチャーチ通りにある市参事会員の館に預けられ、そこで一晩監禁された。

翌日、ウェストミンスター宮殿のウェストミンスター・ホールへ連行され、そこに召集された法廷の裁判にかけられた。審理中、月桂樹の王冠を被らされて嬲り者にされた。裁判官のサー・ピーター・マロリー(Sir Peter Mallorie)によりエドワード1世への大逆罪を問われたが、裁判でウォレスは「自分はイングランド王に忠誠を誓ったことはなく、彼の臣民ではないので大逆罪など犯していない」と主張した。

しかし有罪判決が下り、判決後には2頭の馬の尻尾に結わえられ、平民用処刑地のあるスミスフィールドまでの8キロメートルの道を引きずられた。引きずられながら石やゴミを投げつけられた。処刑場到着後、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑という残虐刑で処刑された。 遺体の首はロンドン橋に串刺しとなり、4つに引き裂かれた胴体はイングランドとスコットランドの4箇所(ニューカッスル、ベリック、パース、アバディーン)で晒し物とされた。

エドワード1世としてはウォレスに残虐刑を課すことでスコットランドの抵抗運動を恐怖で抑えつけようという意図であったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド国民感情を鼓舞する結果となり、幾月もたたぬうちにエドワード1世のスコットランド支配は崩れ去ることになる。


 人物・評価

当時スコットランドに国民や国家のような概念がほとんどない中で、スコットランド人を愛国精神で立ち上がらせることに成功した人物である点が特筆される。

これについてナイジェル・トランターはウォレスを「スコットランド愛国精神の発明者」と評価している。一方ジョージ・トレヴェリアンは、明確に発露したり自覚したりすることこそなかったものの、当時スコットランド国民にはすでに国民的感情や民主的感情があり、ウォレスは行動に移すことを呼びかけた人物であると評価している。

ビュート侯爵は「サー・ウィリアム・ウォレスは少なくとも★3か国語を読み書きできた。自国語、ラテン語、フランス語である。 さらにゲール語も少し知っていたように窺える。古代の歴史、同時代の歴史、同時代の共通の単純な数学や科学にも造詣があった。『教会』に対して不朽の崇拝の念を綿々と抱き、生涯にわたって『詩篇』を手沢本として愛した。サー・ウィリアム・ウォレスの願いに応じて、暗くなってゆく目の前で、司祭が『詩篇』の頁を開けたまま持ち、それは死を迎えるまで続いた」と記している。

15世紀の吟遊詩人ブラインド・ハリーは「平和の時には、サー・ウィリアム・ウォレスは乙女のごとく柔和であった。戦争が近づくと正しい暴慢漢だった。スコットランド人に大きな信用を与えてくれた。名高い敵は、サー・ウィリアム・ウォレスを瞞着することはできなかった」と記している。

スコットランドでは現在に至るまで英雄として崇拝されている。「スコットランドのオリヴァー・クロムウェル」とも渾名されている。

    ※※スコットランド・エディンバラ城のウォレス像
     スコットランド・ドライボロに立つウォレス像
     スコットランド・エアに立つウォレス・タワー
     スコットランド・アビー・クレイグに立つナショナル・ウォレス・モニュメント
    スコットランド・エルダスリーに立つウォレス・モニュメント
    アメリカ・ボルチモア・ドルイド・ヒル・パークに立つウォレス像
  

その他

1995年公開のアメリカ映画『ブレイブハート』で主人公として描かれた。映画ではメル・ギブソンが演じている。

ウォレスが捕らえられた際にダンバートン城に残されたとされるウォレスの剣が、スターリングに近いナショナル・ウォレス・モニュメントで展示されている。刀身1.7メートルにも及ぶ巨大な剣である。  (出展; /Wiki)

 

ーーーーーーーーーー                         M3:【エドワード1世 】 とは  

エドワード1世(英語: Edward I, 1239年6月17日 - 1307年7月7日[1])は、プランタジネット朝のイングランド王(在位1272年11月17日 - 1307年7月7日)。

ヘンリー3世の長男であり、1272年に父王の崩御で即位し、以降1307年の崩御までイングランド王として君臨した。内政面では法整備を進めたことや1295年に代議制議会の要素が強い模範議会を招集したことなどが特筆される。外交では近隣諸国との戦争に明け暮れ、ウェールズやスコットランドに侵攻して併合したり、アキテーヌを巡ってフランスと戦争するなどした。しかしスコットランド支配は激しい抵抗運動を招いて最終的には破綻し、フランスとの戦争はやがて百年戦争へと繋がっていく。

渾名は "Longshanks"(ロングシャンクス、「長い足」「長脛王」、身長が190cmあったため)および"Hammer of the Scots"(ハンマー・オブ・ザ・スコッツ、「スコットランド人への鉄槌」)。
概要

1239年にイングランド王ヘンリー3世の長男としてロンドンで生まれた。1254年にはフランスに対するけん制として、カスティーリャ王・レオン王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚した(→生い立ち)。

1258年にオックスフォード議会(英語版)で可決された王権を制約するオックスフォード条項をめぐってヘンリー3世やエドワードら王権側と第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールら改革派諸侯の対立が深まり、1264年に両者は第2次バロン戦争で衝突した。ルイスの戦いに敗れて一時父王とともに虜囚の身となったが、翌1265年に脱走に成功し、イーヴシャムの戦いでレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻した(→改革派諸侯との戦い)。

内乱終結後には父王に代わって国政を主導。オックスフォード条項は否定したが、王権以上に貴族権力を抑制するウェストミンスター条項は認め、これを汲んだマールバラ法(英語版)を制定した。1270年からは第8回十字軍に参加した(→内乱終結後)。

1272年にヘンリー3世の崩御により国王に即位した(→国王に即位)。内政面では法律家のブレーンを抱えてイングランドの法整備に努めた。とりわけ動産差押に制限を設けたことは中世的な自力救済の抑制に資した(→法整備)。また王室の封臣を増やす目的で1290年に制定された再下封禁止法(英語版)は結果として封建制の崩壊を推進し、封建主義社会から議会制国家への移行を促すことになった(→封建制の崩壊)。他方1290年にはユダヤ人追放を実施している(→ユダヤ人追放)。

外交面では戦争に明け暮れた。1277年と1282年から1284年にかけてはウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)サウェリン・アプ・グリフィズが統治するウェールズに侵攻し、アベルコンウィ条約を締結することでサウェリンの影響力を低下させ、サウェリンを完全に支配下に置いた。そして1282年、サウェリンが病死した後、同国を併合した。後にウェールズ大公の地位を自らの皇太子エドワード(エドワード2世)に与え、以降この称号は英国皇太子に与えるのが伝統となった(→ウェールズ侵攻)。

つづいてスコットランドに狙いを定め、1291年には同国の王位継承争いに介入し、御しやすそうなジョン・ベイリャルを支持して彼を王位につけ、自らに臣従を誓わせた(→スコットランド王位継承への介入)。スコットランド国内でイングランドへの反発が高まり、1295年にはジョン・ベイリャルやスコットランド貴族たちが反旗を翻したが、1296年にスコットランド侵攻を行ってダンバーの戦い(英語版)でスコットランド軍を撃破した。ベイリャルを廃位して王権を自らに譲渡させた(→スコットランド侵攻)。

フランスとの外交関係はパリ条約以降良好に推移していたが、1294年にフランス王フィリップ4世がエドワードの領有するアキテーヌの没収を宣言したため、フランスとも開戦するに至った(→英仏戦争)。

フランスやスコットランドとの戦争には膨大な戦費が必要だったことから、1295年に彼が招集した議会は、下級聖職者や州騎士、各都市の市民の代表などを含めた広範な社会階層の代表者を集めた議会となった。そのため代議制の性格が強い議会となり、後世の議会の模範となったとされ、「模範議会」と呼ばれる(→模範議会)。しかし高額の課税に反発は高まり、特に1297年のフランドル出兵に際して恣意的課税を行おうとしたのを機に諸侯との対立が再燃した。その対立の中で諸侯や議会から国王の恣意的課税を制限するマグナ・カルタなど既存の法律の確認あるいは新規の立法を強要された。この諸侯との対立は崩御まで解消されることはなかった(→諸侯との対立再燃)。

スコットランドでは彼が総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンが過酷な統治を行っていたが、ウィリアム・ウォレスらの抵抗運動の激化を招いた。ウォレスをフォルカークの戦いで破り、捕らえて残虐刑で処刑することには成功したが、スコットランドの抵抗運動はますます激しくなった(→ウィリアム・ウォレスとの戦い)。つづいてエドワードに王位を否定されていたロバート・ブルースがスコットランド王ロバート1世に即位することで反旗を翻した。その追討のために出陣した際の1307年に崩御した。

彼に代わって国王に即位したエドワード2世はロバート1世に敗れてスコットランドを失うこととなる(→ロバート1世との戦いと崩御)。
生涯
生い立ち

1239年6月17日にイングランド王ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの長男としてロンドン・ウェストミンスター宮殿に生まれる[2]。エドワード証聖王にあやかってエドワードと名付けられた。これまでプランタジネット朝の王は全てフランス名だったが、彼は初めてイングランド風の名前が与えられた王である[3]。

洗礼式の際には義理の叔父(叔母の夫)にあたる第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールが代父を務めたが、このレスター伯は後にエドワードに討ち取られることになる[4]。

1254年にカスティーリャ=レオン王国首都ブルゴスにおいてカスティーリャ王・レオン王フェルナンド3世の娘エリナーと結婚した。カスティーリャ=レオン王国は未だイングランド王が統治権を残すフランスのアキテーヌ公領の背後に位置しており、フランス王のアキテーヌ侵攻を防ぐための政略結婚だった[5]。
改革派諸侯との戦い
1265年8月、イーヴシャムの戦いでエドワード軍に敗れて戦死する改革派諸侯の指導者第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールを描いた絵画

金欠の王庫に財政援助を求めるためにヘンリー3世が1258年に招集したオックスフォード議会(英語版)ではレスター伯を中心とした改革派諸侯がオックスフォード条項を可決させて国王権力の制限を図り、ヘンリー3世やエドワードと対立を深めた[6][7]。さらに翌1259年にウェストミンスターに召集された議会ではウェストミンスター条項が可決されるが、これは国王以上に領主裁判権をはじめとする貴族権力を制限していた[8]。改革派諸侯が一枚岩ではないことに目を付けたエドワードが貴族たちに対する反撃で盛り込んだものという[9]。

ヘンリー3世ははじめオックスフォード条項遵守の誓約をしたが、1261年になってオックスフォード条項遵守誓約の無効を教皇アレクサンデル4世から認めてもらい、これにより国王と諸侯の対立が深まった。両派は競うように地方の掌握に努めるようになった[6][10]。そして1264年5月に至って両派はルイスで戦闘に及び、第2次バロン戦争が始まった。緒戦のルイスの戦いは諸侯軍の圧勝に終わり、エドワードも父王も捕虜にされた[9][11]。この後1年ほどレスター伯が王不在の政府を主導したが、1265年5月にエドワードが脱走し、同年8月のイーヴシャムの戦いでレスター伯を敗死させて王室に権力を取り戻すことに成功した[12][13]。

ついでエドワードとヘンリー3世は1266年6月に改革派諸侯が立てこもったケニルワース城(英語版)を包囲するも、難攻不落の同城を陥落させることはできなかった。そこでケニルワース宣言(英語版)を発した。同宣言はオックスフォード条項は破棄するとしつつ、反乱に関わった程度に応じて罰金を支払えばそれ以上処罰しないことを改革派諸侯たちに保証していた。その結果、諸侯たちはしばらく様子を見ながらも大半は年末までに宣言を受けいれて投降した[14]。
内乱終結後
十字軍の際にエリナーがエドワードの毒を口で吸いだしたという逸話を描いた絵画

内乱終結後のヘンリー3世晩年の統治はエドワードによって主導されていた[12][15]。改革派諸侯を破ったとはいえ、彼らの定めた立憲的原則を全否定するのは王権の不安定を招くと判断したエドワードは、1266年にウェストミンスター条項に盛り込まれている諸改革案を確認するとともに1267年のマールバラ法(英語版)でその定着を図った[15][16]。しかしこのマールバラ法は、ウェストミンスター条項の流れを汲んで王権の抑制より貴族の権力の抑制を図るものであった。領主裁判所の誤審上訴権を国王裁判所が独占する権利を定めることで内乱中に衰えた王の司法権力の回復を図っていた。さらに動産差押が認められる場合やその手続きも定め、当時広く社会に横行していた領主による自力救済的な差押さえを抑制した[17]。

1270年8月からは第8回十字軍に参加し、イングランドを不在にした[11][18]。1272年夏にエルサレムでイスラムの暗殺者に毒付き短剣で手傷を負わされるも妻エリナーが毒を口で吸いだすなど献身的な治療をしたおかげで一命をとりとめたという逸話があるが、これはエリナーを美化するための創作で史実ではないといわれる[18]。
国王に即位
エドワード1世

1272年11月16日にヘンリー3世が崩御したとき、エドワードは十字軍からの帰路の途中でアルプス山麓にいた。そして11月20日の父の大葬の日に外国の地からイングランド王位の継承を宣言した。母エリナーを摂政に任じ、自身は帰国を急がず、ガスコーニュの安定やフランドルでの貿易問題解決のためのフランス王フィリップ3世との交渉を続けた[19]。

それらの目的を達したのちの1274年にようやくイングランドへ帰国し、同年8月19日にウェストミンスター寺院で戴冠式を行った。このようにのんびりと王位継承を行ったことはエドワード1世の王権が極めて安定していたことを意味している[20]。内乱終結後は国王の強い指導力のもとに国王と諸侯の関係が極めて緊密になっていた[21]。
法整備

エドワード1世の功績の一つは法整備を押し進めたことである。ローマ法学の教授フランチェスコ・アックルシを招くとともに、皇太子時代からの書記官で法律に詳しいバース司教のロバート・バーネル(英語版)を大法官に任じた。彼らの主導で様々な法整備が押し進められた[22][23]。

マールバラ法の差押制限を強化するため、1275年には「財務府の差押手続き」が定められた。これは公権力による差押の場合について規定しており、国王の役人による不正の排除を目的としていた。さらに1285年にはウェストミンスター第二法で領主による悪意の差押に罰則を設けたり、差押を実行する代官の資格などを規定した。これらの法定は中世的な自力救済を大きく制限するのに資した[24]。

1278年には権限開示令状(英語版)を発して、領主特権を主張する者は巡回裁判官にその権原を明示すべきこと、明示しない場合はその特権は失われる旨を定めた。これは内乱の影響で領主特権が曖昧になって簒奪されたり、濫用されたりしているのに歯止めをかける狙いがあった[25][26]。1285年には従来の様々な治安維持法を一つにまとめて拡張・強化したウィンチェスター法(英語版)を制定した[27]。
封建制の崩壊

イングランドでは、エドワード1世時代にはすでに封建制(土地の接受を通して主君と家臣が主従関係を持ち、家臣が主君に対して軍役奉仕義務を負う制度)は消滅過程に入っていた。領主と土地保有者の間の土地接受関係は続いていたが、土地保有者が領主に対して負う義務は軍役奉仕より金銭に移行しつつあり、したがって両者の関係は「主君と家臣」というより、「地主と借地人」といったほうが適切になりつつあった[21]。

封建制崩壊に拍車をかけたのは1290年に制定された再下封禁止法(英語版)だった。これは国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定していた。国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることはもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になった。これは封建社会から議会制国家への移行を促す効果があった[28]。

だがともかく国王の封臣は急増したので国王の封建的収入は増え、王権強化に資した[29]。
ユダヤ人追放

中世ヨーロッパにおいてユダヤ人はキリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけたが、高い金利で債務者から憎まれることが多く、ユダヤ人が頼れるのは国王の保護だけであった。保護を受ける代わりにユダヤ人は国王に命じられるままに金を献上せねばならなかった。ユダヤ人は国王の「私有財産」「奴隷」状態だった。もし国王が保護の手を引きあげればユダヤ人虐殺が起こるのが常だった[30]。

イングランドにユダヤ人が最初に入ってきたのはノルマン・コンクエストの時にウィリアム征服王に従ってであった。それ以前のアングロサクソン時代はあまりに原始的な社会だったので、金融業が入り込む余地はなかったが、フランスから来たノルマン朝とプランタジネット朝の国王たちは他の大陸諸国の王たちと同じくユダヤ金融業者を必要とした[30]。

ところが1290年になってエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放した。要因としては、

    国王がユダヤ人を追放すると人々からは自己犠牲の行為として称賛される[30]。
    「微利金貸し」のキリスト教徒から金融を受ける目途が立った[30]。
    財産没収による一時的な収入増加が見込める[11]。

などである。ユダヤ人追放後、イングランド金融はフランドル人、イタリア人、さらに後にはイングランド人資本家によって担われるようになっていく。ユダヤ人が再びイングランドに移民するのは近世のステュアート朝以降である[31]。
ウェールズ侵攻
ウェールズ大公サウェリン・アプ・グリフィズ。エドワード1世の1282年の侵攻で敗死した

エドワード1世が即位した頃のウェールズの統治者はウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)サウェリン・アプ・グリフィズだった。エドワード1世はサウェリンに対して二度招集をかけて臣下の礼をとるよう求めたが、サウェリンは招集に応じなかった。エドワードは1272年にサウェリンを大逆者と宣告した[32]。

この宣告を受けてサウェリンに領土を奪取されていたイングランドのウェールズ辺境伯(英語版)たちがウェールズ侵攻を展開するようになった。またグウィネズ地方(サウェリンの直接統治下)以外のウェールズ人領主の取り込みも図り、サウェリンをウェールズ内で孤立に追いやった。そのうえで1277年7月にチェスターから1万5000人の軍勢を率いてウェールズ侵攻を開始した[32]。

これに対してサウェリンはゲリラ戦で抵抗するも、結局同年秋にはイングランドへの全面屈服のアベルコンウィ条約を締結することを余儀なくされた。この条約によりサウェリンは他のウェールズ人領主への宗主権を失い、グウィネズの統治権も兄弟で分け合い、ウェールズ内のエドワード1世の王領も大幅に拡大されることになった。さらにもしサウェリンが子供のないまま死去したらその所領はエドワードに没収されることも盛り込まれた[33]。

この条約でウェールズのほぼ全土を手中にしたエドワード1世は、イングランドの法を押し付けて、ケルトの法やウェールズ人の感情を無視した統治を行った[34]。特に巡回裁判制度を持ち込んだのはエドワード1世の統治力を著しく高めた[35]。しかしその過酷な統治はウェールズ人の反乱を誘発し、やがてサウェリンもそれに参加した。これを受けてエドワード1世は1282年から1284年にかけて再度ウェールズ侵攻を行った[34]。この戦いの最中にサウェリンは病死し、ウェールズ大公の地位は弟ダフィズ・アプ・グリフィズ(英語版)が継承したが、彼も1283年9月30日に捕らえられて大逆罪で死刑宣告され、10月3日に過酷な首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑で処刑された。こうしてウェールズの独立をかけた最後の戦いは失敗に終わり、以降ウェールズが政治的独立を手にすることは二度となかった[36]。

1301年になってエドワード1世は皇太子エドワード(後のエドワード2世)にウェールズ大公の称号を与えた。ウェールズの称号を残すことでウェールズ人の反感を和らげる目的だったという。以降イングランド・イギリス王室の皇太子はこの称号を名乗るのが慣例となり、その伝統は現在に至るまで続いている[37][38]。またウェールズの征服でイングランド軍にウェールズのロングボウの用法が入り、エドワード1世は歩兵の特殊兵器としてスコットランド侵攻でこれを活用する[39]。
スコットランド王位継承への介入
スコットランドへの宗主権を確認するエドワード1世

ウェールズ征服後、エドワード1世は北方スコットランド併合計画を本格化させた。

ちょうど1286年にスコットランド王アレグザンダー3世が崩御したため、アレグザンダー3世の3歳の孫娘でノルウェーにいるマーガレットがスコットランド女王に即位したが、エドワードはこれをスコットランド乗っ取りの千載一遇のチャンスと見た。さっそくマーガレットと自分の息子エドワードの結婚の赦免を教皇に願い出るとともにスコットランド長老会議と交渉を行い、1289年にはスコットランドとの間にバーガム条約(英語版)を締結して婚約を成立させた。同条約には「スコットランドの権利、法律、自由ならび慣習は完全に保持され、スコットランド王国は自由にして別個の王国として存続する」と定められていたが、エドワードの狙いは当初より併合であり、条約を守る気などさらさら無かった。しかし1290年、ノルウェーからスコットランドへ向かう道中にマーガレットが崩御したため、この目論みは失敗に終わった[40][41]。

マーガレットの崩御でスコットランド王室の傍流たちが次々と王位継承権を主張するようになり、とりわけウィリアム1世の弟ハンティンドン伯(英語版)デイヴィッドの女系子孫にあたる3人、ベイリャル卿ジョン・ベイリャル(デイヴィッドの長女マーガレットの孫)、アナンデール卿ロバート・ド・ブルース(英語版)(デイヴィッドの次女イザベラの子)、ヘイスティングズ卿ジョン・ヘイスティングス(英語版)(デイヴィッドの三女エイダの孫)の三人が有力候補となった。3人の対立は激しくなる一方で、内乱に発展することを恐れたセント・アンドルーズ司教(英語版)ウィリアム・フレイザー(英語版)は、エドワード1世に書簡を送って「陛下が国境まで出御されて決定し給わんことを」と懇願した。このときのフレイザーの対応は今日までスコットランド人から売国行為として批判されるが、仲介できるほど力を持った者はエドワード1世しかなく、内乱を避けるためにはやむを得ない判断だったと弁護もされている[42]。

エドワード1世は、ただちにこれを了承して介入を開始した。そして1291年5月にスコットランドの聖職者・貴族を北イングランド・ノラム城(英語版)に招集して彼らに「朕が正当な宗主ではないという証拠を示しうるか?」と問うて、スコットランドを自らの宗主権下に置こうとした。スコットランドの聖職者・貴族たちは「国王がいないため自分たちには答える権限がない」と述べて回答を避けたが、エドワード1世はこれを王位継承候補全員から臣従を得れば自分に臣従することを認めた回答と判断し、ベイリャルとブルースをはじめとする王位継承候補7人と個別に会見して、全員から自分への臣従を取り付けた[43]。

そして1291年8月にスコットランド王を決定する「大訴訟 (Great Cause)」を主催した。法定の査定官は104人いたが、ベイリャルとブルースがそれぞれ40人を指名し、残る24人はエドワード1世が指名したため、エドワード1世の決定次第であった。審議はベイリャルが長女の系統の立場を生かして有利に進め、エドワード1世もベイリャルを温厚で操り人形にしやすしと見ていたのでイングランド査定官たちはこぞって彼を支持し、結果1292年11月にベイリャルを王とする旨の裁定が下された[43][44]。こうしてイングランド宗主権下のスコットランド王が誕生することになった[45]。
英仏戦争

イングランド王室プランタジネット家(アンジュー家)はもともとフランス大貴族であり、アンジュー帝国と呼ばれる巨大な領地をフランス北西部に所有していたが、1202年からのフランス王フィリップ2世の所領没収宣言・侵攻を受けてジョン王は南アキテーヌ(ガスコーニュ)以外を喪失した。その後イングランド王はたびたびフランス出兵を行って領土を取り戻そうとしたものの、すべて失敗に終わった[46][47]。結局1259年にはパリ条約が締結され、アキテーヌ地方をイングランド王に残すということで両者は妥協した。このおかげで以降1290年代初頭まで英仏関係は平穏に推移した[48]。

ところが1293年にイングランドとガスコーニュ船籍の船団がノルマンデー船籍の船団に攻撃を仕掛けて打ち破り、ラ・ロシェルを襲撃する事件が発生した。アテキーヌを狙っていたフランス王フィリップ4世はエドワードのガスコーニュの領主としての責任を追及し、1294年にガスコーニュを含む全アキテーヌの所領を没収すると宣告した。これはフランス王によるアンジュー領侵攻の再開と考えられたのでエドワードは1294年にもフランス出兵を開始し、英仏戦争(英語版)が勃発した。百年戦争はエドワード3世の時代に始まるが、実質的にはこのときから始まっていたと考えられている[48]。

このときの戦いは1299年までに旧領を回復してフィリップ4世と和議することで一応解決した。この和議の際にフィリップ4世の妹マーガレット・オブ・フランスと結婚している(エリナーとは1290年に死別していた)[11]。
スコットランド侵攻

スコットランド国王ジョン・ベイリャルは即位以来エドワードに臣従を誓っていたが、それに対するスコットランド内の反発は高まっていた[41]。特に1294年に対仏開戦でエドワードがスコットランドに徴兵要求をしたことでスコットランド人の反英感情は爆発した。後にエドワード1世はこの徴兵要求を取り消しているが、反英感情が収まることはなかった[49]。

こうした空気の中、ジョン・ベイリャルはイングランド王への臣従を取り消した[44]。1295年7月には司教や貴族から成る反英諮問機関「スコットランド王国の共同体」が創設されて、今後この組織が国政の責任を負うことになった。さらに1295年10月にはスコットランドとフランスの攻守同盟がパリで締結された[49]。

これに対してエドワード1世は1296年3月にもスコットランド侵攻を開始し、4月にはダンバーの戦い(英語版)でスコットランド軍を撃破して多数のスコットランド貴族を捕虜にした。ジョン・ベイリャルも7月には投降し、イングランド王への「反逆」を犯したことを「告白」させられた。そしてフランスとの同盟を破棄し、王位を空席にして王権はエドワード1世に譲ることを認めさせられた。エドワード1世はスコットランド王権を示す王冠や王笏、スクーンの石などをロンドンへ持ち帰らせた[49]。
模範議会
議会を招集するエドワード1世。

スコットランドやフランスとの戦争の戦費を募るためエドワード1世は、1295年11月に議会を招集した。膨大な軍資金を集めるためには社会各層の協力が必要との認識から、このときの議会は各階層から広範に代表を募ったため、この後のイングランド議会の代議制の模範になったという意味で19世紀の歴史家に「模範議会」と名付けられた[50]。

この模範議会で招集されたのは、伯爵7人、その他封建貴族(男爵)、大司教や司教などの高位聖職者41人、修道院長や助祭長などの下級聖職者70人、各司教座聖堂参事会の聖職者代表1名、各司教管区から聖職者代表2名、各州の州騎士2人ずつ、都市や自由都市の市民代表各2名ずつである[50]。

たしかにそれ以前の議会と比べれば、代議制的要素が強く、社会各層がよく代表されていたといえるため、エドワード1世をレスター伯シモン・ド・モンフォール(彼が権力を握っていた1264年から1265年にかけての議会も広範な社会階層から代表を集めた)とともに「イギリス議会の父」とすることがある。しかしこの時の議会はいまだ貴族院と庶民院に分離していなかったし、下級聖職者は途中で議会に出席しなくなった。またこの模範議会の後もしばしば代議制要素が全くない(あるいはわずかしかない)議会が開催されたので、エドワードを現在のイギリス議会の骨格を決定した人物かのように語ったり、この議会を「模範」と称するのは無理があるとの反論もある[50][51]。そうした説によればイギリス議会はエドワード1世やレスター伯のような特定の個人の創意でできたものではなく、12世紀から13世紀のイングランドの歴史過程の中で徐々に形成されたものであるとされる[52]。
諸侯との対立再燃
フランドル出兵を拒否する第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴット(英語版)と第3代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)に対して「出動しないなら絞首刑だ」と脅迫するエドワード1世

エドワード1世の戦争には膨大な戦費が必要であったが、その課税は激しい反発を招いた[53]。1296年には教会が教皇ボニファティウス8世の勅書を理由に課税を拒否するようになった。これに対してエドワード1世は教会が財政に協力しないなら、今後王権は教会の財産や聖職者の生命の保護をしない旨を宣告し、課税拒否運動の中心の聖職者たちの追放を行った[54]。

ついで翌1297年にはフランドル出兵計画をめぐって諸侯の間にもエドワード1世に対する反発が広がった。とりわけ第5代ノーフォーク伯ロジャー・ビゴット(英語版)と第3代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)は、

    フランドルへの騎士の出征は前例がない。
    国民が戦争で疲労している。
    スコットランド情勢が緊迫している。
    大憲章(マグナ・カルタ)や御料林憲章(英語版)が守られていない。
    羊毛輸出関税が異常に高い。

などを指摘してフランドル出兵とそのための課税に反対した[55]。この際の2人とエドワード1世の口論は激しく、エドワード1世が「出動しないならお前たちは絞首刑だ」と叫ぶと、2人は「いや出動せぬなら絞首刑にもならぬ」と応酬したと伝わる[56]。

2人の異論を無視してエドワード1世は都市住民の所有する動産5分の1、農村住民の所有する動産8分の1を租税として徴収することを独断で決定し、さらに8,000サックの羊毛徴発を命じた。そして1297年8月末にフランドルへ向けて出陣したが、諸侯はまるで従わず、その軍勢はわずか200人だったという。エドワード1世の留守を狙ってノーフォーク伯とヘレフォード伯は財務府に乗り込み、「人々の同意なく、国王が恣意的に強制賦課金や羊毛徴発することは許されない」と論じて先に国王が命じた徴税を行うことを禁じた。さらに同年秋に招集が予定されていた議会に提出する文書『強制賦課金は認めないことについて (De Tallagio non Concedendo)』の起草を開始した[57]。

これによりエドワード1世と諸侯の関係が再び緊迫化し始めたが、1297年9月にはウィリアム・ウォレス率いるスコットランド軍のスターリング・ブリッジの戦いの勝利とイングランド北部への侵攻があり、その危機感から両者は10月に一時的に和解し、『両憲章の確認書 (Confirmatio Cartarum)』を結んだ。これは、

    大憲章と御料林憲章の確認および再公布。
    先の国王の恣意的課税は前例とせず、イングランドにおける租税は全王国の共同の同意により、全王国の共通の利益のためにのみ課される原則を守ること。
    高い羊毛関税も廃止すること。

が盛り込まれていた。これに基づき先のエドワード1世の恣意的課税は廃止され、議会と教会はその代わりの租税案をエドワード1世に与えた[57]。

しかしこの後も諸侯と議会の国王に対する不信感は続き、1300年3月にウェストミンスターで招集された議会はエドワード1世に両憲章の全文を再確認・再公布させるとともに 『両憲章への追加条項 (Articuli super Cartas)』を新たに決議した。これは両憲章の違反者に対する罰則を設けるとともに、国王の役人による物資徴発に方法と手続きを規定することで、国王の徴税活動を制限するものだった[58]。翌1301年にリンカンで招集された議会も国王に対する不信感が強い議会となった[59]。

1305年になるとエドワード1世は自分が1297年の文書で行った約束は強制的に押し付けられたものだと主張しはじめ、教皇にその主張の承認を求め、翌1306年に認められている。このようにエドワード1世治世末には国王と諸侯の関係は悪化して、平穏さや円滑さを欠いた状態となっていた[59]。
ウィリアム・ウォレスとの戦い
エドワード率いるイングランド軍がウォレス率いるスコットランド軍を破った1298年6月のフォルカークの戦いを描いた絵画

スコットランドでは、エドワードが総督に任じた第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレンがスコットランド民衆を徹底的に弾圧する過酷な統治を行っていた[60]。

しかしそうした統治はスコットランドの中間層や民衆の抵抗運動を招き、それらはウィリアム・ウォレスのもとで一つにまとまった。そして1297年9月にスターリング・ブリッジの戦いにおいてサリー伯率いるイングランド軍はウォレス軍に惨敗した。勢いに乗じたウォレス軍はイングランド北部ノーサンバーランドやカンバーランドへ侵攻を開始した[61][62]。

エドワード1世はこの前月からフランドル出兵でイングランドを不在にしていたが、ウォレス軍の勝利を聞いて1298年1月に帰国し、同年7月にフォルカークの戦いでウォレス率いるスコットランド軍を撃破した[63]。

ついで1300年からスコットランド侵攻を繰り返し、1303年5月の侵攻でついにスコットランド占領に成功した。1305年9月にはスコットランドの統治組織を定めた統治条例を発した[63]。その間ウォレスはゲリラ戦を展開したり、フランスに援軍を求めるなどエドワードへの抵抗運動を続けたが、1305年8月に奸計にかかってイングランド軍に逮捕された。そして大逆罪により首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処せられた。ウォレスに残虐刑を科すことでスコットランドを恐怖支配しようというエドワード1世の意図だったが、それは成功しなかった。逆にスコットランド人の憤慨を買い、より激しい抵抗運動を招く結果となった[64][63]。
ロバート1世との戦いと崩御

スコットランドでますます高まる反英機運に乗ってキャリック伯ロバート・ブルース(「大訴訟」の時にエドワード1世に王位を否定されたアナンデール卿ロバート・ブルースの孫)が1306年3月にスクーンでスコットランド王「ロバート1世」に即位し、エドワード1世への臣従を拒否した[65]。

当時エドワード1世は赤痢に苦しんでいたが、直ちにロバート追討を決定し、1306年9月にスコットランドへ向けて出陣した。皇太子エドワードと第2代ペンブルック伯エイマー・ド・ヴァランス(英語版)の軍に先発させ、ペンブルック伯の軍は1307年5月にロウドゥン・ヒルの戦い(英語版)でロバート率いるスコットランド軍と戦闘を交えたが、敗北した[66][65]。

一方エドワード1世はスコットランドへ向けて進軍している途中の1307年7月3日にカーライル郊外バラ・バイ・サンズ(英語版)で騎乗に耐えられなくなって倒れこんだ。エドワード1世はすぐにスコットランドから皇太子を呼び寄せ、

    自分の心臓は聖地エルサレムに埋葬すること。
    遺体はスコットランド平定まで埋葬しないこと。
    自分の骨をイングランド軍の先頭に置いて進軍すること。

を言い渡した。そして7月7日に崩御した[67]。

しかし新国王エドワード2世は父の遺言を守らなかった。エドワード1世の遺体は全てウェストミンスター寺院に埋葬したうえ[67]、スコットランドからも撤兵した[65]。彼はスコットランド内におけるイングランドの旗色が悪くなった後の1313年になって再びスコットランド侵攻を行うが、バノックバーンの戦いでスコットランド軍に惨敗。これが決定打となってイングランドはスコットランドの支配権を完全に失ったのだった[68]。
子女

最初の王妃エリナー・オブ・カスティルとの間に16人の子女をもうけた[2]。

    長女(1255年)
    キャサリン(1264年)
    ジョーン(1265年)
    ジョン(1266年 - 1271年)
    ヘンリー(英語版)(1268年 - 1274年)
    エリナー(1269年 - 1298年) - 1293年、バル伯アンリ3世と結婚
    ジュリアーナ(1271年)
    ジョーン(英語版)(1272年 - 1307年) - 1290年に第7代グロスター伯爵(英語版)ギルバート・ド・クレア(英語版)と結婚、1297年に初代モンザーマー男爵(英語版)ラルフ・ド・モンザーマー(英語版)と再婚
    アルフォンソ(英語版)(1273年 - 1284年) - 初代チェスター伯
    マーガレット(1275年 - 1333年) - 1290年、ブラバント公ジャン2世と結婚
    ベレンガリア(1276年 - 1277/1278年)
    九女(1277年 - 1278年)
    メアリー(英語版)(1279年 - 1332年) - 修道女
    四男(1280/1281年)
    エリザベス(1282年 - 1316年) - 1297年にホラント伯ヤン1世と結婚、1302年に第4代ヘレフォード伯(英語版)ハンフリー・ド・ブーン(英語版)と再婚
    エドワード2世(1284年 - 1327年) - イングランド王

2番目の王妃マーガレット・オブ・フランスとの間に3人の子女をもうけた[2]。

    トマス(1300年 - 1338年) - 初代ノーフォーク伯
    エドマンド(英語版)(1301年 - 1330年) - 初代ケント伯
    エリナー(1306年 - 1310年)

エドワード1世を演じた人物

    マイケル・レニー - 『黒ばら』(1950年イギリス映画)
    パトリック・マクグーハン - 『ブレイブハート』(1995年アメリカ映画)
    スティーヴン・ディレイン - 『アウトロー・キング スコットランドの英雄』(2018年イギリス映画)

(出展; /Wiki)🔴

 

※ スコットランド国王については次ページに <()>

ーーー                                    初版20240409 時節項は次ページに

(画像・ 1) /www.caravelas.b ウィリアム-・-ウォレス、スコットランドのアバディーン市の像

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