岡潔と俳句及び連句
まずは岡潔氏のプロフィールを紹介します(ウィキペディアを参考、典比古補)
岡潔(おか きよし)、1901年〈明治34年〉4月19日 - 1978年〈昭和53年〉3月1日)は、日本の数学者。奈良女子大学名誉教授。理学博士(京都帝国大学、1940年〈昭和15年〉)。数学的業績は昭和29年、朝日文化賞(多変数解析函数に関する研究)、そして昭和35年には文化勲章を授与されています。
『春宵十話』(毎日新聞社、1963年・昭和38)等々、様々なエッセイを出版。小林秀雄との『対話 人間の建設』(新潮社、1965年・昭和40)などがよく知られています。
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岡潔著『日本民族』に出会う前に、すでに上記の『春宵十話』『人間の建設』などの著作と出会い、深い感銘を受けていました。
そしてこの『日本民族』の中の「芭蕉の章」に出会い、その句の鑑賞や、連句『猿蓑』に納められた「市中」の解説を読み、俳句、連句の面白さを知り、これが私が俳句との出会いの契機になったことは、すでに記しました。
俳句のことはこの『日本民族』の他にも、他のエッセイ集でも折あるごとに触れていますので、それぞれの主要部分を抜き書きしてみます。
「私はこれまで何度もいったように、フランスにいる間に、日本には空気や水のようにいつでもどこにでもあるが、フランスには無いなにか非常に大切なもののあることに気がつき、それが何であるかを真剣に探し求めた。
ある時セザンヌの郷里の風景に眺め入っていると、だんだん心が淋しくなってくることに気がつき、これだなと思った。・・・」と。
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岡氏はフランス留学中、氏と奥様、それに中谷冶宇治郎氏(雪の結晶で有名な中谷宇吉郎氏の弟)の三人で、貸し別荘を借りて住んでいた時、芭蕉およびその一門をよく調べるのが、それを考える近道だと考えて、日本から『芭蕉七部集』『芭蕉遺語集』『芭蕉連句集』などを送ってもらい研究していたという。
そして調べていくうちに「芭蕉の一門は『四季それぞれよい』といっているのです。(略)ところがフランスでは、フランスは緯度が高いから、夏が非常によい季節なのです。だから――夏は愉快な季節だが、冬は陰惨だ――こんなふうにいってます。
芭蕉およびその一門は、照る日、曇る日、雨の日、風の日、みなそれぞれ趣があるとみています。ところがフランスでは、天気の日は好きだが、雨の日は嫌いだといっています。(略)フランスでは、物を感覚によって受け取っています。ところが日本では情によって受け取るのであります。」と。
「そこで英米ではどうだろうと思って、辞典を引いてみますと、フィーリング(感覚)とエモーション(喜怒哀楽の情)の二つしかない」
それで、この情というもの、そして芭蕉をもっとよく知りたいと思い、その後、芥川龍之介の著書(「芭蕉雑記」「続芭蕉雑記」岩波版全集 第六巻)を丹念に読み、芭蕉の句の「しらべ」を教えてもらったと述べています。
後年、時実利彦氏の『脳の話』(岩波新書・1962年昭和37)から大脳生理学の最新の学説を取り入れ
「人は外界を二段に受け取りる。最初は大脳側頭葉で受け取る。これが感覚である。非常に小我的だと、大脳前頭葉は小さな感情、小さな意欲で占領されてしまっているから、自然や人の世のような大きなものは大脳前頭葉には映らない。だから外界との交渉は感覚で止まる。欧米人はだいたいそうである。しかし明治以前の日本人のように、どちらかというと真我を自分と思って、小我があまり強くない場合は、第二段階として外界を大脳前頭葉で受け取る。これが情緒である。」と。
これが、岡潔の思想を『情緒の哲学』という由縁である。
さて岡氏が35歳の時に初めて挑戦した連句の触りの箇所を紹介してみよう。
この連句に関しては、私は『詩あきんど』入会以前に、矢崎硯水先生のブログ『河童文学館』(下記ブログ)において、平成24(2012年12月)以来、今でもずっと続けています。そして2年前、『詩あきんど』を紹介していただいたのも硯水先生とのご縁であった。
さて1936年(昭和11年)の秋、しばらく休養するために、氏と友人の中谷宇吉郎氏の二人は伊豆の伊東にいた。そのときに読んだ寺田寅彦氏の随筆集『蒸発皿』を読んで、連句をしてみることを思いたったと言う。
中谷氏は去来をもじって〃虚雷〃(雷の研究に因んで)、岡氏は中谷氏が〃海牛〃(海牛というのは海の動物で、別に害はないが、薄気味が悪く、人は触らないから)とつけたらしい(笑)
秋晴れに並んで乾く鰺と烏賊 虚雷
蓼も色づく溝のせゝらぎ 海牛
夜毎引く間取りをかしく秋更けて 牛
さて目覚むれば烟草値上がる 雷
「私は構想を建直し建直しして数学の研究をして、とうとう疲れてしまったのであって、その努力感の記憶をそのまま三句目に型にとって一巻の趣向をきめた。中谷さんはそれをよく知っていて、この句は岡さんでなければ詠めない句だと口では言いながら、四句目でこのように肩すかしをしてしまったのである。私はすっかり戸惑ってしまって次の句が付けられなくて苦心惨憺した。今どうしてもこの五句目が思い出せないのである。」と。
氏と俳句との機縁を見てみますと、やはり幼少年期の、人及び育った環境も見逃せません。
氏は大阪で生まれ(1901年・明治34)ましたが、父寛治が日露戦争で出征したため、三歳には岡家の故郷である和歌山の紀見峠(標高四百m)に、母、祖父母と共に引っ越しました。
祖父の文一郎は「他人を先にして、自分をあとにせよ」という戒律を常々潔少年に言い続けていたという。潔と言う名前は、「日本人が桜が好きなのは、その散り際が潔いからだ」に由来して父が命名したそうだ。
祖父、文一郎を回想する文章で「正月には何時も俳句を書いたのを持ってきて、その席で皆にそれを見せた祖父の顔が浮かぶ。
俳句の右肩には何時も小さく、乞斧鉞(ふえつをこう)と書いてあった。」( 斧鉞とは、詩や文章の添削を請い求めること 典比古注)
また、母八重の弟の長男の俊平氏(氏と年恰好も近い)、すなわちいとこであるが、この方は、大東亜戦争中に紀見村の村長であり、生来の文人で「風太郎」という雅号をもった俳人であった。
『風太郎句集 麥門山房抄』に
石一つ残して野火の行(ゆくえ)哉 風太郎
この句は、風太郎(昭和58年没・85歳)句碑として紀見峠に建立された。
やはり氏の幼少期の周辺では、このような俳句を嗜むという環境と、紀見峠の自然に囲まれてのびのび育ったことがあげられると思う。
ただし、氏の本領はなんといっても数学であり、その業績に対して昭和29年、朝日文化賞(多変数解析函数に関する研究)、そして35年には文化勲章を授与されています。
その強烈な異彩を放つ業績から、西欧の数学界ではそれがたった一人の数学者によるものとは当初信じられず、「岡潔」というのは、ニコラ・ブルバギ(フランスの若手の数学者集団のペンネーム)のような数学者集団によるペンネームであろうと思われていたそうだ。
尚、毎日新聞に連載され著書になった『春宵十話』では、昭和38年、毎日出版文化賞を受けています。因みに岡氏の俳号は石風。
春なれや石の上にも春の風 石風
矢崎硯水先生ブログ『河童文学館』
この中の俳席をお借りして、連句しています(基本的に捌きは硯水先生が指導)
尚、『詩あきんど』では非懐紙連句もしておりますが、おいおい紹介したい。