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俺はもう、家から出ない!!

不条理な世の中に嫌気が差した少年が引き篭もり、外の世界との関わりをなくし、どんどん堕落していく物語。というか日記

高間筆子

2006-10-10 22:43:40 | Weblog
高間筆子は1900(明治33)年10月10日東京京橋区四日市町(現在の中央区永代橋のたもと)に生まれました。父茂助氏は石炭の運送業。長兄惣七氏は東京美術学校で西洋画を学び、後年は日展の審査員になっています。東京女学館卒業後の1919(大正8)年秋に流行したスペイン風邪にかかり、その回復の頃より長兄の画業に影響されてか、墨絵などを描くようになりました。

 1921(大正10)年川端画学校に入り、同年の朱葉会展覧会に5点、光風会展覧会に1点、蒼穹社展覧会に数点の水彩画や油絵を出陳、翌年も朱葉会展覧会に水彩画と油絵5点を出展しました。さらに地平社の同人に推薦され、新進の画家として将来を嘱望されるようになったのです。ところが母親とともに高野山詣での旅の途中で感冒にかかり、帰京。自宅静養中の1923(大正11)年5月9日、高熱に冒された筆子は突如自宅2階から路上に飛び降り、病院へ運んだものの手の施しようなく亡くなりました。享年23歳でした。

 社会的にはほとんど無名のまま夭折した筆子の才能を惜しみ、同年地平社は遺作展覧会を開き、52点の水彩・木炭画・油絵を展示したといいます。さらに地平社は筆子が絵とともに書き残した詩や和歌も含めて「高間筆子詩画集」を出版しました。高間筆子がこの世に残した全作品は、翌年の関東大震災ですべて灰燼に帰し、今日ではこの「高間筆子詩画集」によって、筆子のすさまじいまでの力にみちた業績を偲ぶほかなくなってしまいました。
 
ところが後年になって、詩人の草野心平が「高間筆子詩画集」に感動、同じく夭折した村山槐太・関根正二と並べ、「大正前期の若きオリオンズ」と讃え、デッサンは槐太より上手、詩は現代詩に見られぬ原初がある、と絶賛しました。
「高間筆子詩画集」には、萬鐵五郎も一文を寄せ、「芸術に熱し、表現に緊張する時は、非常に身体のエネルギーを消費するから、如何に健康な人でも、緊張の度合いが強く、それが長く続く様だとずいぶん耐えられないと思う。時々気を抜くことを考えないと続かない。彼女は気を抜くことが出来ずに、苦しい緊張が長く続いて、それから逃れることが出来なかったので、自分から肉体を亡ぼすことになったのであろう」と述べ、「彼女は生前、僕の所に芸術上の相談に来る意志があったそうである。もしそれが早く実現されたならば、彼女は或いは死ななくてもよい事になりはしなかったかと思われてならない」と筆子の死を惜しんでいます。

 
 このような短いけれど鮮烈な人生を生きた高間筆子を今週末4月24日(土)10:00~東京12チャンネルで放映する「美の巨人」という番組で取り上げてくださることになりました。どうぞご覧ください。この項目は元木光雄先生著「白菊物語」(平成11年度本校校誌「菊」所載)より抜粋させていただきました。
(´・ω・`)つhttp://www.tjk.jp/mh/takamafudeko/takama.htmより抜粋


どうやらうちの親戚らしい。


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