写遊電音堂

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福岡県志賀島を訪ねてみました。

2007年07月02日 | 旅行
 6月27日、福岡市にある志賀島まで行くことになりました。
観光目的ではなかったのですが、せっかくここまできたので歴史に関係のある場所を訪ねてみました。
 島は「海の中道」の先端に位置し、今は陸続きになっていますので、車ですぐに行くことができます。





この金印は現在「福岡市立博物館」に国宝として大切に保管展示してあります。

実物は1辺2.3センチほどの小さなものですが、黄金色に輝く大変すばらしいものです。
20年位前に「邪馬台国と吉備の国」展だったと思いますが岡山市で開催され、そのときの目玉としてこの金印が展示してあったのを見ました。その時には、展示期間の途中からレプリカに変わってしまったので良く覚えています。多分いろいろなところに、展示依頼があり、そうなったようです。展示用レプリカは4個あるそうです。
この金印には「漢委奴國王」の五文字が刻まれていますが、どう読むかはいろいろな説があるようですので、邪馬台国同様、皆さんも推測してみるのも楽しいのではないでしょうか。

島の海岸近くの、発見されたところが見渡せる場所に「金印公園」が造られ、観光に訪れた方の憩いの場になっています。





天明4年(1784)2月23日、発見され、黒田藩の学者・亀井南冥により、後漢書に見える、日本の奴国(なのくに)が光武帝から受けた金印と鑑定されました。
この金印は黒田藩で大事に管理されていたようです。

奴国が金印を受けたのは中元2年(AD57)1月と記録されています。恐らくは奴国
は当時北部九州を中心に朝鮮半島南岸にまで及ぶ勢力を持っていたのでしょう。

発見された時の様子ですが、金印の回りを石で囲い、その上に大きな石を置いて、蓋をした形になっていたとのことですので貴重な宝物として扱われていたのでしょう。

志賀島というと全国綿津見神社の総本社である「志賀海神社」があります、この神社は金印発見の場所からかなり離れています。しかし志賀海神社を作った安曇一族が入る前にここにいた勢力(奴国かも)の礼拝所はここにあったのかも知れません。
ここからすこし北には「蒙古塚」と呼ばれる史跡があります。
1274年文永の役の時、逃げ遅れた蒙古兵は捕虜となり、半分は京都におくられ、残りの兵はこの福岡の地で処刑されました。この蒙古塚は、その供養のために建てられたものです。
宿泊施設は「国民休暇村志賀島」があり人気があるようです。
福岡西方沖地震(2005.3.20)でこの島や、すぐ西にある玄海島などが震源に近かったため、大変な被害にあったようで、北端の旅館なども全壊してしまって新しく建替えて営業をされているようです。
美しい海岸線はデートコースで人気があるようで、夏には海水浴や釣りにも絶好の場所です。

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