写遊電音堂

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赤穂市坂越散策

2007年07月17日 | お出かけ
 7月15日、台風4号も無事通過し、ほっとしました。赤穂市の骨董市は台風のため中止でしたので、赤穂御崎海岸まで行ってみると、遠くの島までくっきりと見えました。時間があるのですこし東まで脚を伸ばすことにしました。

 坂越(さこし)は兵庫県の西部、播磨灘に位置する天然の良港坂越浦に古代から開けた港町です。17世紀には瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点として発展し、西国大名の参勤交代の港としても使われ大変賑わっていたそうです。
1613年(慶長18年) には岡山藩領になりましたが1615年赤穂藩に復帰しました。
1701年(元禄14年)浅野家断絶のため、幕府領になりますが1702年赤穂藩に領地が戻され、明治の廃藩置県まで続きました。

18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって内海の港町の多くが衰退するなかで、坂越は「赤穂の塩」を運ぶ拠点として明治時代まで栄えた。坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道(だいどう)」と呼ばれる通りの風格ある町並みは、往時の坂越の繁栄を伺うことができます。



この道には、現在も日本酒を造っている、造り酒屋がありますが、江戸時代の雰囲気をそのまま伝えているようです。創業は桃山時代の慶長6年(1601年)。
豪商「奥藤家」が、寛文年間(1661年~1637年)に建てた大規模な酒蔵群が現在も使用され、その一角に酒造と廻船の博物館・郷土資料館開設されています。

江戸時代の酒造道具や廻船に関する道具・資料が展示されているほか、奥藤家は庄屋・船手庄屋も務めていたため、坂越村に関する資料も残されています。
建物は奥藤酒造の現役の酒蔵でもあり、地酒「忠臣蔵」の利き酒もできるそうです。
この酒造会社に隣接して「坂越まち並み館(さこしまちなみかん)」があります。資料館兼観光案内所となっていますので坂越を散策するときにはぜひ寄ってみてください。開館はAM10:00となっていました。

近年になって、海岸線を散策できるように新しく護岸が整備されました。坂越の景観を取り戻すため松を植樹しています。この生島一帯は「天然記念物 生島樹林」として指定を受けているようです。





その場所からすぐ山手を見ると、大避(おおさけ)神社の大きな鳥居が目に入ります。祭神は「秦 河勝」・天照皇大神・春日大神。
その歴史は古く、養和元年(1182年)当時には、播磨国総社縁起によるとすでに有力な神社であったと記されているようです。 拝殿両翼の絵馬堂には、40数枚におよぶ大小の絵馬が掲げられ、中には明和年間のものもあって、舟絵馬としては日本で最も古いものだといわれています。





正面の海上に浮かぶ生島は神社の神域となっており、島内には祭神である秦河勝の墓があります。
この神社では、瀬戸内海三大祭りの一つ「坂越の船祭り」が催され各地から見物客で賑わうようです。
作家司馬遼太郎氏の著書にも出てきますが、すぐ東にある「室津港」とともに、この街の歴史に魅力を感じていたようです。

この神社のすぐ西に妙見寺がありそこの山中には、「児島高徳」の墓があります。
鎌倉時代から南北朝時代にかけ、南朝側について活躍した武士です。



先ほどの「「大道」から港に出てくる東角には江戸時代に立てられた「旧坂越浦会所」の建物があります。



この建物の東側の路地を山手に50mほど入ったところに「小倉御前(おぐらごぜん)の墓」と書かれた墓所があります。かなり昔の石塔が並んでいて、そこの案内板には「この五輪石塔は、南北朝時代の後亀山天皇の皇子、小倉宮の墓と言い伝えられています。皇子は、京都嵯峨の小倉山に住み人々に小倉宮と慕われていましたが、将軍家との争いのために坂越へ逃れて隠れ住みました。しかし争いに負けたことを知った小倉宮は坂越浦に身を投げてなくなったと伝えられています。その場所を御前岩と言い、船祭りの日にお供えをして供養をしています。」と書かれています。



地元瀬戸内市にある「牛窓」と共通する歴史と文化を育んだ「坂越」です、一度散策してみてはいかがでしょうか。

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