南の島移住記

フレンチポリネシア(通称タヒチ)のランギロア島に移住するまで・・・毎月20日(日本時間21日)更新です

第10回 楽園生活?

2012-06-20 12:17:39 | 移住記




楽園って、なんだろう? 

「最後の楽園」と呼ばれる場所が、地球上にはいくつかある。
タヒチもそのひとつに数えられているようだ。

このコラムにつたない写真と文章を連載することになり、
タイトルが「タヒチ・ランギロア 南の島 楽園生活」と決まったときに、
正直言って、私はとまどった。

「楽園生活」・・・。

これではまるで、南の島でのんびり楽しく暮らしていますと言っているようではないか。
そういえば以前、取材に来たリゾート情報誌の人から
「いいわネ Tシャツ短パンで仕事ができて」と
皮肉まじりに言われたこともあったっけ。
日本でがんばっている人たちからすれば、そう見えるのだろう。
それは仕方がないとも思う。

楽園と呼ばれる南の島に、なぜ私たちが日本を出て住むことになったのか、
そして、楽しいことばかりではないと覚悟して移住してきた
この土地でいかに生きてきたか。
10年という年月の間にはいろいろなことがありすぎて、
すべてを思うように書ききることはできなかったかもしれないけれど、
読んでくださった方に、楽園生活から私が感じ取った「何か」を
わかっていただいて、その人にとっての「何か」を作るのに
役立てていただけたらと、思う。
うまく表現できないのが歯がゆいのだけれど、今の私は、
南の島に移住したいという夢を持つ人に、それをすすめることも、
やめたほうがいいと言うことも出来ない。

しかしやはり、この島は、楽園にほかならなかった。

ただただ東京をぬけ出して、青い海のそばに住むことだけを考えていた私は、
率直に言って、この島がこんなにいいところだとは思わなかった。
ここまで住みやすく、心やすらぐ場所だとは思わなかった。

人の心を惹きつけてやまない青い海、広い空、寒さにふるえることのない気候、
さわやかな貿易風、咲きみだれる色鮮やかな花、たわわに実る果物、
ゆったり流れる時間・・・。
これらが「楽園」と聞いて人が頭に思い浮かべるものたちだろう。
このような条件を満たしている土地は、ほかにもある。
私も日本に住んでいたころには、ビーチリゾートをいくつか訪ねた。
が、タヒチはそのどことも違っていた。

人がみなやさしいのだ。
みんななぜあんな笑顔でわらえるのだろう。
そして気がつくと、自分もやさしい気持ちになっている。
飢えを知らない本当の楽園に住む人たちだけが持ちえる温かさなのだと思う。

移住してから10年がたった。
毎日毎日見てきたラグーンの青は、いまでも見るたびに、
私を泣きたいような気持ちにさせる。

夫は今でも「自分は敵前逃亡してきたと思っている」と言っている。
日本がいやになり、日本人が醜く見えたこともある。
が、海外に出て暮らすようになると、別の面が見えてくるようになった。
当たり前のことだけれど、どの国にもそれぞれの美点と問題点がある。

飢えのない楽園タヒチにも、影はさしている。
ムルロア環礁での核実験はあまりにも有名だけれど、
あと数年するとフランス政府からの経済援助が完全に打ち切られて、
タヒチはいやがおうにも経済的に自立しなくてはならなくなる。
親から甘やかされてきた満ち足りた子ども時代が終わって、
一人前の大人にならなくてはいけない。

ともあれ、ゴーギャンパールという黒真珠養殖場の社員として、
私は夫とともに核入れの仕事をやってきた。
仕事上では、会社の経営がゆきづまって他の会社に買い取られたり、
技術者としての自分の成績が低迷したりと、かなりつらい時期もあり、
日本へ引き上げることを考えたこともあったけれど
そのたびにもう少しがんばろうとお互い励ましあって、ここまでやってきた。
それはやはり、この島のことが大好きになっていたからだと思う。
もちろん正直な話、いまさら日本へ帰ったところで・・・というのもあったけれど。

インターネットがこの島で使えるようになったのが、
1997年ごろのことだったか。
私たちはさっそくプロバイダーと契約した。
今でこそ月々3000円ちょっとで接続し放題(電話代は別)になったけれど、
当初は信じられないくらい高額の入会金と、
毎月の使用料を支払っていた。

国際電話は当時1分300円くらいしたし、手紙は1週間以上待たないと
日本から届かなかった。
それを考えると、Eメールの便利なことといったら!
かなり長い文章が、瞬時にして地球の反対側に届いてしまうのだ。
それに、インターネットを利用して得られる情報量。
TVは1チャンネルしかなく、島には本屋もない。
書籍は重いので、航空便で日本から送ってもらうと、
本体の2倍くらいの送料がかかる。
インターネットの接続スピードはおそろしく遅く、ちょっとしたページを
ダウンロードするのにも気の遠くなるような時間がかかったけれど、
それでもリアルタイムに得られる情報は、とてもありがたかった。

そして、1999年3月、Webサイト「ナヴェナヴェ・ランギロア」を開設。
大好きなランギロアのことを1人でも多くの人に知ってほしい。
これからランギロアへ来ようとしている人が、
最大限に滞在を楽しめるよう手助けをしたい。
そう思って、夫と2人で一から作り上げたサイトだ。

私は、2001年12月いっぱいで、ゴーギャンパールを退職した。

夫は核入れの仕事を続けている。
ここへ移住してきたはじめの頃は、
「そのうち自分たちの養殖場を持てたらいいね」と、将来について
思ったこともあったけれど、世界的な不景気を背景に
(もちろん原因はそれだけではないのだが)、
黒真珠産業もよほど条件がそろっていないと、
外国人が気軽に首をつっこめるような業界ではなくなってしまったように思う。

10年前の12月、「転職するなら30歳までに」と言っていて、
タヒチ移住を決めた帰りの飛行機の中で、30歳の誕生日を迎えた夫だった。

この12月、ちょうど10年を迎えて、私たちはまた新たな転機を迎えている。
子どものいない二人だけの身軽な体だ。
好き勝手なことをやって面白おかしく生きている、というのが、
ほとんどの人が私たちに対して抱く感想だろう。
それに反論する気持ちはない。
だが、そんな私たちだからこそ出来ることがあるはずだ。

これまで10回にわたって、タヒチに移住するまでとその後の10年間について、
早足で語らせていただいた。
巷では、日本の「失われた10年間」という言葉が聞かれるけれど、
日本の外で過ごした10年間が自分たちにとって何だったのか、
そしてこれからどうしたいのか、日本はどうなって行くのか。
じっくり考えつつ、新しい一歩を踏み出したいと思っている。



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もう何度も書いていますが、移住してから10年たって
つづった文章を、それからさらに10年が経過した今
起きたことを反芻するように、記憶を掘り起こすように
読み返しています。

失われた10年間。
この間には、阪神大震災、オウム事件という日本人の価値観を揺るがすような
出来事が起きました。

特にオウム事件の前と後で、日本人ひとりひとりの心の中で
何かが大きく変わったのではないでしょうか。
もうあれを知る前には戻れない。
そんな事件に思えました。

子供を持つことについては、移住記の第1回に書きましたが
都会で子育てをする自信はなく、タヒチに移住してからは
自分たちのことで精一杯でした。

ようやく島の暮らしに慣れて、浮き草ではなく根を張ったかなと
思える頃には、こんな環境でなら子供ものびのび育てられるのではと
考えが変わりましたが、結局恵まれることはありませんでした。
それは残念なことでもあり、そのあとの10年間に起きたことを
思うと、それでよかったのかもしれないと
自分に言い聞かせたりもする、夫婦にとっての
大きな事実だったかもしれません。

インターネットについては、大都市のように
安くて速くてとはいきませんが、それでもブログや
サイトの更新がスムーズに行えて
動画を見ることができ、Skypeでビデオチャットができるまでに
なりました。
値段も月々5000円弱です。
仕事の上でも余暇を過ごす上でも、そして
日本の家族や親しい友人とコミュニケーションをとるツールとして
インターネットはなくてはならないものとなっています。
インターネット万歳!と日々感謝したいほどです。

仕事。
私は2001年いっぱいで、9年間勤めた
黒真珠養殖場を退職しました。
いくつか理由がありましたが、一日中すわって
無理な姿勢をする仕事で、健康をそこねてしまったのが
一番の理由です。
今思えば、このとき既に、のちに大きな手術を受けることになる
重大な病気にかかっていたのでしょう。

夫は、さらに3年間がんばったのちに
養殖場を辞めました。

アレルギー体質の夫は、貝のアレルギーにやられて
強いステロイド剤の注射を打ちながら
だましだまし仕事を続けていましたが
注射を打つ間隔がだんだんと短くなっていました。

命を削って続けるような仕事ではないのです。

それに、日本人が独占していた核入れの仕事に
次第に賃金の安い中国人が入ってくるようになり、そして
タヒチの若者が就くようになってきていました。
国の主要産業を外国人にまかせない。
このことは、とても良いことだと思いました。

30歳で大きな転機を迎えた夫。
次の分岐点は、40歳を少し過ぎた頃に来たわけです。

細々と準備していた村の写真屋さんの仕事を
本格的に始めることにしました。

そして私は、通訳・翻訳業へ。

ゴーギャンパールという会社勤めの身分を手放すということは
それまで会社が面倒を見てくれていた
滞在許可申請や保険などを、自分で手続きしなければ
ならないということでもあります。

すべてを覚えていないほど、色々な書類を作り
申請をして、どうにかこうにか
10年間有効な滞在許可証と
夫は「フォトグラファー」私は「通訳」の
営業許可を手することが出来ました。

2012年12月に、夫は50歳になります。
さて、次は何が待っているのでしょうか?
扉は、目の前にいくつかあるように見えます。
どの扉をあけるのでしょうか。

移住記は、これでおしまいにしたいと思います。
が、20年前に夫が研修で島々をまわったときの
興味深い文章がありますので
それを数回に分けて、お届けする予定です。





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