南の島移住記

フレンチポリネシア(通称タヒチ)のランギロア島に移住するまで・・・毎月20日(日本時間21日)更新です

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ツアモツの島々をめぐって 3

2012-09-20 14:10:22 | ツアモツの島々をめぐって




両手でも開かない貝を、ニコニコしながら片手で開ける。
「根本的に何かが違う」と思った。

カティウ島での仕事は、貝に病気が出始めたため、予定より早く終わることになった。
「こんなきれいな海なのに、なぜ病気なのか?」と思うが、
夏休みに市役所から聞こえてくる「光化学スモッグ注意報」を知っている世代としては、
なんとなくピンとくる。

島にある貝では足りないので、他の島から運んできて養殖数を確保しているのだが、
その貝に病気があったために、もともと島にいた貝に病気がうつってしまったそうだ。
「しばらくすれば、病気に慣れて回復するよ!!」とのIさんの一言で、
貝の自然治癒に任せるため手術を止めて、他の島を目指すことになる。

テポト島は、1家族しか住んでいなくて、ボートで着くと家族全員で迎えてくれた。
島は小さく、向こう岸がぐるっと一周見渡せる。
ラグーンは浅く、薄い瑠璃色で覆われていた。
すでに何ヶ所か島を回ってどこの島も綺麗だったけれど、
この島のあまりの光景に、人工物ではないかと考えてしまう。
この島には、数時間の滞在で、でもここでも貝があるのでIさんだけ手術をして
かわりにヤシガニをもらう。
実物は初めて見たけれど、青いのや赤いのや紫のものなど、なかなかカラフルだった。
味の方は、身よりも内臓の周りのソースがココナッツの味で濃厚で、
それはそれは美味しかった。

モツトンガ島は、村自体はさらに小さく、というか数家族しか住んでいなかった。
「日本人が来るのは初めてだ!!」
とおじいさんに言われてなんだかうれしくなる。

日本人が初めてなんて、川口浩探検隊みたいでカッコいいではないかと、
われわれ3人は、椰子の木に思わず名前を彫ってしまった。

そこで、初めて天然の黒蝶貝を見る。
カティウ島で見た物の1.5倍はあるし、貝柱が硬くて開けられないので、
腕周りが私の腿ぐらいある息子が呼ばれ開けてくれる。
それもニコニコしながら片手で開ける。根本的に何かが違う。

昼休みに魚の煮付けを出してくれた。
プリプリして美味しいこの魚は何だろうと台所を覗くと、
かの有名な「ナポレオン・フィッシュ」が切り身で残っていた。
数ヶ月前までは、この魚に海の中で会えるとうれしがっていたのだが・・・・
ダイバーとしては複雑な心境であった。
が、今後はきっと水の中で会うと、美味しそうに見えてしまうのだろう。

この島には、Mさんファミリーの土地があるので、夜はそこに帰り、寝る。
屋根に使う波板でできた、家と言うより物置といったほうがぴったりくる家だ。
足元は珊瑚の砂利なので、薄いマットをひいてもゴツゴツするし、寝返りは痛くてうてない。

幸い「蚊」が少ないのでよく寝られそうだと思っていたら、
眠りかけた意識の中に戦車が現れた。

ガタガタ、ゴゴゴーッ!!

「何!!」と思って起きると、
そこらじゅうでヤドカリがうごめいていた。

小さいのから大きいのまで、珊瑚の砂利の上を一所懸命あるいている。
音の理由がわかれば不気味ではないが、ウトウトしてくると、結構あの音が気になる。
と言いつつもそのうち眠りに落ち、何回か痛い寝返りを打って、朝を迎えた。

翌朝、Iさんに「ヤドカリがすごい音でびっくりしました」と言うと
「音もだけど、赤ちゃんなんか危ないよね!」と、
確かにあの大きさのハサミは、赤ちゃんの指なんか簡単に切ってしまいそう。

ヤドカリは雑食だから、人も襲うのだろうか?
その夜は、妙に耳が気になって、指は大人だから太いけれど、
耳たぶなんかちょうどお誂え向きな気がする。

島出発の前夜、Mさんの弟が数日前から作っていた干しウツボと河豚を食べる。
どちらも初体験。
河豚は日本では高くて食べたことがなかったし、ウツボは売っていなかったので
食べたことがない。

河豚の毒が気になったが、「よく血を洗ったから」と言う言葉を信じて食べる。
感想としては、ただの白身の魚の味だった。

ウツボは、作った本人はニコニコして食べているが、
タヒチアンの兄貴二人はまだ食べていない。
頼みの綱のIさんも「別に、大丈夫じゃない?・・・」といつもより返事が弱い。
だめならだめと言って欲しい。
少しだけ食べると、南洋の魚にしては油がのっていてコッテリしている。
二口三口付き合いで食べて、終わりにした。
その夜、別に舌がしびれたりせず、初河豚は無事にすんだ。

翌朝早くに船を出し、再度カウアヒ島を目指す。

数時間して、ゴロゴロ、キュルキュルと腹が言い出した。
はじめは我慢していたが、だんだんひどくなる。
島まではまだまだかかると言う。外洋で海に入って用をたすのもなんだか怖いし。
「すみません!!トイレに行きたいです」と告げると、
「わかった」の一言で進路を変えて、近い島に向かってくれることになった。
なんだか、とても申し訳ない。
必死でこらえて島影が見え、パスを抜け、村の桟橋にボートが着いたときには、
すでに片手にはトイレットペーパーを持っていた。

村の人は、「あっち」と指をさし、自分の家のトイレを貸してくれ、間一髪間に合う。

すっかり腹の具合も良くなってボートに戻ると、Mさん、弟さんもいない。
「みんな、腹を下している。ウツボのせいだよ」とIさん。
私が「すみません!!」と言ったことで、実は、ほとんど全員がほっとしていたのだった。

この後、快調(快腸)にボートは次の目的地をめざした。




3回に渡って、夫が書いた経験談を掲載しました。
私が今読んでも、面白いなあと思ってしまいます。

ゴツゴツの床で寝たり、雨に濡れて寒い思いをしたり
蚊に刺されまくって高熱を出したりと、すさまじい経験です。
私には、とても出来そうにありませんが
それを私に代わって乗り越えてくれました。
そして、現在の私たちがいます。

つらい思いもたくさんしたのでしょうけれど
旅行会社などが「楽園」とうたう以上に美しい
景色にも出会い、そのときの海の色や風の感触は
夫の網膜に焼きつき、そして心の宝箱のなかに、そっとしまって
あるのでしょう。

このとき島巡りをしながら研修を終えた夫は
ランギロアに戻ってきました。

そのあとのことは、私が書いた移住記につながっていきます。

最近 夫は、「自分の夢ってなんだろう」と
しきりに自問しているようです。
目標と夢は違います。理想も違う。

「この島に移住したことで、夢はかなえてしまったのかも
しれない」と言いつつも、この12月で40代に別れを告げる彼は
また新たな「夢」について思いがありそうです。

「夢のまた夢」ではない、実現可能な夢。

私も夫とともに、これからの夢について、思いをはせることにします。

今まで読んでくださり、ありがとうございました。

またどこかでお会いしましょう。

マウルル ロア





photo&text by Masaharu&Naoko NISHIMURA (C)all rights reserved


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ツアモツの島々をめぐって 2

2012-08-20 11:25:59 | ツアモツの島々をめぐって




超ベテランの真珠挿核手術は「簡単そう」に見えるほどスムーズだったが、
生まれてはじめての挿核手術は、「何も始まらず」に終わった。

小さなパスからラグーンに入り、ボートはスピードを上げる。
ボートが作る白い泡とラグーンの青の対比に、目がすい寄せられる。
緊張と緩慢、高揚と不安、頭の中はグルグル回り、何ひとつちゃんと考えられない。
目を閉じて、じりじり、いやチリチリと照り付ける太陽と風に集中して
ゆっくりと息を吸い込むと、「綺麗な海」にいる自分を実感できた。
タヒチに着いてから数日たち様々な事があったが、何か実態感が欠如していた。

しばらくして養殖場に着く。
海の上に4畳半ほどの作業場があり、その横に同じ広さの屋根付きのデッキがある。
陸までは4mほどの幅の細い桟橋でつながっている。
母屋とバンガロウが3棟、Iさん用のちょっと大きなバンガロウが1棟ある。

あてがわれた部屋は、新しく快適そうだった。
家族を紹介される。Mさんの奥さんと娘さん、親戚の甥っ子だそうだ。
みんなはにかみながらもニコニコ迎えてくれた。
母屋では無線で連絡が入っていたのだろう、食事が用意されていた。

翌朝5時前から何となく起き出し、まだ薄暗い食堂で
コーヒーとクラッカーの食事をする。

Mさんは、コーヒーにコンデンスミルク(イチゴなどにかける練乳)を
ボーっとしながら入れている。
見ているとずっと入れている。穴が小さいのもあるがまだ入れている。
結局、コンデンスミルクでコーヒーの量は1cm(本当は5mmぐらいだろうが、
その時は1cmに思えた)は増えていた。
自分が終わると、ニッとして缶をよこすので、スプーンに2匙ほど入れる。
甘くない・・・もうちょっと、まだ足りないもうちょっと・・・
3mmほど増えたところで止めにする。
糖分が体に染みわたって行くのがわかり、元気がでてくる。
でも、Mさんは3倍入れていた。タヒチアンは甘党である。
なぜなら他の家族も同じように、カップの上で缶を持って、
ボーっとした顔でしばらくそうしている。

仕事は、まず道具作りから。
各人の好みに合わせてメスの形・曲げがあり、「これで!」と言う
決まった形はないそうで、Iさんの形・曲げで作っていただく。

確かにMさんのをあとで見てみると形・曲げともかなり違っていた。
メスは、はじめから作ると一日仕事なので、Iさんが使っていたメスを曲げなおしてくれた。

「じゃ!見て。見える?もっと寄ってもいいよ!」
「はじめの入り口はあの辺りで・・・こうして・・ああして・・」
「?????」
「大切な事は、無理に押したり貝に負担かけない事!!」
「・・ハイ」と答えたが、第一印象は「簡単そう」
もちろん超ベテランがされているので、「そう見えた」というのが正しいのだが。

すいーっ、ささっ、とかそういった擬態語がぴったりくる。
ひゅっとかひゃっとかではない。
もちろん、グリグリ、ゴキゴキでもない。

「じゃちょっとやって見る?」とIさん。
どうなるかはわかっている。
生まれてはじめての挿核手術、うまくできるはずがない。
問題はどこまでできるかである。

「貝の向きはこうね」
「左手はこう、で右手の薬指はこう、で・・」

丁寧に一つ一つ教えくださる。
プロの仕事は無駄がないので、今教わっている一つ一つが大切な技術でありコツなのだ。

さて、いよいよだ!
メスの向き、入り口、・・ではとばかりメスを貝の体に入れようとするが
「スッ」と入らない、あんなに切れるメスでIさんはスイッと入っていたのに、
相手は生きているので、反応する。
力をいれるとなおさら反応する。
見事に貝の身は縮まり、手術できなくなってしまった。
上手く出来るとか、どこまでできるかではなく、何も始まらず、
生まれてはじめての挿核手術は終わった。

「はじめては、みんなそう!!あせっちゃだめ。肩の力抜いて」
想像をはるかに下回る結果に、「そういう物さ!!」と思いながらもあせる。
とにかく慣れるしかない。
移植する細胞片作りは、数回の大失敗の末、
「上手いね!!」と言ってもらえて嬉しくなる。
手術できない病気の貝をもらっては、メスの練習がしばらく続いた。

島にきてから数日たって、大雨が降った。

こちらでは、井戸水が海水まじりなので、
雨水は大切な生活用水になる。
久しぶりに真水のシャワーでさっぱりするとよろこんでいたのだが、
仕事が終わり部屋に帰ると、ルーバー窓の隙間から雨が吹き込み、
壁際にあった衣類のバックがびしょびしょになっている。

雨に濡れても、こちらの雨は東京の雨と違い綺麗なので、
濡れても臭くならないし、頭も痒くならない。
でも、外は雨、乾かせないし、うすら寒いし、
とりあえず被害の少ない長ズボンとTシャツを着て、夕食も早々に部屋にもどる。

夜になり、雨だけでなく風が強くなり、いよいよ寒くなってきた。
長ズボン&Tシャツ2枚&パーカーでも寒い。
タヒチでは掛け布団は使わないので、ない。
タオルケットもない。
あるのは薄いシーツのような布だけ。
このままでは風邪をひくと思い、散々考えマットレスをもう一枚借りてきて
部屋の隅に引き、残りの一枚を立てかけた。
ちょうどマットレスで人が入れるだけの三角のスペースができる。
風もこないし、あったかいし、これで朝まで寝られるとホッとする。

夜中に雨、風は止み、「暑い!!」とマットレスを跳ね除けるまでの数時間は、
涼しくてぐっすり眠れた。

つづく




1992年、私が日本で待機している間
夫が真珠核入れの技術を学ぶために、先生であるIさんとともに
ツアモツの島々を回ったときのエピソード第2回です。

ツアモツ諸島は、77の環礁から成っていて
黒真珠の母貝となるクロチョウガイが天然に生息する
真珠養殖にうってつけの環境のラグーンがあります。

国内線のエアタヒチが離発着できる滑走路を持つ島も多くありますが
船でしか行くことができない島も数多くあります。

夫がめぐったのは、そのような島々がメインでした。

私は、ランギロアをメインに黒真珠の核入れの仕事をしていましたので
飛行機が飛ばないような島には行ったことはありませんでした。

が、私たちが勤めた養殖場の創立者が、経営に行き詰って
大きな企業に養殖場を売却したとき
研修のため、アラティカという島で働いたことがありました。

アラティカ環礁へは、エアタヒチは飛んでいません。
小さな滑走路がありますが、これはその企業が
養殖場のために作ったもの。

ですから、会社の小さなプライベート機で
アラティカに向かいました。

いくつもの理由で、ランギロアを離れてその島へ行くのは
私も夫も、いやでいやで仕方なかったのですが
ボスからの命令となれば、断るわけにもいきませんでしたし
これも経験と思ったものです。

アラティカにも小さな村はあったようです。
人口は何人いたのか、さだかではありません。
サイクロンの直撃を受けた悲しい過去をもつ島です。

1ヶ月ほどいて、真珠を取り出す作業をしましたが
本当に、住居と仕事場を往復するだけの毎日でした。

私たちが訪れたときは、養殖場も休暇に入る直前で
働いているスタッフも多くなく
技術者は、日本人の方が2名か3名いただけだったと記憶しています。

みんな単身です。

単身者用の住居と、夫婦・家族用の住居はまったく別の場所に
建てられていて、私と夫は、毎朝仕事場まで
椰子の木の林の中を通り抜けて通勤していました。

ほかの日本人の方たちとは、仲良く楽しく
一緒に働くことができました。
思い出すと、面白い体験をしたなあと感じます。

TVも何もないので、仕事が終わると、ものすごく暇でした。

持ってきた本をものすごくゆっくり読んでも、読み終わってしまい
小さなラジカセで持ってきた音楽は
何度も何度も繰り返し聴きました。
確かカーペンダーズだったかな。

週に1度か2度か、物資が届くと
みんなで喜んだものです。卵は貴重な食べ物。
フランスパンも飛行機で運ばれてくると
奪い合い・・・ということにはなりませんが
みんなでありがたく分け合いました。

休日には、スタッフがフィリフィリ(くるりとねじった揚げパン)を
作って、配ってくれたなあ。

ツアモツにある77の島で、人が住んでいるのは
おそらく半分に満たないでしょう。

私が暮らすランギロア島は、ツアモツの中でも
人口、インフラなどの面でもっとも充実していて
生活しやすい島でしょう。

それでも、食料品などの物資を運んでくる貨物船は
週に2,3隻で、マガザン(食料雑貨店)で売られているものは
20年前とそう大差ないように思えます。

しかし、ランギロア以外の島々では
さらに物資のないシンプルそのものの環境で
日々を暮らしている人がおおぜいいるのです。

魚を釣り、ココナッツの果汁を飲み、たまに手に入る小麦粉で
パンを焼いたり、パンの実を食べたり、庭になるバナナや
グレープフルーツもあるでしょう。

どんな島にも、教会がありますので
日曜日には家族そろって礼拝へ。

太陽と風のリズムで生きる・・・自然の脅威にさらされることも
もちろんありますが、住む人々はそれを理解して
淡々と受け入れて暮らしています。

現金収入がなくても、寒さに震えたり飢えに苦しむこともなく
生きていけるツアモツの島々。
本当の意味の「最後の楽園」かもしれないと
思うことがあります。





photo&text by Naoko and Masaharu Nishimura(C)


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ツアモツの島々をめぐって 1

2012-07-20 17:05:14 | ツアモツの島々をめぐって
このブログを読んでくださっているみなさま。
いつもありがとうございます。

今日は20日(タヒチ時間)、月に一度の更新の日です。
移住にいたるまでのあれこれは、前回でとりあえず終えました。
が、夫が10年前に書いた、私が日本に戻ったあと
研修で周った島々についてのエピソードがありますので
それを3回にわけて、今までと同じ更新日に掲載する予定です。

この移住記は、おそらくそれで終了になると思います。

ほかに何か書いておくことがあるかなあ・・・
まだ何か書き足りないような気もいたします(笑)

では、夫にバトンタッチ!








「ここは、どこなんですか?」 私はおそるおそる、Iさんに聞いてみた。

かみさんを日本に送り出した次の朝、Iさん、Oさんと初めて会い、
とりあえずカティウという島にIさんの黒真珠養殖場があるので、
そこをベースに数ヶ月間研修をすると聞かされる。

明日、まずはマケモ島まで飛行機で渡り、そこからは船で移動して
カティウ島に入るとの事。
翌朝まだ薄暗い中から飛行場に移動すると、Iさんの共同経営者のMさんと
そのお兄さんと弟さんがすでに待っていた。

マケモ島経由ではなく、ファカラヴァ島経由で行く事になったと説明されるが、
「ハイッ、わかりました」と答えるしかない。
30人乗りほどの小さな飛行機で、まずはファカラヴァ島を目指す。

あいにくの天気で雲が多く、ファカラヴァ島に着いた時も雲が低く
窓からの景色はどんよりとして、自分の不安をあらわしているよう。
飛行場と言っても「掘っ立て小屋」があるだけで、
飛行機が飛び立ってしまうと、降りた人と一緒に村まで車で各自移動して、
無人の飛行場となる。

村までのガタガタ道(道というか大きな獣道のよう)を
トラックの荷台に揺られて移動するが、立っているとココ椰子の葉を
年中避けていなくてはならない。

わずかの時間で村に到着。
村と言っても小さな小さな村で、10軒も家がないように見える。
村の港にあるボートを指して、「カッコイイデショ!!」と
Iさんは自慢げに言う。
確かに他に係留してあるボートに比べて、遥かに「カッコイイ!!」。

そう、「カッコイイ」ボートには、屋根、日よけ、しぶきを防ぐ物はない。
ラグーンにある港からボートが走りだし外洋に出ると、
波はたいした事はないが風が強く、しぶきが半端ではない。
ものの30分程でシャツはびしょびしょ、ズボンもパンツも
シャツからの雫で同様なありさま・・・・。
「東京の生活を洗い流して・・・」と半分やけくそになるが、心のどこかで楽しんでいる。


出発前に一応経路を聞かされているが、ファカラヴァ島とカティ島の
位置関係や距離などまったく知らないので、どのぐらいこの「命の洗濯」が
続くのかわからない。

少なくとも、日暮れまでには着くのだろうと腹を決める。
何度顔を拭い、めがねのしぶきを指で払ったろうか。
Iさんが「船長が島が見えてきたと言っている」と教えてくれるが、
まったく見えない。タヒチ人は本当に目が良い。

それから40分ほど走って、やっと黒いごみのようなものが
波頭に見えるようになってきた。
先ほどから少し日が差してきたが、風は相変わらず強い。
小さな黒いごみが島影とわかり、ココ椰子のシルエットがわかるようになると、
なんだか泣きたい程うれしくなってきた。
”この島から、新しい人生が始まるんだ!!”

島の小さなパスを抜けてラグーンに入ると、いままでの風と波が嘘のように、
そこには澄み切った青いラグーンが広がっていた。

ラグーンを少し走ると、岸にボートをつける。
3メートル四方のトタンで出来た小屋というか、見た目は悪ガキが作った
立派な秘密基地にしか見えない小屋が、そこにはあった。

”ここで、数ヶ月研修するのだろうか?”

いきなり、暗いを通りこして、悲壮感でいっぱいになる。
勇気を奮い起して、おそるおそる冒頭の質問をIさんにしてみると、
「風が強くてカティウ島にはいけないので今はカウエヒ島にいる。
ここで休んだら、明日村に行って、天気の回復を待ってカティウ島に向かう」との事。
うれしい気持ちがこみ上げると同時に、タヒチでは、
予定は本当に予定で未定なんだなと確信した。

「秘密基地」でしばらく休み、どこまでも青いラグーンを
気持ち良くクルーズして村に到着すると、今晩泊まる親戚の家に荷物を降ろす。
午後を少し回ったばかりで日はまだ高く、時間があるので、小さな村を散歩する。

村と言ってもさほど人は住んでいないので、家と家はそこそこ離れて建っている。
特に見るものはないが、なんだか感動する。
しぶきでびっしょりになった衣類はとうに乾いているが、塩のせいでごわごわしている。

「シャワーは、井戸水だから!!」とIさんに言われ後に続くと、
家の裏に40cm四方の穴が掘ってあって、水が溜まっている。
パンツ一枚になってバケツで水をくんでかぶると、思った程海水は混じっていないが、
あきらかに「ショッパイ」。

さっぱりしたようなしないような・・・そんな感じで午後が過ぎ、
簡単な夕食をランプの灯った部屋でとり、早々に寝ることになった。
興奮していたけれど、疲れていたのですぐに眠りについた。

翌朝は、薄暗いうちから目が開いてしまったので、家の外に出てみると、
家の周りでスポンジのマットをひいて何人かが寝ていた。
私たちがやってきたので、客人に部屋を提供して自分達は外で寝たのであろう。
確かに、雨さえ降らなければ、せまい思いをして
風通しの悪い部屋の中で寝るよりも涼しいのだろう。

朝早く島を出発して外洋に船が出ると、昨日の荒れが嘘の様に波が少なく
船足も速く、気持ち良い風を受けながら、カティウ島を目指す。

また例によって船長の「見えた!!」を聞いてから40分ほどして、
ぽつんと黒くしみが見えさらにしばらく走り緑の島影が見えてきた。
パスからラグーンに入り村を過ぎ、養殖場のある場所までさらに進む。
本島の首都パペーテを出てから、一日半して目的地に到着した。
ここで、数ヶ月間研修する予定だ。
でもこれも、あくまでも「予定」で、どうなるかは始まってみないと、
いや終わってみないとわからない。

つづく





photo&text by Naoko&Masaharu Nishimura(C) all rights reserved
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第10回 楽園生活?

2012-06-20 12:17:39 | 移住記




楽園って、なんだろう? 

「最後の楽園」と呼ばれる場所が、地球上にはいくつかある。
タヒチもそのひとつに数えられているようだ。

このコラムにつたない写真と文章を連載することになり、
タイトルが「タヒチ・ランギロア 南の島 楽園生活」と決まったときに、
正直言って、私はとまどった。

「楽園生活」・・・。

これではまるで、南の島でのんびり楽しく暮らしていますと言っているようではないか。
そういえば以前、取材に来たリゾート情報誌の人から
「いいわネ Tシャツ短パンで仕事ができて」と
皮肉まじりに言われたこともあったっけ。
日本でがんばっている人たちからすれば、そう見えるのだろう。
それは仕方がないとも思う。

楽園と呼ばれる南の島に、なぜ私たちが日本を出て住むことになったのか、
そして、楽しいことばかりではないと覚悟して移住してきた
この土地でいかに生きてきたか。
10年という年月の間にはいろいろなことがありすぎて、
すべてを思うように書ききることはできなかったかもしれないけれど、
読んでくださった方に、楽園生活から私が感じ取った「何か」を
わかっていただいて、その人にとっての「何か」を作るのに
役立てていただけたらと、思う。
うまく表現できないのが歯がゆいのだけれど、今の私は、
南の島に移住したいという夢を持つ人に、それをすすめることも、
やめたほうがいいと言うことも出来ない。

しかしやはり、この島は、楽園にほかならなかった。

ただただ東京をぬけ出して、青い海のそばに住むことだけを考えていた私は、
率直に言って、この島がこんなにいいところだとは思わなかった。
ここまで住みやすく、心やすらぐ場所だとは思わなかった。

人の心を惹きつけてやまない青い海、広い空、寒さにふるえることのない気候、
さわやかな貿易風、咲きみだれる色鮮やかな花、たわわに実る果物、
ゆったり流れる時間・・・。
これらが「楽園」と聞いて人が頭に思い浮かべるものたちだろう。
このような条件を満たしている土地は、ほかにもある。
私も日本に住んでいたころには、ビーチリゾートをいくつか訪ねた。
が、タヒチはそのどことも違っていた。

人がみなやさしいのだ。
みんななぜあんな笑顔でわらえるのだろう。
そして気がつくと、自分もやさしい気持ちになっている。
飢えを知らない本当の楽園に住む人たちだけが持ちえる温かさなのだと思う。

移住してから10年がたった。
毎日毎日見てきたラグーンの青は、いまでも見るたびに、
私を泣きたいような気持ちにさせる。

夫は今でも「自分は敵前逃亡してきたと思っている」と言っている。
日本がいやになり、日本人が醜く見えたこともある。
が、海外に出て暮らすようになると、別の面が見えてくるようになった。
当たり前のことだけれど、どの国にもそれぞれの美点と問題点がある。

飢えのない楽園タヒチにも、影はさしている。
ムルロア環礁での核実験はあまりにも有名だけれど、
あと数年するとフランス政府からの経済援助が完全に打ち切られて、
タヒチはいやがおうにも経済的に自立しなくてはならなくなる。
親から甘やかされてきた満ち足りた子ども時代が終わって、
一人前の大人にならなくてはいけない。

ともあれ、ゴーギャンパールという黒真珠養殖場の社員として、
私は夫とともに核入れの仕事をやってきた。
仕事上では、会社の経営がゆきづまって他の会社に買い取られたり、
技術者としての自分の成績が低迷したりと、かなりつらい時期もあり、
日本へ引き上げることを考えたこともあったけれど
そのたびにもう少しがんばろうとお互い励ましあって、ここまでやってきた。
それはやはり、この島のことが大好きになっていたからだと思う。
もちろん正直な話、いまさら日本へ帰ったところで・・・というのもあったけれど。

インターネットがこの島で使えるようになったのが、
1997年ごろのことだったか。
私たちはさっそくプロバイダーと契約した。
今でこそ月々3000円ちょっとで接続し放題(電話代は別)になったけれど、
当初は信じられないくらい高額の入会金と、
毎月の使用料を支払っていた。

国際電話は当時1分300円くらいしたし、手紙は1週間以上待たないと
日本から届かなかった。
それを考えると、Eメールの便利なことといったら!
かなり長い文章が、瞬時にして地球の反対側に届いてしまうのだ。
それに、インターネットを利用して得られる情報量。
TVは1チャンネルしかなく、島には本屋もない。
書籍は重いので、航空便で日本から送ってもらうと、
本体の2倍くらいの送料がかかる。
インターネットの接続スピードはおそろしく遅く、ちょっとしたページを
ダウンロードするのにも気の遠くなるような時間がかかったけれど、
それでもリアルタイムに得られる情報は、とてもありがたかった。

そして、1999年3月、Webサイト「ナヴェナヴェ・ランギロア」を開設。
大好きなランギロアのことを1人でも多くの人に知ってほしい。
これからランギロアへ来ようとしている人が、
最大限に滞在を楽しめるよう手助けをしたい。
そう思って、夫と2人で一から作り上げたサイトだ。

私は、2001年12月いっぱいで、ゴーギャンパールを退職した。

夫は核入れの仕事を続けている。
ここへ移住してきたはじめの頃は、
「そのうち自分たちの養殖場を持てたらいいね」と、将来について
思ったこともあったけれど、世界的な不景気を背景に
(もちろん原因はそれだけではないのだが)、
黒真珠産業もよほど条件がそろっていないと、
外国人が気軽に首をつっこめるような業界ではなくなってしまったように思う。

10年前の12月、「転職するなら30歳までに」と言っていて、
タヒチ移住を決めた帰りの飛行機の中で、30歳の誕生日を迎えた夫だった。

この12月、ちょうど10年を迎えて、私たちはまた新たな転機を迎えている。
子どものいない二人だけの身軽な体だ。
好き勝手なことをやって面白おかしく生きている、というのが、
ほとんどの人が私たちに対して抱く感想だろう。
それに反論する気持ちはない。
だが、そんな私たちだからこそ出来ることがあるはずだ。

これまで10回にわたって、タヒチに移住するまでとその後の10年間について、
早足で語らせていただいた。
巷では、日本の「失われた10年間」という言葉が聞かれるけれど、
日本の外で過ごした10年間が自分たちにとって何だったのか、
そしてこれからどうしたいのか、日本はどうなって行くのか。
じっくり考えつつ、新しい一歩を踏み出したいと思っている。



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もう何度も書いていますが、移住してから10年たって
つづった文章を、それからさらに10年が経過した今
起きたことを反芻するように、記憶を掘り起こすように
読み返しています。

失われた10年間。
この間には、阪神大震災、オウム事件という日本人の価値観を揺るがすような
出来事が起きました。

特にオウム事件の前と後で、日本人ひとりひとりの心の中で
何かが大きく変わったのではないでしょうか。
もうあれを知る前には戻れない。
そんな事件に思えました。

子供を持つことについては、移住記の第1回に書きましたが
都会で子育てをする自信はなく、タヒチに移住してからは
自分たちのことで精一杯でした。

ようやく島の暮らしに慣れて、浮き草ではなく根を張ったかなと
思える頃には、こんな環境でなら子供ものびのび育てられるのではと
考えが変わりましたが、結局恵まれることはありませんでした。
それは残念なことでもあり、そのあとの10年間に起きたことを
思うと、それでよかったのかもしれないと
自分に言い聞かせたりもする、夫婦にとっての
大きな事実だったかもしれません。

インターネットについては、大都市のように
安くて速くてとはいきませんが、それでもブログや
サイトの更新がスムーズに行えて
動画を見ることができ、Skypeでビデオチャットができるまでに
なりました。
値段も月々5000円弱です。
仕事の上でも余暇を過ごす上でも、そして
日本の家族や親しい友人とコミュニケーションをとるツールとして
インターネットはなくてはならないものとなっています。
インターネット万歳!と日々感謝したいほどです。

仕事。
私は2001年いっぱいで、9年間勤めた
黒真珠養殖場を退職しました。
いくつか理由がありましたが、一日中すわって
無理な姿勢をする仕事で、健康をそこねてしまったのが
一番の理由です。
今思えば、このとき既に、のちに大きな手術を受けることになる
重大な病気にかかっていたのでしょう。

夫は、さらに3年間がんばったのちに
養殖場を辞めました。

アレルギー体質の夫は、貝のアレルギーにやられて
強いステロイド剤の注射を打ちながら
だましだまし仕事を続けていましたが
注射を打つ間隔がだんだんと短くなっていました。

命を削って続けるような仕事ではないのです。

それに、日本人が独占していた核入れの仕事に
次第に賃金の安い中国人が入ってくるようになり、そして
タヒチの若者が就くようになってきていました。
国の主要産業を外国人にまかせない。
このことは、とても良いことだと思いました。

30歳で大きな転機を迎えた夫。
次の分岐点は、40歳を少し過ぎた頃に来たわけです。

細々と準備していた村の写真屋さんの仕事を
本格的に始めることにしました。

そして私は、通訳・翻訳業へ。

ゴーギャンパールという会社勤めの身分を手放すということは
それまで会社が面倒を見てくれていた
滞在許可申請や保険などを、自分で手続きしなければ
ならないということでもあります。

すべてを覚えていないほど、色々な書類を作り
申請をして、どうにかこうにか
10年間有効な滞在許可証と
夫は「フォトグラファー」私は「通訳」の
営業許可を手することが出来ました。

2012年12月に、夫は50歳になります。
さて、次は何が待っているのでしょうか?
扉は、目の前にいくつかあるように見えます。
どの扉をあけるのでしょうか。

移住記は、これでおしまいにしたいと思います。
が、20年前に夫が研修で島々をまわったときの
興味深い文章がありますので
それを数回に分けて、お届けする予定です。





photo&text by Naoko Nishimura(C) all rights reserved



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第9回 タヒチ流? フランス流?

2012-05-20 08:14:39 | 移住記


この移住記も今回で9回目となった。

10年前に依頼を受けて書いた連載は、ランギロアでの生活の中で
受けたカルチャーショックや暮らしぶりについて
テーマを決めてつづり、第22回で終了となった。

そろそろこの移住記も締めくくりに入ろうかと
迷っていたのだが、10年前に自分が感じたり体験した
あれこれも、読み返していると興味深いので
少しの間ここに掲載しようと思う。


:::::

真珠養殖の仕事にもどうにかこうにか慣れ、
ここでの毎日がおだやかな日常生活の顔を持ちはじめる頃、
島の人々との交流もはじまっていた。

そんな中で感じた、いわゆるカルチャーショックについて、
いくつか書いてみたい。

大家族で暮らしている人が多いタヒチ。
タヒチ本島では、ずいぶん都市化が進んで事情が変わってきたが、
ここトゥアモトゥ諸島では、親子はもちろん孫、兄弟姉妹、
遠い親戚までがひとつ屋根の下に暮らしていたりする。

家の建物自体も、暑いところなので風通しがいいようにと
いうもあるのだろうけれど、いつでもオープン。
ドアも窓もいつでも開いていて、夜になっても閉めないのじゃないかと
思うくらい。

道路から家の中が丸見えで、玄関の横に置いた椅子に
おじいちゃんが腰かけて、日がな一日涼しい風にあたり、
奥の部屋ではマットレスが直接床に置かれ、人が寝ていたり。
家の外では、小学生くらいの子どもたちが
よちよち歩きの赤ちゃんと遊んでいる。

こんな風景が随所で見られるこの島では、
自分の持ち物と他人の持ち物の区別があまりない。
きみのものはぼくのもの。
そんな勝手な、と言いたくなるが、その逆もしかり。
ぼくのものもきみのもの、なのだ。
モノに乏しい離島なのに、いや、だからこそなのか、
人々はあまりモノに執着せずにみんなで共有しあっている。

そんなところへ私たちのような都会人が来ると、どうなるか。

会社の同じ敷地内に、タヒチアンの夫婦が引っ越してきた。
「扇風機を貸してくれない?」と頼まれたので、
越してきたばかりで物がそろっていないのだろうと気の毒に思い、貸した。
私たち日本人の一般的な感覚からすると、
「なるだけ早く自分のを買って、返さなくちゃ」と思うだろう。
しかし、いっこうにそんな気配はなく、どんどん時間がたった。

こちらも扇風機がどうしても必要になり、
「返してくれる?」と催促して返してもらったのだが、
あのまま何も言わなかったら、あの扇風機は、
彼らの家でこわれて動かなくなるまで使われていただろうと思う。

似たようなことが何度か、相手が変わっても続いたので、
「あげてもいい」「なくなってもいい」と思うもの以外は、
貸さないことにした。
「貸して?」は「ちょうだい」と同義語なのだと解釈することにした。

またこれは私が体験したことではなく、友人(日本人)から
聞いた話なのだが、タヒチ女性と部屋をシェアして住んでいたら、
冷蔵庫の中の彼女の食べ物を何も言わずに食べたり、
クローゼットの中の彼女の服を着て出かけたり、
はては彼女のサイフの中身まで使っていたのだそうだ。

友人がそのことで文句を言うと、
本人は悪びれた様子もなく、「私のも使ってよぉ」と言うのだった。
そうだ、使っちゃいなよと私が言うと、
「でも彼女のサイフの中はいつもほとんど空なの」。

持てる者が持たざる者を助ける、という理念(?)なのだろうか、
確かに困ったときに、こちらの人は見返りを期待するでもなく、
とても親身になってくれるのだが・・・。

またあるとき。
「村でバル(ダンスパーティ)があるから、一緒に行こう、
7時に出発ね」と、これはフランス人の友人から誘われた。
7時に出発といわれれば、6時半ごろには準備を終えて、
10分前には友人宅(我が家と同じ敷地内にある)の周りをうろうろ。

しかし約束の7時になっても、誰も出てこない。
そのうち、ダンナのほうがシャワーを浴びている音が聞こえてきて、
奥さんのほうはまだ着替えてもいない・・・。
結局出発したのは8時近くだった。

レストランで待ち合わせしても、時間通りに来ないフランス人の
多いこと、多いこと。
それも10分や20分ではない。
もちろん時間にきっちりしたフランス人も知っているが、
今までのところ1人だけだ。

バースデーなどのホームパーティに呼ばれたりすると、もう大変。
言われた時間どおりに行くと誰も来ていない。
カナッペをつつきながらアペリティフを飲んでいると、
ちらほらとゲストがやってくる。
パーティが始まって、料理が運ばれてくる頃には、おつまみの食べすぎで
お腹はいっぱい。
アペリティフで酔いもかなり回っている。

席にはあらかじめ名札が置かれていて、座る場所が決まっている。
カップルは必ず遠く離れた席に引き離され、しかも別の異性の
となりになるよう、配慮されている。

まだあまり知り合いもいない席で、フランス語でよくわからない話をされて、
途中で帰るわけにもいかず、眠気とたたかいつつ、
前菜からメイン、デザートまでの長い道のりを耐えたのを、
昨日のことのように覚えている。

今では、ちょうどいい頃合いに出かけていって、デザートまで
食べられるよう食べる量を調節しつつ、
どうにかこうにか会話を楽しむ・・・くらいの技術(?)は
習得できたのではないかと、ひそかに自己満足している。


それにしても、他人の家に招待されてトイレを借りるのは
ご法度らしく、誰もトイレに行かないのにはびっくりする。
以上は、フランス式パーティでの話。

タヒチアン宅でのパーティは、またずいぶん様子が違う。
ほとんどの人が朝まで飲んで歌って踊るので、体力が勝負だ。
フランス式パーティでの忍耐とは別のエネルギーが要求される。

タヒチ式パーティのほうが気楽なのだが、最後までつきあえたためしがない。
もちろんこんなパーティを、みんながしょっちゅうやっているわけでは
ないので、念のため。

映画館も赤ちょうちんもない島だから、娯楽としてもとても大切なパーティ。
大勢で集まって飲み食いするパーティを、フェット(フランス語で
お祭りの意味)というのだが、フェットにアルコールはつきもの。
さすがにフランス領なので、ワインも登場するけれど、主流はビール。
タヒチのビール、ヒナノはもちろん、ハイネケンもみんな大好き。
フェットをやるというと、ぐわっと大量に買ってきて、
大きな冷凍庫(島では必需品)に入れて、冷やしている。

ビールの飲み方も、こちら流のスタイルがある。
キンキンに冷やしたやつを一気に喉に流し込んで、
「ぷはーっ」・・・
などという飲み方をしている人は、いない。

みんな基本的に、酒にあまり強くないせいもあるのだろうが、
1本のビールの小瓶を、ちびちびとやっている。
とっくに生ぬるくなっているに違いないのだが、
気にならないらしい。

夫がみんなの前で「ぷはーーっ」と日本流にやって、
瓶をからにしてしまうと、「もったいない」と言われたりする。
ぬるいビールをちびちびすする。これはいまだになじめないビールの飲み方だ。

:::::



これが10年前に私が書いた文章だ。
読み返しながら、自分でうんうんとうなづいたり、笑ったり。

あまり進歩をしていないなあ。

このあとも、貸したものが帰ってこない事件(?)は
何度もあった。ついつい貸してしまうのです、頼まれると。
いつのまにか、自分も人から借りて返していなかったりして。

『家の建物自体も、暑いところなので風通しがいいようにと
いうもあるのだろうけれど、いつでもオープン。
ドアも窓もいつでも開いていて、夜になっても閉めないのじゃないかと
思うくらい。』

と書いているが、現在の我が家はまさにこの状態である。
夜になっても窓を閉めないことが多いし
ドアにも鍵をかけない。

それどころか、うっかりしてしまい
朝起きてみると、ドアが開けっ放し・・・ということすらある。
そして心配するのは、「ねずみが入らなかったかな?」だ。
うむ。

ランギ人の家については、さらに10年がたった今では
人口も増え、住宅も建て込んできたせいか
金網で囲ったり塀をはりめぐらせる家も見かけるようになった。

が、空き巣狙いはあっても、強盗というのは存在しない。
どこの誰かすぐにわかってしまう狭い島ですしね。
警察はちゃんとある。 法に照らし合わせると、裁きが
必要であると思われるようなことが起きても
当事者たちが「まあいいんじゃないの」と思えば
そのままその事件は忘れ去られて行く。


パーティには、まず参加しなくなった。
必要でない我慢をしなくていいのは、精神衛生上まことによろしい。

暮らしている間に、知り合いやその家族が何人も他界した。
葬儀にもできるだけ出たくない・・・なぜなら
ここの慣習が私や夫には(そしておそらくは一般的な日本人にとっても)
かなり過酷であるからだ。

死者の頬にキスをしなくてはいけない。

どう思われますか?

日本の、焼き場でお骨を集める習慣も、私にはどうも
悪い冗談に思えてしまい、出来たらせずにすめばいいなあと
思ってしまうのだが・・・。
こんなことを書いて不快に思われる方がいらしたら
すみません。
こんなだから、日本に住んでいられなくなったのだな。

ビールの飲み方は、やはりちびちびは無理です。
冷たいものは冷たいうちに。

はい。





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