日記44

身の回りで起きたこと、日々感じること、ラグビーの事、面白かった出来事等々、気付く度に更新したいと思います。

2011年3月11日

2012年03月11日 14時46分44秒 | 東北関東大震災
2011年3月11日、職場にて大地震に襲われました。
今まで体感したことの無いほどの大きな揺れでした。
電気が消え、皆の悲鳴の中、書庫は倒れ、天井は一部崩れて落ちてきていました。
周りで大きな被害がないかを見渡してみると、上司は皆机の下に潜ってました…。
ガッカリな職場です。

海沿いで育った私はこの尋常では無い揺れで津波が心配になりましたので、
揺れが収まる前に実家の母と職場が海辺に事務所を構える姉に連絡しました。
電話は繋がって、いま大津波警報が出たから逃げているとの事でした。
姉は、これまでも何度も津波警報出てその度に大したことないから、
今回もまぁ大丈夫だと思うけど、皆非難してるからとりあえず逃げて来た。
と、海から20mくらい離れた駐車場にいるとの事でした。


私のビルは局社でしたので、すぐに予備電源に切り替わり、
照明やOA機器類の電力は回復し、テレビを着けました。
すると、10mを越える津波が押し寄せていると情報を得ました。


そこじゃ危ない!姉が非難していると言っていた場所では波が来てしまう。
慌てて姉に電話するも既に繋がらない状況になっていました。
きっと逃げていてくれるはずと思いながらも
宮古に住む、母、兄、姉にとにかく逃げるようにメールしておきました。


30分くらいしてからでしょうか。
事務所から車で30分もかからない海岸沿いに
津波が押し寄せてくる映像がテレビに映し出されました。


走行中の車を飲み込み、建物を破壊しながら
陸地の方へとものすごい勢いで襲ってきました。
とてもこの世の光景とは思えませんでした。


次々と東北各地が映し出されて行く中に
私の故郷、宮古の映像もありました。
私が通っていた小学校の周りの海面が5m以上は上昇しており、
高めの建物の屋根しか見えていない映像が流れていました。
まだこの時は悲しいとかそういう感情は無く、
宮古に住む友人。知人。家族が逃げてくれる事だけを
ただただ祈るしかありませんでした。


15時前に地震が来て、緊急MTGが開かれ、
16時半頃には、帰れる人間は家に帰っていいと言われました。


私はこの日、車で出社していましたので、
駐車場に車を取りに行きました。
コインパーキングで車を止めると車輪止めが上がってくるタイプの
駐車場でしたが、電気が止まっているため清算機も止まってました。
そこに車を止めていた人たちが屯していたので、状況を聞くと
「管理会社に電話したら車を出せるようになるには数日掛かるって言ってましたよ」
と、言われました。

私の車は車高が高い車でしたので、
そんなの待ってられない!!と、強引に車を出しました。
車輪止めは本来曲がらない方向へ曲がってしまいました。
でも車は出せました。

すると、車を出せずに居た人たちに囲まれました。
あれ…俺、やばい事しちゃったのかな…
と、思ってたら運転席の窓ガラスをトントンされました。

「なんですか??」

とぼけた感じで俺が言うと

「今の、どうやったんですか?!私のも出してくれませんか!?」


そっちかいっ!!
と、軽く突っ込みを入れ、車高が低い車はバンパーをするから
俺と同じようには出来ないんじゃないでしょうかね…。
と言い残し、その場を去りました。


地震からさほど時間が経ってなかったせいか、
裏道を走ったせいかは分かりませんが、
道路はそんなに混んでいませんでしたが、
信号機は全部消えていました。
そして道路の所々が割れ、轍が出来ていたり盛り上がったりしてました。
警察も現状を把握できていなかったのでしょう。
交通整理をする人間もいなく、危険な道路状態のまま岐路につきました。
凸凹道を帰っている時、やっぱり車は四駆に限るなと実感しました。


自宅に戻ると妻が度々来る余震で家に居るのが怖いとのことで、
自宅隣のコンビニに非難していました。
地震後すぐに停電になっていたため、
津波に町が襲われていること、街中全体が非常事態になっていること、
とにかく大変な事になっているということを全く把握していませんでした。
恐らく被災地にいた人間はほとんどがそうだと思います。


幸いコンビニにはまだものが大量に残っていたので、
これから絶対に食糧難になると思い、大量の食料を買い込み自宅に戻りました。


自宅の中はめちゃめちゃでした。
ありとあらゆる家具がずれ、倒れ、皿やガラスの破片が飛び散り、
素足ではとても歩けないような状態でした。
また安藤から預かっていたHDDも水浸しになってて壊れてました。
電気が止まっているため、掃除機で吸い込むことも出来ません。
とりあえず片付けは後回しにし、
冷凍食品をクーラーボックスに詰め込んで食料品だけをまとめました。
そして幾度と無く続く余震に備え、とりあえず車の中に非難することにしました。


幸いガソリンは地震の前日に満タンにしたばかりでしたので、
充電をしながらワンセグで世の中がどうなっているのかをずっと見ていました。


気がつくと18時くらいで、停電の影響であたり一面真っ暗闇でしたが、
外を走る車の明かりに照らされ、恐らく歩いて帰っている人達が多数いました。


我が家には大量の水と食料があったので、近所に住む妻の母と、
妻の姉夫婦+子供2人としばらく一緒に過ごすことにしました。


義兄(妻の姉の夫)の職場は海辺から1~2kmのところに事務所を構えており、
震災時は一人残ってそこで事務処理をしていたそうです。
実家が私と同じように岩手の沿岸地域だったため、尋常じゃない揺れを感じたあと
津波が来るのではないかと思い、自分の車でTVを着けるてみたそうです。
するとすぐ傍の上空の映像がテレビに映し出されていて、押し寄せる津波を確認し、
これは相当ヤバイと感じてあわてて内陸の方へ逃げたらしいです。


逃げてくる途中のコンビニでは若者たちがたむろして、
さっきの地震やばかったよなぁ~とタバコを吸いながら雑談していたようです。
津波がすぐそこまできてっから逃げろ!!と言ったけど「はぁ…」と
全く聞く耳を持たない感じだったようです。


普通の感覚で普通に考えたら、
誰もこんな場所まで津波が来るなど想像も着きません。
恐らくこのおっさん何興奮してんだ!?位にしか思ってなかったのでしょう。
あの若者たちはどうなったんだろう…と心配していました。


沿岸部で育った私たちは幼いころから、『津波てんでんこ』と言って、
津波のときは他人に構わず自分の身を守ることだけを考えろ
的な発想を植えつけられています。
それでもやっぱり救える命は救うべきだと考えるのが普通の人間です。
ここまでこんな事態になってしまうならば
ぶん殴ってでも一緒に逃げてくれば良かった。
と、後悔している義兄に私は何も言うことが出来ませんでした。


夜11時を過ぎた位だったでしょうか。
自宅駐車場は古い鉄筋コンクリートのビルの傍だったので
余震で崩れたらと考えると安心して眠れないので、
近くの大きいスーパーの駐車場で一夜を過ごすことにしました。


カセットコンロと夜間とカップラーメンを持って、
うっすら雪の降る中、みんなでお湯を沸かしてカップ麺を食べました。


12時を過ぎたあたりだったかな。


周りを見渡すと、おそらく火事だったんでしょうね。
いろんな方角で遠くで炎のような明かりでついては消え、
消えたと思ったら違うところが明るくなって、
そんなのを繰り返していました。
戦時中を知らないけれど、空襲でやられている時はこんな感じだったのかな。
と、そんなことを考えていました。

そうこうしているうちに雪も止んで、空を見ると皮肉にも満天の星空でした。
あたり一面停電で全く明かりがなかったので、
仙台でこんな綺麗な星空をみるのは初めてだというくらい綺麗に輝いていました。


自分の家のことが落ち着いて以来、
知り合いという知り合いにメールを送信し続けていました。
この時間にもなってくると次々と生存が確認されて、
本当に良かった、お互い助け合っていこうな!
生きていて本当に良かった!!と、何度も何度もいいました。


しかし、家族では唯一、宮古に住む兄家族の安否が確認出来ません。
兄は老人ホームで働いていましたので、老人を逃がしているうちに
逃げ遅れて津波にさらわれてしまったんじゃないか
と、そんなことばかり考えていました。


結局一睡も出来ないまま夜が明けました。
7時くらいでしょうか?明るくなってくると、
近くのスーパーの店員らしき人が店に入っていきました。


店があく!?


そう思って入り口の前に立ってたら思ったとおり店が開きました。
ただ、店の中は昨日の激しい地震によってめちゃめちゃな状態でした。
入り口で欲しいものはなんだ?と、聞かれ
水とカップ麺とカセットボンベ、ウエットティッシュ、ホッカイロ、栄養ドリンク、
など等、しばらくものを買わなくていいよう大量に買い込みました。
会計が終わって後ろを見ると、100mくらいの列が出来ていました…。


続いて、隣接するホームセンターに人が数名居るのを確認したので、
走ってそっちへ向かいました。前から20番目くらいに並べました。


地震後、電気・ガス・水道、全滅だったので、
これは絶対トイレに困るはずだ!!そう思い、スコップとポリタンク、
炭、そしてまたお茶や水やジュース類を購入しました。


とっさの判断でいい働きをしたと我ながら感心しました。
この能力がラグビーにも活かされていれば…とは全く思いませんでした。


私がホームセンターに並ぶタイミングで、
妻とその姉家族は別なスーパーに並びました。
イトーヨーカドー系列のスーパーでした。


そこは店内食料品全品100円で、お一人様10点限りで販売してました。
とりあえずは保存食…そう思って缶詰やフリカケ、乾麺等を中心に買い込みました。
それと普段は高いのであまり食べなかった800円のイチゴを3個買いました。
2400円が300円です。緊急事態でもここには食いついてしまうんだな…。


こういう状況下で、通常よりも価格を下げて販売する
良心的なイトーヨーカドーのことを好きになりました。


大量にものを買い込んだ後は全員で妻の実家へ行きました。
この日も相変わらず携帯を使って、安否確認。
次々と生存の確認が取れていくなか、
宮古の兄だけはメールをしても帰ってこなく、電話をしても圏外。


石油ストーブで沸かしたお湯でカップラーメンを食べ、
一段落ついたころ、長男からメールが届きました。


「次男(宮古に住む兄)の無事を確認出来た!」と。


本当によかった。生きていてくれて本当に良かった。
めちゃめちゃ嬉しくて、涙が止まりませんでした。
本当に嬉しくて…


安心したらどっと疲れが出てきて、震災後はじめて軽く仮眠をとりました…。


夕方、薄暗くなってきた頃、夕飯の準備をしました。
電気がとまっているので冷蔵庫が使えません。
冷凍保存していた魚介類や冷凍食品等、
食べなければ悪くなって捨てるだけになってしまう為、
炭を焚いて全て調理しました。
そのため、この日はここ最近で一番豪華な食事でした…。


義兄の車にはほとんどガソリンが入っていませんでしたので、
翌日は恐らく混雑するだろうから開店前に並んで給油することにしました。
朝6時くらいに起きて外に出ると大渋滞でした。どうやら給油待ちのようです。
9時開店なのに、列は1kmくらい続いていました。
俺の車はまだまだガソリンがあったので、
義兄だけ並びましたが、途中のわき道から何台も割り込みをされ、
結局8時間並んで20Lしか入れることが出来なかったようです。


現在私の住む場所は、目立った被害は特になく、
2日後には水が使えるようになり(数日は泥水のような濁った水のみ)、
5日後くらいには電気も使えるようになりました。


電気が使えるようになったら、
妻の実家はIHだったので、お湯が沸かせるようになりました。
なべややかんでお湯を沸かし、ホームセンターで購入したポリタンクに貯め、
ひとり洗面器2杯程度で震災後はじめて身体を洗いました。


地震から3日くらいして、恐らく津波はもう大丈夫だろうということで
義兄と会社の先輩と3人で名取市のユリアゲに行ってきました。
外は小雨が降っていて、気温も低い日でした。
義兄の勤務先がユリアゲにあったので会社の様子見と、
車屋だったのでガソリンの入ったガソリン缶があるということで
それを取りに行くためにです。


ユリアゲは車で20分程度しか離れていません。
海まで2,3kmの所まで車で入って行けました。
このとき初めて生で津波の爪あとをみましたが本当にひどい有り様でした。
テレビで見る景色のままでしたが、衝撃は比にならないほどでした。


途中で通行止めになっており、そこから先は自己責任ならば…
ということで徒歩にて侵入可能でしたので
車をガレキが整理された道端に置いて歩いていきました。


車を置いてから義兄の会社まで800m位でしょうか。


その道だけでも10数名の遺体がありました。
地震から3日たち、毎日自衛隊や消防隊等たくさんの人間が
頑張っていてくれるのに、それでもこんな状態です。
回収されたご遺体は無くなったままの状態ですので、
腕が曲がっていたり、ひざを立てていたり、
そこまでは見ていませんが、恐らく身体の一部が無かったりと、
本当に残酷なものでした。


義兄の事務所につき、目当てのものを入手し、
さらに色々と探し物をしていると、
消防車がサイレンを鳴らしながらスピーカーでしゃべってました。


『いま降っている雨には放射能が含まれている可能性があります
 ただちに屋内に避難してください』


この時点で既に1時間は雨にあたっていました。
放射能が含まれていたとしたら、俺ら3人完全に被爆者だ…。
と、ナーバスになったことを覚えています。


地震が来て、津波が来て、放射能が漏れて。
人為災害も多発してきてる。
世界から東北の人間は我慢強い的な目で見られていたけど、
実際は震災から1週間で宮城県内にて150件以上の強盗事件がありました。
みんな自分たちだけが生き残るのに必死だったのだと思います。
それを「完全なる悪」だとは私には思うことが出来ませんでした。


なんというか、このときは本当に
他人は他人、俺は自分の身内だけでも全力で守っていこう。
そう思いました。


それからというものは店が開くと情報が入れば早朝から並び、
近い未来を生きていくためだけ考えて生活していました。



震災から12日。


私の家の周りは2,3時間も並べば生活品は入手出来るようになっていました。
高速道路も一部の車両のみ通行が可能になると情報を入手しました。
偶然にも俺の車はその対象に入っていたました。
だから大量に食料品等を買い込んで、宮古へ向けて出発することにしました。

宮古へ向かうと決めた数十分後。

母親から連絡が入り。
震災前から数日に1度輸血をして生命を維持していた祖母が
震災の関係で病院スタッフも治療に関する医療用品も品薄で、
正直、これ以上延命することは難しいとのことで、とりあえず入院はさせるけれど
もうすぐ駄目かも知れないから顔を見せに帰ってきなさい。
とのことでした。
祖母の家は津波で1.5mの床上浸水しました。
私の母は、地震の時には安全な場所へいたのにも関わらず、
祖母がひとりで心配だということで、祖母の家にいったようです。
母が祖母の家に着くとすぐに津波が家の前まで来たようです。
とりあえず祖母を抱きかかえ、3Fに上ったようです。
3Fは屋上のようになってて、そこから自分の車が津波に流される様を
ずっと見ていたそうです。

祖母の件もあって、予定よりも早めに宮古へ向けて出発しました。
この段階でガソリンは半分以上なくなっていましたが
幸運にも通行車両に制限があったため、高速道路のGSは街中と違い、
数分まてば満タンに給油が可能でした。
高速道路は自足100kmで走行するのも危ないくらい凸凹していました。
が何とか安全運転で宮古まで行くことが出来ました。
宮古の中心部は変わり果てていました。
道路をふさぐように立ち尽くす漁船。
民家に寄りかかるように重なり合う自動車。
激しく折れた電柱。
みなが震災ごみを道路に出しているため
車1台がやっと通れる程度の道路を自宅へと向かって走らせる。
実家はほぼ、無傷でした。
私の母は幼いころにチリ地震津波を体験しているため、
津波をおそれ、高台に家を建てたようです。
そのため、我が家は助かりました。
その日は祖母にあって、実家でごみ等の片づけをしました。
翌日は私の通っていた小学校のあたりへ行きました。
同級生の半分くらいはこの界隈に住んでいました。
そこへ行くと、あまりにも変わり果てた景色に愕然としました。
行きなれた、よく遊んだ場所なのに、自分がどこにいるのかさえもわかりません。
よく遊びに行っていた友達の家があったはずの場所は更地というか、
瓦礫しか残っていませんでした。
また、別の友達の家があったはずの場所にはでっかい観光船がありました。
光景的には最初に行った仙台の方がひどかったのかもしれませんが、
自分の思い入れのある場所が壊滅しているのを目の当たりにしたら
胸がくるしくなりました。
とりあえず、命の助かった仲のよい友人たちにあい、
それぞれの地震の時の様子を聞きました。
それは何か非現実的で、作られた話を聞いているような錯覚に陥りました。
消防に勤務する友達は、消防車にて非難を呼びかけている時に
正面から津波が襲ってきて、どうすることも出来ないまま
車ごと流されていったようです。
偶然、電柱にひっかかった隙にフロントガラスを叩き壊し、
電柱によじ登り、NTTの光ケーブルにカラビナを引っ掛け、
人の家の屋根伝いに渡ってなんとか逃げ切ったらしいです。
また私と入れ違いで宮古高校ラグビー部に入部した後輩は
消防で働いていましたが、みんなを逃がしている最中に
津波にさらわれて亡くなってしまったようです。
最後に目撃されたときはおばあさんを背負って高台に向かっていたそうです。
また、違う友人は宮古でも高台に勤務しており、
命には別状がなかったのですが、
5日ぶりに自宅に戻ってみると、母親が1Fの瓦礫の下から見つかったそうです。
そして、私が宮古に滞在していた4日間の間に、
命は助かったのに先が見えないという理由から
自ら命を絶った人間が2人も居ました。
震災直後は、
助かってよかった。
命があればそれだけで十分だ。
そう言えていたのに、現実は甘く無かったです。

住む家も無い、愛する誰かを失った、働く場所も無い。
まだ若い私たちの世代であればどうにだってなるけれど、
私たちの両親くらいの世代になると、何も考えられなくなるようです。


事実、私の友人の母親は、何度も言うようです。
「あのまま津波に流されて死んだ方がましだった」と。





津波から3週間後。


祖母が亡くなりました。





震災から約2ヶ月。
祖母の49日の為、宮古へ帰りました。


宮古の中心部は半分位の店が再開してました。
一見、かなり速いペースで復興しているな、と感じました。
道路脇に出されていた震災ゴミは綺麗に無くなっていました。
が、一歩海沿いの住宅街へ行くとあの日のままです。

そして未だに日々数名の遺体が発見されるようです。
船が流れ着いた友人の家の敷地では
流れ着いた船の下敷きになった車の中から
6名ほどの遺体が発見されたようです。
2ヶ月経ってもそんな状況でした。

GWに重なっていたので、色々な友人に会いに行きました。
大半のやつらはまだ避難所暮らしでした。
この時初めて避難所を見たけど、ひどいです。
プライバシーも無いような感じで、
1家族10㎡程度の空間で周りはぺらぺらのダンボールで区切ってるだけ。
こんなところに2ヶ月も居て平気なのか!?
たずねたら、住むとこねぇからしょうがねぇんだよ…と言ってました。



津波から4ヶ月が経過し、
私個人としてはもうすっかり元通りの生活をしています。
いまだ避難所で生活している友人も数名いますが、
大体は仮設住宅に入れる事が出来たようです。
津波によって仕事を解雇された姉も新しい仕事(臨時)を見つけました。


ここからは個人的な考えになってきますが、

よく、皆さんに何か困ってることは無いか?とか。
私に出来ることは無いか?そう聞かれたりします。
いま被災地に住む人間にとって現実的に一番必要なのはお金だと思います。
ただし、直接金銭的援助をすることではなく、
自分たちの手で掴み取る必要があると思います。
出来るのであれば、被災者に対しての求人を増やして欲しい。
なんでもいいから仕事を与えて欲しい。と思います。

被災地の中では、国はなにもしてくれない。
自治体は何をやってるんだ。
そんな声も上がっていると耳にします。

だけど、一番大事なのは自分たちが自分自身の力で立ち上がること。
俺がこの町を復興させるんだというくらいの強い気持ちを持つこと。
自分を守るのは自分自身なんだということを気付いてほしい。


震災前と変わらない日常を過ごせている我々に出来ること。
それは自分が思いつくこと、全て間違っていないと思います。
街頭募金に協力をすることも、
実際に被災地へ足を運んでボランティアすることも、
被災地へ旅行に出かけることも、
全て間違いではないと思います。


そうやって被災地を考え、被災地を気にかけてくれるということが、
何よりも一番嬉しいことなのではないでしょうか。
少なくとも被災地と言われる場所に住み、
被害にあった友人知人家族を持つ私は、そう考えます。


津波によって未曾有の被害をうけた三陸のリアス式海岸は
自然の力によって作られた天然記念物だらけで、
ドライブやツーリングするにはとてもいいところです。
海だけではなく、山や高原などもありますので、
キャンプをしにくるというのもよいのではないでしょうか?
これからのこの季節、関東よりは過ごしやすい天候だと思います。
是非、被災地に足を運んで、自分達も楽しみながら、
この現地の痛みを肌で味わってみてください。



最後に。



東北人は強くなんか無いです。
寂しがり屋な人間が多いんです。
皆さん、僕たちのこと、忘れないで下さい。
よろしくお願いします。



以上、長々とまとまりもない話でしたが、
最後まで読んでいただきましてありがとうございました。

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