愛という言葉は本来、日本語には存在しなかった。
そんな一説を読んだことがある。
昔書いたコラムでも取り扱ったことがあり、その時の記事には以下のように書いていた。
無論、誰かをいとしく思う心はあったし、その感情をあらわす言葉もあった。ただ、それらを「愛」として表現するのは、西洋文化の流入以降、西洋文学の翻訳の際にさだめられたものであろうというのが現在の通説らしい。
それまでの日本人は、「愛」をさまざまな言葉をもって表現していた。恋ふ、慕ふ、焦がる、慈しむ……さらに、「愛し」と書いて「かなし」と読む言葉も、「愛」のひとつだった。
「愛(かな)し」は、相手をいとおしい、かわいいと思う気持ちや、守りたいという思いを抱くさまを表すという。
つらく切ないことを表す、「哀し」と読みが同じだ。音読みの「アイ」でさえ、この二語は同じ音をもって紡がれている。
(70seeds「愛のもつ「かなしみ」のことより抜粋)
愛しいと思う気持ちと、哀しいと思う気持ち。それらは確かに、近いところにあるものなのかもしれない、と思う。
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前回血迷って絵を描いた訳だが、今回はちゃんと元々やっている活動である「言葉」と「写真」で作品を出品する。
とはいえ、こんな風にフォトブックを作成したのも初めてのこと。どんな仕様になるかわからず、手に入れやすそうなミニサイズで作ると同時に、写真が綺麗に印刷できそうな少し大きめの版(A5版)も作った。(が、こっちはフォントが冊子サイズに合わせて大きくなってしまって、写真はとても綺麗だけれど言葉がやや不恰好という仕上がりになってしまった感も否めない。写真重視派はこっちの方がいいかもしれない)
どんな冊子にしようか、手元でいくつか入れ替えたり試したりして、さて最後にどんなタイトルをつけようか、となった。
いつも、小説を書くときなんかもタイトルは最後につけている。過去に参加したイベントで最初にタイトルをつけないといけなかった時は「うぐっ」となった。タイトルは最後に、という所作は、確か小学生の頃に作文を教えてくれた先生に言われたものだったような気がしている。(単純に授業時間内に書き終わらせないといけないから、タイトルに悩むなら本文をという意味で言ってくれたのかもしれないけれど)
結局、入稿データを眺めて、うーんと考えた結果、「片時雨(かたしぐれ)」という名前をつけた。
タイトルをつけるという行為は多分、だるまの目を入れるのと同じ感じで、在るけれど曖昧だったものをはっきりと「存在させる」ための儀式なのだと思う。だからこそ、タイトルをつけるというのは非常にプレッシャーを覚える。
「片時雨」というのは、「ある一方では雨が降ったり止んだりしているが、ある一方では晴れている」というような、そんなことをいう。
人生、雨も晴れもある。そんなにはっきりと天気がわからない、傘を差すほどでもない小雨や曇天なんかが一番鬱陶しいということもあるだろう。雨が降ったらいつか晴れるよ、なんてことが救いになった試しはない人間なのでそんなことは言わないけれど、ただ、「片時雨」という状態を示す言葉があるというのは、世界の事実として、少し面白いなとも思う。「引き」のアングルからの表現。昔の日本には、拡大率を変えて物事を見ることが上手な人が多かったのだろうか。山の上から町を見下ろしたり、そういうことが多かったから気づいたのだろうか。
結局、全ては一過性のもので、自分の上の晴れも雨も、くるくると行き交って過ぎていく。人間というのはそういう、どうしようもないものの中で共に生きている。
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写真を撮る人の中には、光を探す人と影を探す人がいる。これは愛と哀と同じくらい、近い距離のものだとも思うのだけれど。
私は影を探す方だなとなんとなく思っていたけれど、今回このミニフォトブックを作っていて、「影の中にある光を探していたいのだ」と思った。特別なものは撮らず、日常の隅っこにある何でもないものを撮る。そんな人間の撮った写真と言葉の冊子、もしよければご覧ください。
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