2ちゃんねるとネット右翼(ネトウヨ)ウォッチング&その分析

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「戦時中多数が嫌々ながらに徴兵された」と言われたが勇んで戦地に赴いたに決まっているby産経

2010-09-01 15:11:49 | 産経
こういう記事が産経にありまして(全文引用します)
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100829/erp1008290734002-n1.htm
(魚拓)http://megalodon.jp/2010-0903-2111-36/sankei.jp.msn.com/world/europe/100829/erp1008290734002-n1.htm
>【from Editor】フルシチョフの良心
>2010.8.29 07:32
>1956年2月、第20回ソ連共産党大会でフルシチョフ第1書記は激しい調子でスターリン批判を行った。
>すると代議員席から「スターリン時代、お前は何をしていたんだ」とやじられた。フルシチョフはすかさず
>「今のは誰だ」と怒鳴る。やじった本人は黙って下を向いてしまった。フルシチョフは
>「私はスターリン時代、今、やじった男のようにしていたのです」と語ったという。

>ことしも8月15日をはさんで、新聞、テレビが数多くの戦争関連の記事、ドラマ、特集を流した。
>終戦から65年の節目とあって、例年より多かったようだ。そのすべてではないが、できるだけ
>たくさんの記事を読み、番組を見るように努めた。そして、ことしもまた、大きな違和感をもった。

>違和感は2つある。1つは登場する多くの人々が「戦争はいけない」「どんなことがあっても平和が第一」と
>声をそろえていることだ。だが、「戦争はいけない」と叫ぶことは、どこかに「戦争はいいこと」と
>叫ぶ者がいて初めて意味をなす言葉である。いったい、いまの日本のどこに「戦争賛成」「戦争をやれ」と
>叫んでいる人がいるのだろうか。戦争反対に異を唱える者などいない。それよりも「なぜ戦争をしたのか」、
>あるいは「戦争にならないようにするにはどうしたらいいのか」を問いかけることの方が意味があるのではないだろうか。

>もう1つは、当時を知る多くの人が、「戦争に駆り出された」「拒否できなかった」「いやいやだった」と
>インタビューなどで答えていることである。もちろん、そういう人もいるだろう。それでも、こう口を
>そろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、
>とさえ考えてしまう。出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、
>苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。

>それを「騙(だま)されていたのだ」という人も多いが、それなら、現代のわれわれも誰かに騙されていないといえるのか。

>戦後、「実は私は戦争反対だった」といい子になる人はどこにでもいる。しかし、それは、当時「聖戦」を
>信じて戦った人を侮辱することにならないだろうか。自身は安全地帯に身を置いて、後付けの議論で過去を
>断罪することは誰にでもできる。われわれはせめてフルシチョフなみの良心をもちたい。
>(編集委員 大野敏明)
すげえ…さすが極右にして歴史修正主義の産経にしかかけない記事です。

ちょっとツッコミをしてみます。
>いったい、いまの日本のどこに「戦争賛成」「戦争をやれ」と叫んでいる人がいるのだろうか。
すげえ…
産経は過去にこういう↓記事を書いていたのですが。。
>産経抄 2003.3.21
>戦いは「イラクの自由作戦」と名づけられ、ブッシュ米大統領は「戦争」
>という言い方を慎重に避けて「武装解除」という表現を使った。
>しかし大量破壊兵器の廃棄をめざす戦争であることに変わりはない。
>その実体から目をそらさず、真正面から見すえなければならないだろう
(以下略)
               ↓
>産経抄 2003.7.24
>権力と暴虐をほしいままにする独裁者が、自分の息子を世継ぎにした悪政は
>北東アジアにも例がある。イラクの人びとにとって独裁政権の崩壊は歓迎することだったのかどうか。
>それがこの戦争の 大 義 と是非を問うカギの一つと見てよい
(以下略)
               ↓ 
>産経抄 2004.1.29
>国会は相も変わらぬ不毛の論議をやっている。
>その一つが、野党側の「イラク戦争に 大 義 はあったのか」という愚論である。
>大量破壊兵器が見つからない問題のむし返しだが、一体、戦争や革命に 大 義 や
>正義というレッテルを張る必要があるのだろうか。
(以下略)
               ↓    
>産経抄 2004.9.18  
>またぞろ「戦争の 大 義 はどこに?」と“鬼の首”でもとったように言い立てている
>新聞がある。パウエル米国務長官が上院公聴会で「イラクで大量破壊兵器の備蓄が
>見つからず、今後も発見の見通しは少ない」と述べたことに、小躍りしているらしい。
>小欄はこれまで再三、戦争に 大 義 や正義を主張することのおかしさや、うさん臭さを書いてきた。
(以下略)
産経はこういう記事も書いていました。
>【古森義久の眼】予測ミスの“戦犯”追及 
>米国ではイラク戦争の見通しを間違えた言論人や学者、
>政治家の責任を追及する作業が始まった。
>予測の外れではだれが一番ひどいミスを犯したか、
>そのランクの高い人たちの名を「恥辱の殿堂」に記念として
>記録しようという動きまでが起きている。
(中略)
>日本でも朝日新聞などイラク戦争の展望について「長期化」
>「泥沼化」をしきりと 断言する向きが多かった。
>そのミスの責任の所在を明確にすることは、
>今後の国の対外政策の評価でもきわめて重要となるだろう。
>(産経新聞 2003年4月12日)
産経は戦争を礼賛している様に見えますが…

他に、記事で最高に馬鹿な部分がここ↓です。
>もう1つは、当時を知る多くの人が、「戦争に駆り出された」「拒否できなかった」「いやいやだった」と
>インタビューなどで答えていることである。もちろん、そういう人もいるだろう。それでも、こう口を
>そろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、
>とさえ考えてしまう。出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、
>苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。
つまり産経の取材でも「当時の徴兵された人々の多くはいやいやながら拒否できない雰囲気の中戦場に向かった」という事になります。

で…普通の人なら例え「日本はアジア解放の為に戦っていた」という思想を持っていても「なるほど」と思って
取材した結果に対して自分の考えをすりあわせたり重ねたりするものです(そして少しづつ客観的事実へ前進します)。
しかし…産経なら
>こう口をそろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、とさえ考えてしまう。
>こう口をそろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、とさえ考えてしまう。
>こう口をそろえられてしまうと、そう言わされているのではないか、あるいは、そう言う人ばかりを集めたのではないか、とさえ考えてしまう。
あるいは
>出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。
>出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。
>出征した人の多くは「国のため」「家族のため」「愛する人のため」「アジア解放のため」に、苦労を承知のうえで勇んで戦地に赴いたのである。
と自分の信念や思想を事実に優先する様ですね。マスコミじゃねえ…全然、事実を報道する、事が出来ていないのは明々白々ですな。
それにこの執筆者は安全確認とかが必要な仕事はダメですな(普通は仕事って理屈より事実を優先するものだと思うのですが。
事実を確認したり理屈を事実とすりあわせたりする仕事は特に……って普通は仕事って大体そういうものです……)

この記事はなにげに産経が「(取材)事実よりも(極右)思想を優先して記事にする」という事を示しています。
つまり産経はメディアではなく思想紙ですな。
産経がこんな体質なら捏造記事や虚報記事を出さない日がないくらいなのも納得です。
そして実際、日々息を吸って吐くがごとく産経は虚報や捏造記事を出し続けている訳です。


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