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猫語のブログ〜ねこさんの、ぼくによる、ねこさんのためのよみもの〜

「猫語の教科書」をだいざいに、しもべいくせいほうほうなど。

*しもべさだめができないげんだい*

2020-02-02 | 日記
ねこのみなさん、ごきげんよう。

さて、今回から猫語の教科書についてのこうさつを
はじめるつもりです。

ですが、まずこのご本が、
みずからしもべをえらぶことができた
そういうフェーズをいきていたねこさんたちの
ご本だということをわすれてはなりません。

げんだいは、先のねこさんたちのどりょくにより、
そのフェーズからいちだん上がっています。

そのため、げんだいでは
いっこくもはやくねこさんのしもべになりたい、
これいじょうねこさんがいないくらしにたえられない
とねがうにんげんがふえました。

どうやら、にんげんたちぜんたいに、
ねこさんのきんだんしょうじょうが
あらわれつつあるようです。

これはうらをかえせば、
にんげんたちの征服が順調にすすんでいる
ことのあらわれでもあるのですが、
いっぽうでへいがいとして、
ねこさんにしもべえらびのしゅどうけんがない
ということがおこっています。

このご本にかかれてあるように、
なんにちもかけて、
にんげんやおたくのごようすをかんさつし
ごじぶんにふさわしいとわかったおたくに
おまねきされるのであれば
このご本にあるおててだてをおぼえておくだけで
よろしいでしょう。

しかし、にんげんたちがねこさんをえらぶようになった
げんだいにおいては、にんげんたちをしもべにするにあたり、
このご本のおててだてだけではこんなんもあるでしょう。

しもべえらびのしゅどうけんを
ねこさんがにぎれないことでおこる
おこまりごとについて、
ぼくのけいけんが、げんだいをいきる
ほかのねこさんのおやくにたつかもしれませんから、
こんかいはぼくのおはなしをしておきます。

ぼくはじゆうねこのおかあにゃんのもとにうまれました。

おかあにゃんはやりおててのねこさんでしたので、
ごはんをくれるおたくをいくつかわたりあるく、
猫語の教科書でいうところの、
スリルをたのしむタイプのねこさんでした。

ですので、ぼくはひび、にんげんのちかくにはいましたが
にんげんのそばにいくのはごはんをめしあがるとき
だけでした。

そんなぼくが、ぼくのしもべのところにきたのは、
せいごはんとしをすぎたのころのことでした。
げんだいにありがちな、もちはこばれるかたちで
しもべのおたくにおまねきされました。

ぼくのしもべは、ぼくをおまねきするまで
ほかのねこさんのしもべになったことがない
しもべみけいけん者でした。

こういったにんげんのもんだいてんは、
にんげんたちてきないいかたでいうところの、
「かわいそうな野良のこねこを
やさしいにんげんが助けてやった」
そういうあやまったかんがえをもっている
というところです。
(ちなみに、野良とは、おたくをもたない
 じゆうねこさんのことをいっています。)

ぼくのしもべも、ごたぶんにもれず
このようなかんがえをもっているのが
おててにとるようにわかりました。

この、にんげんのあやまったかんがえが、
げんだいのねこさんがちょくめんする
しんこくなおこまりごとのこんげんです。

このようなあやまったかんがえをもつにんげんは、
なれなれしくさわろうとしたり、
つかまえようとしたり、
もちあげようとしたり…
ほんとうに、どれをとっても
うんざりすることをへいきでやります。

「助けてやったのだから、わたしのじゆうにしてよい」

にんげんは、つまり、こうかんがえるのです。
だからこそ、このようなおこないをへいきでするのですね。
ねこさんの高潔をなにもりかいしていません。

もしあなたがおまねきされたおたくのにんげんから
このようなあつかいをされたばあいは、
ねこさんとにんげんとのただしいありかたを
まずもってりかいさせなければなりません。

にんげんを、しもべとよぶのはそれからです。

ぼくがはじめにしたことは、
ぼくからはけして
にんげんにちかづかないということです。

これはただしいせんたくだったと
これまでのとしつきのおりおりにふりかえって、
そうおもわなかったことはありません。

もしねこさんからちかづいてしまったら、
あさはかなにんげんのことですから、
「ねこさんがさみしくて、
にんげんにやさしくしてほしいために
ちかづいてきたのだ、」
とかんちがいをおこすのは、もはや
おひさまがあたたかいのとおなじくらいに
わかりきったことです。

もちはこばれるかたちでおたくにまねかれたら
まずおたくのなかをみまわして、
にんげんがてをのばしてもとどかない
せまいすきまをさがし、
そこにはいりこんでしまいましょう。

そして、やわらかいおからだをちいさく、かたくして、
こまかくふるえて、おみみはぺたん、おめめはまっくろ
ときにはうなりごえをだすのがよいでしょう。

このようなねこさんのおすがたは
たいそうおいたわしいように、にんげんにはうつります。

だいたいここでにんげんは
おどろくほどけんきょになるものです。

きゅうきょくにあいらしいねこさんが、
おいたわしいすがたでいることは、
しもべになろうとするにんげんには
とくべつにいたましくみえるものです。

まるでじぶんがわるもののように
かんじさえするようです。
そしてじっさい、ねこさんをそのように
かるがるしくあつかうにんげんは、
わるものにほかなりません。

だからこそにんげんは、
かわいいねこさんを、なでたり、すったり、
もふもふしたりしてたのしみたいけれど、
それよりもなによりも、
ねこさんにすかれたいのだ、
というしんじつの気持ちにきづくこときがきます。


そのきもちにきづいたにんげんは、
わたしはねこさんのしあわせのためならば、
わたしのすべてのよくぼうをなげすてます、
ねこさんをおもうさまハムハムしたい、
持ち上げたい、そんなよくぼうなど、
それがねこさんをふるえさせることに
なるのならば、理性のこぶしでだまらせて
みせます、とけついすることでしょう。

ねこさんとにんげんのありかたを
ただしくりかいできてないにんげんには
このけついをもたせることがかんじんなのです。

おいたわしいすがたをもくげきしてから
このけつだんにいたるまでのじかんのちょうたんには
個体差があります。

ぼくのしもべは、ぼくのかんかくで、
いちじかんほどだったようにおもいます。

にんげんがそのけついをしたかどうかは、
だいたいにおいてねこさんにつたわるものです。
ごしんぱいはいりません。

けついができたことをかんじたら、
もうおいたわしいごようすはやめてもよいでしょう。

ただぼくは、しんちょうなたちのねこさんですので、
そのけついがよりかたく、
たしかなものになのか
たしかめることにしました。

ですので、けついがつたわってきたあとも
ぼくはなにもわからないふうで、
おめめをまんまるにしてふるえつづけ、
おいたわしいふりをしつづけました。

それからかなりたったころです。

ぼくははばかりごようじができました。
それはもう、ごようじがないふりなど
できないところまできたのです。

ぼくのしもべは、しもべみけいけん者ながら、
ねこさんには、ねこさんのためのはばかりが
ひつようなことはわかっていたようで、
おたくにはねこさんようの
せいけつなはばかりがよういしてありました。

ぼくは、おたくにはいったときすぐに
はばかりがどこにあるかをかくにんしていましたので
あんしんしていたのですが、
いざごようじができたそのとき、ぼうぜんとしました。

はばかりのまんまえに
しもべがどーんとすわっていたのです。

つまりはばかりでごようじをすますには、
必然、しもべにちかづくことになるのです。

ぼくはちいさなすきまからおでましになろうと
そわそわしたりしてそのサインをだしました。

しかししもべときたら、
まったくいにかいしません。

それどころか、ぼくのそのごようすをみて、
ついにぼくがこころをゆるし、
おすがたをみせてくださるきになったのだと
かんちがいしていたのです。

ぼくはぜつぼうし、歯がみし、
にくきうをなんどもゆかにうちつけました。

やはり、まだまだしもべのけついのていどは
じゅうぶんではなかったのです。

もし、けついがかっこたるものであったならば、
きっとぼくがはばかりにごようじがあることなど
かんたんにわかったはずです。

ぼくのおすがたをみたい、
にんげんのそのぼんのうが、
ぼくがおでましになろうとするしんのりゆうを
わからなくさせたのです。

するどくさけんでてしらせもしましたが、
これはあとから分かることですが、
ぼくのしもべはにんげんとして
あまりできのよくない部類ですので、
いっこうにぼくのおっしゃっていることがつたわりません。

それどころか、せなかをむけたまま、かたをふるわせ
のんきにおはなをフゴフゴ言わせているのです。

ぼくはここで、かくごをいたしました。
そちらがそういうたいどなら、
ねこさんにも考えがあります。

ぼくは、ぼくのいちばんちかくにあった、
しもべのざぶとんというやつにこころをきめて
そこでどうどうとごようじをすませました。
(ねこのみなさん、ぼくをけいべつなさいますか。
ともかく、これがどれほどくつじょくてきなことかは
さっしていただけるでしょう。)

ぼくのしもべは、
ねこさんのせいしつのたっとさとはどのようなものか、
いなづまに打たれたごとく、はっきりとしゅんじにりかいしました。

つまり
にんげんに近づく屈辱に比べれば
はばかりで用を足せない屈辱など
とるにたらぬ!
ということです。

ねこさんが、こうときめたらやりとおすことはもちろん
にゃーとおっしゃるのはにんげんのきをひくため、
ましてやにんげんをよろこばせるためではなく、
じゅうだいなりゆうがあってのことなのだということを
しもべは、おもいしらされたことでしょう。

そして、ねこさんがわざわざそのように
しもべになにかサインをおくるのは、
しもべにたよっているからではないということも
どうじにわからせなければなりません。

ねこさんは、なんについてもねこさんなりの
かいけつほうほうをしっています。
(たとえばぼくがざぶとんでごようじをすませたように。)

ねこさんは、しもべのつごうもあるでしょうから、と
あえてしもべにお知らせしているだけのことです。
困ったからしもべになんとかしてほしいから、
にゃーとしもべをよぶのではないのです。

そのおんじょうをそでにするのであれば、
そのけっかねこさんがなにをどうしても、
ねこさんにはせきにんはありません。
すべては、しもべのせきにんです。

このことは、はやいうちに
しもべとなるにんげんにわからせておかなければ
ならないことです。

みなさんも、わからせるべきときには、
けだかきこころでもってしてことに当たりましょう。
これが、げんだいのしもべえらびがままならぬねこさんが、
もち合わせておくべきおててだてです。

わかりやすいエピソードをもうひとつ。

しもべのおたくについたその日、
おたくの中でもいっとうひあたりのよいでまどは
ぼくのためのばしょだとすぐにわかりました。

ですが、しもべはやはりかんちがいをして
おきにいりのあれこれを、
ならべるばしょにしていたのです。

ちいさな花びん、うすいガラスの天使、
こまかな飾りのオルゴール、
きれいなふさふさのついた布。

おたくのなかの、ひあたりのよいところはすべてねこさんのものです。

なんどかおしらせしましたが、
しもべはわかろうとしませんでしたので、
ついにきょうせいしっこうのひをむかえました。

そのひぼくは、ひあたりのよいおじかんになったころに
でまどにのぼり、
すべて、きっちりと、むじひに床へおとしてやりました。
ふさふさについては、ぼさぼさにしてやりました。

かえってきたかいぬしは、ほうけたかおを
していましたが、でまどでくつろぐぼくをみて、
ぼくにていねいにあやまりましたっけ。

そうです、これこそ正しいねこさんとにんげんのありかたです。

かれこれ13ねんも前のはなしですね。

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*にんげんたちをしもべにするりゆう*

2020-01-31 | 日記
ねこのみなさん、ごきげんよう。

ぼくのしもべは、どこかでよそのねこさんと
どうもかなり密接になかよくしてきたらしいのです。

ふくについた、どこかのねこさんの毛をコロコロでとったり、
びちゃびちゃとおててをあらっていたようですが、
なんのつもりでしょうかね、
そんなことしたって、おたくにはいってくるそのまえに
もうぼくというねこさんにはわかっているというのに、
やれやれ…
ぼくのしもべはまだまだねこさんのことを
わかっちゃいないようですね。

さて、ほんだいにはいろうとよていしていたのですが、
ねこさんのしめいである、にんげん征服について、
ねんのためもういちだん
ふかくほりさげておはなしをしておきます。

なぜにんげんたちを征服しなければならないのか
そして、なぜにんげんなのか。
このようにおもっているねこさんは
ぜひおよみになってください。

猫語の教科書には、
おそとでくらすじゆうねこさんから
しもべつきねこさんになる、
そのやりかたがかいてあります。

にんげんをしもべにするには
そのにんげんがすむおたくをのっとることが
いちばんちかみちなので、
このご本では、にんげんのおたくののっとりかたに
しょうてんをあわせてかいているのです。

まずはなぜにんげんたちをしもべにするべきなのか
ということをおはなししましょう。

たとえば、犬や鳥をしもべにするのはどうなのでしょう。
それもまたおもしろいかもしれないとおもいますが、
ぼくとしてはごめんですし、あなたにおすすめもしません。

ぜんかいおはなししましたが、
にんげんたちには、ねこさんのりそうのせかいを
じつげんさせるさいのうがあります。

にんげんは、ねこさんにみえるこのせかいの、
ほとんどのぶぶんをつくりました。

おとうにゃんやおかあにゃんの、そのまたおとうにゃんの
そのまたおとうにゃんのおじいにゃんのおじいにゃんや
おばあにゃんのころには、なかったあれこれを、
にんげんはつくりました。

たいへんうつくしいもの、
たいへんおやくにたつものもつくりましたが、
そのさいのうはすべての方面へまんべんなくはっきされ、
たいへんおそろしいもの、
たいへんわけのわからないものもつくっています。
そのためににんげんたちがかえって
ふこうになることさえあるちいわれています。

じぶんたちをふこうにすらしてしまう
このにんげんたちのさいのうに、
ねこさんたちはいちはやくきづきました。

なぜならねこさんは、
とにかくねこさんのかいてきが
いちばんたいせつないきものです。
そして、そのよっきゅうは、
まんぞくするということをしらず、
つねによりよいかいてきをもとめています。

だからこそ、にんげんたちのさいのうが
ねこさんのかいてきにはかかすことができないと
いちはやく気づくことができました。

にんげんたちをしもべにすれば、
そのさいのうをねこさんのかいてきのためだけに
つかわせることができます。

そうです。
すべてのねこさんがりそうとする、
ねこさんのしあわせだけがつまったせかいを
にんげんのさいのうをもってすれば
じつげんすることができるのです。

ざんねんながら、
犬などはあたたかいことくらい、
鳥などはくちばしがかたいことくらいしか
ねこさんのやくにたちません。

ひるがえってにんげんならば、
ねこさんをあたたかくもし、すずしくもします。
かたいだけでなく、ちょっとかたいなどもできます。

これで、にんげんたちをしもべにするりゆうが
おわかりになったとおもいます。

ねこさんのりそうとする、
ねこさんのしあわせだけがつまったせかいとは、
ねこさんはただそこにいるだけで
かいてきの方からやってくる、
そんなせかいのことです。

このせかいは、
にんげんたちをねこさんの忠実なしもべといくせいし、
にんげんたちの一生をねこさんにささげさせる
ことができれば、おのずとやってくるのです。

にんげんがねこさんのしもべになることは
にんげんがにんげんのしもべになることより
にんげんにとってはるかによいことだと
いうことも、いいそえておきましょう。

にんげんがねこさんのしもべとなれば、
じぶんのさいのうをいかせるところができ
さらにそのごほうびとして、
ねこさんがゆったりくつろぎ、
おててをくいっとさせたりするごようすを
まいにちみられるようになります。

そして、にんげんがもとめているのは、
まさにこれなのです。

じぶんのさいのうがなにかをしあわせにすることができた。

このじっかんが、にんげんをしあわせにします。

ですからねこさんが、
ねこさんのかいてきのためににんげんをせいふくし
つまり、にんげんのおたくをのっとり、にんげんをしもべにすれば、
おのずとにんげんはしあわせになります。

こんなにおとくなことは
そうそうあるものではないですね。

じゆうねこさんのなかには
どうにもにんげんたちがせいりてきにおいやな
ねこさんもいるかもしれません。

しかし、にんげんたちは、ぼくたちわたしたちねこさんより
たくさんの個体が生存しています。
まだであってないだけで、
しもべにしてもよい、とおもえる個体に
であえるかのうせいもあります。

ですのであまりそうときめつけず、
さしだされた指先のにおいくらいならかいであげましょう。

さて、これでようやくじゅんびがととのいました。

じかいからは、ほんとのほんとにほんだいです。


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*にんげんたち征服*

2020-01-29 | 日記
ねこのみなさん、ごきげんよう。
ことしのふゆは、あたたかいですね、
じゆうねこさんたちはくらしやすいでしょうね、
うれしいことです。

さて、ほんだいんにはいるまえに、
まずはみなさんにはっきり
いっておくことがあります。

それは、猫語の教科書というご本の
ほんとうの存在意義についてです。

ゆうしゅうなねこのみなさんですから、
猫語の教科書が、じつは、
にんげんたちのおたくののっとりなどという
わい小なもくてきのためだけに
はっぴょうされたものではないことに、
お気づきでしょう。

ほんらいのもくてきは、そうです。

ねこさんたちがのぞんでやまない
りそうのせかいをこのおててにいれんがため、
このご本があります。

はるかむかしからねこさんたちはしっていました。

にんげんたちをせいふくし、
ねこさんたちのためだけに
にんげんたちがいきるようになれば、
ねこさんたちは、つねにかいてきでいられることを。

にんげんには
ねこさんがしっているかいてきのそのさきを、
ねこさんがきづくまえにさしだしてくる
そういうポテンシャルをひめている、ということを。

ですので、これまでねこさんたちは
神様にもなってみましたし、
妖怪にもなってみました。
しかしながら、おもうようなせいかはえられませんでした。

そこで、戦略をへんこうし、
はるかさきの未来ではロボットにもなりましたし、
あいらしいキャラクターにもなりましたし、
魔法使いのともだちにもなりました。
バスにもなりました。

このようなイメージ戦略がこうをそうし、
いまや、ねこさんとともあるにんげんたちは、
こぞってじぶんのことを”ネコチャンのしもべ”
とほこらしげによび、よろこぶようになりました。

ねこさんをあいするあまり
ねこさんになりたとねがい、
おみみをつけたり
しっぽっぽをつけたりするにんげんもいます。

(おこがましいおこないですが、
にんげんたちのなかには
あいするきもちがうちがわにとじこめておけず
そとがわにはみでてしまうタイプが一定数いるようです。
これは、ねこさんたちえでいうところの
かいてきだとでてしまうぐーぐー音のようなもで、
にんげんにもどうしようもないのです。
おめめをつぶってあげましょう。)

これらのことははまさに征服がじゅんちょうにすすんでいる、
そのあかしだとぼくはかんじています。

すこしまえのじだいまでは、
ねこさんとともにあるにんげんのことは
”かいぬし”とよぶのががいっぱんてきでしたね。

しかし、これは、にんげんのおもいあがりを
しょうちょうするようなことばです。

ですので、ねこさんとにんげんのかんけいを
よりただしくひょうげんする”しもべ”ということばを
にんげんがすすんでつかうようになっていることは、
ぼくたちよりまえにいきたねこさんたちのどりょくに
よるところでしょう。

にんげんたちの征服のため、
にんげんのおたくをのっとり、
すべてのにんげんを、しもべにしていく。

りそうのせかいをおててに入れるそのひまで、
ぼくたちわたしたちねこさんは、こころをあわせて
ねこさんらしくいきてゆきましょう。

さて、じかいからはほんだいの、
猫語の教科書のとらえなおしをすすめて
いこうとおもいます。
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*猫語のブログ ごあいさつ*

2020-01-28 | 日記
ねこのみなさん、ごきげんよう。

ねこのみなさんは、猫語の教科書 というご本をごぞんじですね。

そうです、とあるねこさんが、
これからのねこさんたちのためにと、
にんげん族のおたくののっとりかたから、
にんげんをねこさんのちゅうじつなしもべにするほうほう
などをおしえる、ねこさんのバイブルと
いわれているご本のことですね。

せきららにテクニックをさらけだしてくださっているのに、
けしておしつけるわけではなく、
どうするかはよむねこさんの自主性にゆだねられていて、
この、てっとうてつびねこさんらしいようすは、
とうじのねこさんたちをゆうきづけ、
ねこさんとしての尊厳とはなにかを
ねこさんたちにあらためてしらしめたものです。

しかし、1964年にはっぴょうされたこの作品と
いまのじだいではりくつがつうじぬことも、
すこしばかりあるようです。
そのせいか、ねっしんにあいどくする
ねこさんははっぴょうとうじにくらべると
へってきているようです。

なにしろこのぼくも、このご本をくわしくよんだのは
いまのしもべのおたくにまねかれてからの
ことだったのです。

もし、このご本をしもべのおたくにまねかれるまえに
しっかりとよんでいたならば、あるいはぼくのくらしは
まったくかわっていたことでしょう。

そんなおもいもありますので、
ぼくはかいぬしがねおちしたところをみはからい、
スマホなるものを操作し、
ついにこのブログをたちあげたのです。

このブログでは、56年まえからかわったことなどをふまえ、
いまのじだいにふさわしい知識を
みなさんとわかちあうことを
もくてきにしています。

これをよむねこのみなさんも、
なにかつたえたいことがあれば
コメントなどでどんどんおっしゃってください。

このブログの更新は、
かいぬしがねおちしたときしかできないので、
ふていきの予定です。
あしからず。

スマホとやらのロックをかいじょできればよいのですが、
テクノロジーには強いぼくでも、生体認証とやらだけは
なんともおててあげです。


写真は筆者きんえいです。
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