ねこのみなさん、ごきげんよう。
さて、今回から猫語の教科書についてのこうさつを
はじめるつもりです。
ですが、まずこのご本が、
みずからしもべをえらぶことができた
そういうフェーズをいきていたねこさんたちの
ご本だということをわすれてはなりません。
げんだいは、先のねこさんたちのどりょくにより、
そのフェーズからいちだん上がっています。
そのため、げんだいでは
いっこくもはやくねこさんのしもべになりたい、
これいじょうねこさんがいないくらしにたえられない
とねがうにんげんがふえました。
どうやら、にんげんたちぜんたいに、
ねこさんのきんだんしょうじょうが
あらわれつつあるようです。
これはうらをかえせば、
にんげんたちの征服が順調にすすんでいる
ことのあらわれでもあるのですが、
いっぽうでへいがいとして、
ねこさんにしもべえらびのしゅどうけんがない
ということがおこっています。
このご本にかかれてあるように、
なんにちもかけて、
にんげんやおたくのごようすをかんさつし
ごじぶんにふさわしいとわかったおたくに
おまねきされるのであれば
このご本にあるおててだてをおぼえておくだけで
よろしいでしょう。
しかし、にんげんたちがねこさんをえらぶようになった
げんだいにおいては、にんげんたちをしもべにするにあたり、
このご本のおててだてだけではこんなんもあるでしょう。
しもべえらびのしゅどうけんを
ねこさんがにぎれないことでおこる
おこまりごとについて、
ぼくのけいけんが、げんだいをいきる
ほかのねこさんのおやくにたつかもしれませんから、
こんかいはぼくのおはなしをしておきます。
ぼくはじゆうねこのおかあにゃんのもとにうまれました。
おかあにゃんはやりおててのねこさんでしたので、
ごはんをくれるおたくをいくつかわたりあるく、
猫語の教科書でいうところの、
スリルをたのしむタイプのねこさんでした。
ですので、ぼくはひび、にんげんのちかくにはいましたが
にんげんのそばにいくのはごはんをめしあがるとき
だけでした。
そんなぼくが、ぼくのしもべのところにきたのは、
せいごはんとしをすぎたのころのことでした。
げんだいにありがちな、もちはこばれるかたちで
しもべのおたくにおまねきされました。
ぼくのしもべは、ぼくをおまねきするまで
ほかのねこさんのしもべになったことがない
しもべみけいけん者でした。
こういったにんげんのもんだいてんは、
にんげんたちてきないいかたでいうところの、
「かわいそうな野良のこねこを
やさしいにんげんが助けてやった」
そういうあやまったかんがえをもっている
というところです。
(ちなみに、野良とは、おたくをもたない
じゆうねこさんのことをいっています。)
ぼくのしもべも、ごたぶんにもれず
このようなかんがえをもっているのが
おててにとるようにわかりました。
この、にんげんのあやまったかんがえが、
げんだいのねこさんがちょくめんする
しんこくなおこまりごとのこんげんです。
このようなあやまったかんがえをもつにんげんは、
なれなれしくさわろうとしたり、
つかまえようとしたり、
もちあげようとしたり…
ほんとうに、どれをとっても
うんざりすることをへいきでやります。
「助けてやったのだから、わたしのじゆうにしてよい」
にんげんは、つまり、こうかんがえるのです。
だからこそ、このようなおこないをへいきでするのですね。
ねこさんの高潔をなにもりかいしていません。
もしあなたがおまねきされたおたくのにんげんから
このようなあつかいをされたばあいは、
ねこさんとにんげんとのただしいありかたを
まずもってりかいさせなければなりません。
にんげんを、しもべとよぶのはそれからです。
ぼくがはじめにしたことは、
ぼくからはけして
にんげんにちかづかないということです。
これはただしいせんたくだったと
これまでのとしつきのおりおりにふりかえって、
そうおもわなかったことはありません。
もしねこさんからちかづいてしまったら、
あさはかなにんげんのことですから、
「ねこさんがさみしくて、
にんげんにやさしくしてほしいために
ちかづいてきたのだ、」
とかんちがいをおこすのは、もはや
おひさまがあたたかいのとおなじくらいに
わかりきったことです。
もちはこばれるかたちでおたくにまねかれたら
まずおたくのなかをみまわして、
にんげんがてをのばしてもとどかない
せまいすきまをさがし、
そこにはいりこんでしまいましょう。
そして、やわらかいおからだをちいさく、かたくして、
こまかくふるえて、おみみはぺたん、おめめはまっくろ
ときにはうなりごえをだすのがよいでしょう。
このようなねこさんのおすがたは
たいそうおいたわしいように、にんげんにはうつります。
だいたいここでにんげんは
おどろくほどけんきょになるものです。
きゅうきょくにあいらしいねこさんが、
おいたわしいすがたでいることは、
しもべになろうとするにんげんには
とくべつにいたましくみえるものです。
まるでじぶんがわるもののように
かんじさえするようです。
そしてじっさい、ねこさんをそのように
かるがるしくあつかうにんげんは、
わるものにほかなりません。
だからこそにんげんは、
かわいいねこさんを、なでたり、すったり、
もふもふしたりしてたのしみたいけれど、
それよりもなによりも、
ねこさんにすかれたいのだ、
というしんじつの気持ちにきづくこときがきます。
そのきもちにきづいたにんげんは、
わたしはねこさんのしあわせのためならば、
わたしのすべてのよくぼうをなげすてます、
ねこさんをおもうさまハムハムしたい、
持ち上げたい、そんなよくぼうなど、
それがねこさんをふるえさせることに
なるのならば、理性のこぶしでだまらせて
みせます、とけついすることでしょう。
ねこさんとにんげんのありかたを
ただしくりかいできてないにんげんには
このけついをもたせることがかんじんなのです。
おいたわしいすがたをもくげきしてから
このけつだんにいたるまでのじかんのちょうたんには
個体差があります。
ぼくのしもべは、ぼくのかんかくで、
いちじかんほどだったようにおもいます。
にんげんがそのけついをしたかどうかは、
だいたいにおいてねこさんにつたわるものです。
ごしんぱいはいりません。
けついができたことをかんじたら、
もうおいたわしいごようすはやめてもよいでしょう。
ただぼくは、しんちょうなたちのねこさんですので、
そのけついがよりかたく、
たしかなものになのか
たしかめることにしました。
ですので、けついがつたわってきたあとも
ぼくはなにもわからないふうで、
おめめをまんまるにしてふるえつづけ、
おいたわしいふりをしつづけました。
それからかなりたったころです。
ぼくははばかりごようじができました。
それはもう、ごようじがないふりなど
できないところまできたのです。
ぼくのしもべは、しもべみけいけん者ながら、
ねこさんには、ねこさんのためのはばかりが
ひつようなことはわかっていたようで、
おたくにはねこさんようの
せいけつなはばかりがよういしてありました。
ぼくは、おたくにはいったときすぐに
はばかりがどこにあるかをかくにんしていましたので
あんしんしていたのですが、
いざごようじができたそのとき、ぼうぜんとしました。
はばかりのまんまえに
しもべがどーんとすわっていたのです。
つまりはばかりでごようじをすますには、
必然、しもべにちかづくことになるのです。
ぼくはちいさなすきまからおでましになろうと
そわそわしたりしてそのサインをだしました。
しかししもべときたら、
まったくいにかいしません。
それどころか、ぼくのそのごようすをみて、
ついにぼくがこころをゆるし、
おすがたをみせてくださるきになったのだと
かんちがいしていたのです。
ぼくはぜつぼうし、歯がみし、
にくきうをなんどもゆかにうちつけました。
やはり、まだまだしもべのけついのていどは
じゅうぶんではなかったのです。
もし、けついがかっこたるものであったならば、
きっとぼくがはばかりにごようじがあることなど
かんたんにわかったはずです。
ぼくのおすがたをみたい、
にんげんのそのぼんのうが、
ぼくがおでましになろうとするしんのりゆうを
わからなくさせたのです。
するどくさけんでてしらせもしましたが、
これはあとから分かることですが、
ぼくのしもべはにんげんとして
あまりできのよくない部類ですので、
いっこうにぼくのおっしゃっていることがつたわりません。
それどころか、せなかをむけたまま、かたをふるわせ
のんきにおはなをフゴフゴ言わせているのです。
ぼくはここで、かくごをいたしました。
そちらがそういうたいどなら、
ねこさんにも考えがあります。
ぼくは、ぼくのいちばんちかくにあった、
しもべのざぶとんというやつにこころをきめて
そこでどうどうとごようじをすませました。
(ねこのみなさん、ぼくをけいべつなさいますか。
ともかく、これがどれほどくつじょくてきなことかは
さっしていただけるでしょう。)
ぼくのしもべは、
ねこさんのせいしつのたっとさとはどのようなものか、
いなづまに打たれたごとく、はっきりとしゅんじにりかいしました。
つまり
にんげんに近づく屈辱に比べれば
はばかりで用を足せない屈辱など
とるにたらぬ!
ということです。
ねこさんが、こうときめたらやりとおすことはもちろん
にゃーとおっしゃるのはにんげんのきをひくため、
ましてやにんげんをよろこばせるためではなく、
じゅうだいなりゆうがあってのことなのだということを
しもべは、おもいしらされたことでしょう。
そして、ねこさんがわざわざそのように
しもべになにかサインをおくるのは、
しもべにたよっているからではないということも
どうじにわからせなければなりません。
ねこさんは、なんについてもねこさんなりの
かいけつほうほうをしっています。
(たとえばぼくがざぶとんでごようじをすませたように。)
ねこさんは、しもべのつごうもあるでしょうから、と
あえてしもべにお知らせしているだけのことです。
困ったからしもべになんとかしてほしいから、
にゃーとしもべをよぶのではないのです。
そのおんじょうをそでにするのであれば、
そのけっかねこさんがなにをどうしても、
ねこさんにはせきにんはありません。
すべては、しもべのせきにんです。
このことは、はやいうちに
しもべとなるにんげんにわからせておかなければ
ならないことです。
みなさんも、わからせるべきときには、
けだかきこころでもってしてことに当たりましょう。
これが、げんだいのしもべえらびがままならぬねこさんが、
もち合わせておくべきおててだてです。
わかりやすいエピソードをもうひとつ。
しもべのおたくについたその日、
おたくの中でもいっとうひあたりのよいでまどは
ぼくのためのばしょだとすぐにわかりました。
ですが、しもべはやはりかんちがいをして
おきにいりのあれこれを、
ならべるばしょにしていたのです。
ちいさな花びん、うすいガラスの天使、
こまかな飾りのオルゴール、
きれいなふさふさのついた布。
おたくのなかの、ひあたりのよいところはすべてねこさんのものです。
なんどかおしらせしましたが、
しもべはわかろうとしませんでしたので、
ついにきょうせいしっこうのひをむかえました。
そのひぼくは、ひあたりのよいおじかんになったころに
でまどにのぼり、
すべて、きっちりと、むじひに床へおとしてやりました。
ふさふさについては、ぼさぼさにしてやりました。
かえってきたかいぬしは、ほうけたかおを
していましたが、でまどでくつろぐぼくをみて、
ぼくにていねいにあやまりましたっけ。
そうです、これこそ正しいねこさんとにんげんのありかたです。
かれこれ13ねんも前のはなしですね。