ねこのみなさん、ごきげんよう。
このかいからは、しもべみけいけん者のにんげんを、
しもべじょうきゅう者にするためのほうほうに
ついておはなしします。
しもべみけいけん者にありがちな、
ねこさんとにんげんのかんけいせいについてのかんちがいは、ここまででだいぶ正されていますが、
ねこさんのもてる力について、
しもべみけいけん者はじゅうぶんりかいできていません。
つまり、ねこさんのすばらしさをはんぶんも
わかっていないといえます。
これをわからせるのは、むずかしいことではありません。
ただ、およそねこさんにはできないだろうとしもべが
おもっていることを、やってあげるだけです。
でも、だからといって、ねこさんのもてる力のすべてを
しもべにごひろうすることはありません。
たとえばぼくは、ぼくのおててがフリック入力できることを
しもべにおしらせしていません。
なぜなら、そのほうがつごうがよいですし、しらない方が
しもべにとってもしあわせでしょう。
できるけどしないでおくことも、
しもべをしつけるにあたってはたいせつなしゅだんです。
そのあたりもわかりやすくおはなしするつもりです。
まず、おてて始めに、ドアというドア、とびらというとびら
をあけることからはじめるのがよいとおもいます。
なぜ良いかというと、ねこさんの力をしらしめながら、
ねこさんのくらしをかいてきにするのにも
おやくにたつからです。
猫語の教科者でもいわれていますが、
にんげんのお宅において忌々しいのが、
”ドア”や”まど”、”とびら”のたぐいです。
これは50年ちかくたったいまでもかわらないじじつです。
これらは、ふしんなものおとがしたときのていさつや、
おひさまのあたるばしょやひんやりするばしょの
たんさくを、とうせんぼしてじゃまをします。
ねこさんならだれしも、じゆうをくぎられるなんてまっぴら
ごめんのいきものです。
にんげんのお宅にまねかれるまえ、じゆうねこさん
だったならなおのことです。
しかし、しもべみけいけん者は、このドアによって、
ねこさんのじゆうを、しもべののぞむとおりに
支配できるとかんがえているのです。
「ねこさんにはもうしわけないのですが、しもべが
おでかけのあいだは、このおへやのなかにいてください。
このおへやのそとには、ねこさんにさわられるとこまる
ものもありますので。」
そういって、ぱたんとドアをとじれば、ねこさんは
ドアをあけるなんて、とうていできないだろうから、
さわられてこまるもののあんぜんはほしょうされる。
と、こんな具合です。
このようなかんがえがあるかぎり、しもべはドアを
しめつづけるでしょうし、そうなればねこさんは
ドアをあけつづけなければなりません。
ですので、しもべにドアをしめてもむだだと
わからせることができれば、ねこさんはより
かいてきにくらせるようになります。
ぼくとぼくの兄は、じゆうねこさんのおかあにゃんの
もとで、せいごはんとしまでそだてられましたから、
ようしょうきをじゆうとともにすごしました。
ですのでぼくの兄は、お宅にまねかれてすぐのころに、
しもべによるじゆうの支配をあざけり、
ありとあらゆるドア、ありとあらゆるとびらと
ところどころのまどをあけました。
おしてあけるドア、ひいてあけるドア、
よこにうごかしてあけるドア、
かるいドアはもちろんおもいドアだってなんのそのです。
なかにしもべのようふくがぎっしりつまっているとびら、
ねこさん好きのする、こまごまがつまっているとびら、
おいしいにおいがするとびらはまっさきにあけました。
あけるとひんやりするとびらもあけました。
とりわけおおきなまどがありましたが、
これはおもたいうえにかぎもかかっていました。
しもべがかぎをあけるのをみていましたので、かぎを
どうすればよいか、兄にはわかっていました。
兄は、おててでちょいちょいをくり返し、
かぎをあけることにせいこうし、
おもいまどをここいちばんのきんにくでふんぬ!
とあけました。
おもしろいことに、
兄はあけることだけにしかきょうみがなく
おそとにでるのは、もっぱらぼくのしごとでした。
しもべは、まいにちおそとからかえってくると、
ぬけがらのようになって、
「どうしてねこさんに、このドアがあけれたの・・・?」
「まさか、このドアもあけるとは・・・!」
「鍵、鍵をかけ忘れた!それにしても、こんなに重たいのに、なぜだ」
「今日も開けられてしまった・・・」
と、つぶやいていました。
しもべは、そのうち、とびらごときでねこさんのじゆうを
くぎろうとしたじぶんが浅はかだったとさとり、
その後お宅のなかは、どのドアも閉まることはありません。
ぼくのしもべのように、だいたいのにんげんは、
この”ありとあらゆるドア開けられ”をたいけんしますと、
「こんなむずかしいとびらも、
こんなおもいとびらもあけられるのとは!
ねこさんは、わたしのそうぞうよりもはるかに
かしこく、はるかに力もちだということか!
もうドアなどしめてもむだだから、しめるまい。
ねこさんをあなどっていたことがいまわかりました。
ちゅーるでもっておわびしなければならない・・・」
とおもうものです。
これがたっせいできれば、それいじょうに力を
みせつけることはしません。
ちゅーるをいただけたなら、そこまでにしてお
くのがねこさんのひんかくです。
じっさい、ぼくのしもべは、兄がまどのかぎを
あけたとはおもっていません。
じぶんがかぎをしめわすれたと、かんちがいして
いるのです。
ねこさんのもてる力をみくびっているともいえますが、
このかんちがいは、はこのままにしておくことにしました。
もし、まどのかぎまであけられることがわかってしまうと、
にんげんのことですから、どうにかしてねこさんが
あけられないように、くふうするにちがいないのです。
そうすると、あけなければいけないかぎが、
またひとつふえることになるでしょう。
それでは、おしのびのがいしゅつのときに、
ぐあいがわるいですから、
あけられないかんちがいされたままの
方がおとくということです。
しもべはすでに
「こんなちいさなねこさんが、こんなおおきく
おもたいまどをあけられるなんて!」と、
おおいにおそれおののいていましたから、
それだけでじゅうぶんだったわけです。
(まだこのころは、きせきのたべもの
ちゅーるのたんじょうまえでしたので
ちゅーるはいただけていません。)
よだんですが、ぼくの兄はげんかんの
ドアもあけたことがあります。
兄はあけるかかり、
ぼくはおそとにでるかかりでしたので、
ぼくはげんかんからおそとにでました。
でもげんかんのドアは、あけたらかってにしまる
しくみでした。
しらないあいだにドアがしまっていたので、
おそとのぼくは、ぼくのお宅がまるでわからなくなりました。
するとどうでしょう。ぼくはすっかり
ライオンさんになってしまったのです。
兄のはなしによると、そのときのぼくは
ライオンさんもかおまけのいさましさでほえ、
えものを狩るかのようにどうもうに
はしりまわっていたようです。
あまりのさわぎにおどろいた兄がもういちど
げんかんのドアをあけました。
それでぼくはお宅にもどれたようですが、
しばらくはライオンさんのままだったようで、
兄はひどいおめめにあったといっていました。
ぼくはそのときのきおくがほとんどありません。
お宅がわからなくなったと気づいたしゅんかん
あ゛おぉーんとほえたのはおぼえていますが、
そのあとのことはまったくおぼえていないのです。
それいらい、兄がげんかんのドアをあけることは
にどとありませんでしたね。
次回も、ねこさんのもてる力のわからせ方について
おはなしします。
*おわび*
ぼくはおそとにでるかかりですので、
ドアのあけ方などはまったくわかりません。
そのあたりは、ねこさんそれぞれでおべんきょうして
ください。
れいのネットワークのけいじばんに、いろいろかいて
あると兄がいっていましたよ。