呑舞さんの脳活俳句日記

俳句漬けの毎日。夢の中でも俳句を詠み、昼間は時々カメラを持って外出し、俳句の材料を捜す日々。句会報告や俳論を掲載します。

東海道吟行記(大磯~二宮)其の一

2017-03-25 10:22:05 | 俳句

大磯付近の東海道松並木

   大磯駅を出て相模湾側へ5分程歩いた東海道の道沿いに日本三大俳諧道場(京都落柿舎、滋賀無名庵と並ぶ)として有名な「鴫立庵」がある。鴫立庵は、寛文4(1664)年の頃、小田原の崇雪が石仏の五智如来像をこの地に運んで草庵を結び、初めて鴫立庵と名付けた事に始まる。当初は、五智如来を本尊とする西行寺を作ることが目的であったが、その後元禄8(1695)年に紀行家、俳諧師として有名であった大淀三千風が庵を再興して入庵し、第一世の庵主となったものである。

   鴫立庵は、通常の民家よりもやや広い程度の敷地内に、歴代庵主の住居として使用されてきた鴫立庵室と、これに並ぶ俳諧道場、三千風が建てた円位堂(西行座像が安置されている)、法虎堂(有髪僧体の虎御前の木像が安置されている)、観音堂等があり、五智如来像や西行歌碑、歴代庵主の句碑等が配置されている。芭蕉の句碑もある。

   鴫立庵の門前には鴫立沢と呼ばれる谷川が流れ、海へ向かって沢となり、砂地に吸い込まれて消えている。この辺りの浜を小余綾(こよろぎ)の浜と呼び、歌枕として多くの和歌に詠まれている。西行もこの辺りの海辺を吟遊して、三夕の歌として有名になった和歌、

     こころなき身にもあわれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮   西行

という名歌を残した。大淀三千風は、〈鴫立し沢辺の庵をふきかえてこゝろなき身のおもひ出にせん  鴫たってなきものを何よぶことり〉の和歌を残した。現在は、22世の庵主鍵和田柚子(俳人)氏が在庵している。

     円位忌の波の無限を見てをりぬ    柚子

  鴫立庵で詠んだ拙句(3月25日西行祭に際して献納句)

     小余綾の磯の香りや西行忌    呑舞

     小余綾に松風鳴くや西行忌     呑舞

鴫立庵正面と鴫立沢

   東海道沿いに西下すると道沿いに名門同志社大学創立者の新島襄終焉碑がある。新島は、晩年大磯で病気の療養を続け、京都に帰ることなくこの地で亡くなっている。

    更に、東海道を西下すると東海道の山側に旧島崎藤村邸(静の草屋)がある。藤村は、昭和16年1月13日に湯河原への休養旅行の途中、友人に誘われた大磯 での左義長見物が契機となって大磯に住む決意をしたと言われている。敷地面積145坪に建つ長屋は24坪で、近年の庶民住宅と余り変わらない広さの住居である。当初は家賃を毎月27円支払う借家住まいであったが、翌年には、当時のサラリーマンの約30年分の給料に相当する1万円で買い取り、終の棲家にした。近所には、作家の菊地重三郎、画家の安田靫彦、画家の有島生馬等が住んでおり、交遊を深めたと言われる。

   住居は、小さいながらも素朴な冠木門を潜り、割竹垣に囲まれた小庭、わずか三間、8畳、6畳、床の間付きの4.5畳と、最近の庶民の住宅よりも質素である。藤村は、静子夫人に宛てた書簡で「萬事閑居簡素不自由なし」と表現している。

   藤村夫妻は、この居宅から800m程度東京寄りに離れた地福寺の本堂前、梅の名所になっている古木(100~200年)に囲まれた墓所に眠っている。

   大磯は、磯の香りと共に、文化的な色彩の濃い隠れた名所であると想像される。(続く)



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