ピュア・インスピレーション

人類の新しい旅立ちを目指して、洗脳の殻を破り、宇宙の法則に近づくため純粋な直感を育てましょう!

666は悪魔の数字ではなかった!;では「666」は何を表わす数字?

2015年10月31日 21時20分46秒 | 宇宙
それは、「人間」、「地球」、「宇宙」が繋がり一体となる聖なる三位一体をあらわした数字です!
このことは、2年前の「ピュア・インスピレーション」の記事で、私がガイドに促されて、私の妄想としてお伝えしたものですが、「666は悪魔の数字ではなかった!」ということが、数年前に新約聖書の新たな研究により発見されていたそうです。

以下、「日本や世界や宇宙の動向」より。



「日本や世界や宇宙の動向」

http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/


666は悪魔の数字ではなかった!



ちょっと古い記事ですが。。。
既に数年前に666が悪魔の数字ではない事が分かったということで。。。驚きました。
しかし今でも666が悪魔の数字として使われていますが。。。これからは616に要注意!
なぜなら、悪魔の数字は616だそうです。
そしてそれはローマ皇帝カリグラを指しているそうですが、同時にローマカトリック教会(バチカン)も指しているのでしょうね!
ところで。。。悪魔崇拝(サタニズム)といえばケルトのペーガンでありハロウィンもそうです。
日本、特に東京では、若者の間でハロウィンが大盛り上がりですが。。。不気味な格好をしてハロウィンに参加している若者は悪魔を呼び込んでいますから怖いことです。
いくらどんちゃん騒ぎのお祭りと言っても、ハロウィンを日本で大流行させるのは問題だと思います。
ハロウィンは実際は収穫祭でも魔除けでもなく、悪魔を呼び込む儀式だそうです。
東京で不気味に盛り上がっているハロウィンですが、この背後には、日本文化を破壊し不気味な悪魔祭りを日本中に拡散し日本の若者をバカにする反日工作活動が存在するのでしょうか。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/51252146.html
(転載)
オーメン こんなことが判明しちゃうともう、映画『オーメン』の続編とかどうなっちゃうわけとか、666を悪魔の数字と信じてかばんと机とかそこいらじゅうに掘っていたあの学生時代のあたしはダレ?とか思っちゃうわけなのですが、この度行われた新約聖書の研究によると、これまで"獣の数字"とされてきた666が、正確には616だったことが判明しちゃったそうなのです。

 この666というナンバー、悪魔が大好物のロックな方々、黒魔術を専攻している方々に絶大なる支持を得ていたわけで、実際に頭に666の刈り込みを入れたり、刺青をしたり、そういやパルモが昨日スーパーで見かけた車のナンバーも666だったりなんかしてたのですが、今回、かつてエジプトはオクシリンクスの遺跡から発見されたギリシャ語による最古の(三世紀頃)ヨハネの黙示録の紙片を、新たな写真技術で解析、研究した結果、実際には獣の数字は"616"と書かれていたことが確実となってしまったそうで、大変気の毒なことをしたと思います。



【"666"は獣の数字に非ず - 新約聖書に新たな研究結果】

 ちなみにこの数字の意味は何かと言えば、典型的なゲマトリア(数字置き換えの暗号)の一種だそうで、当時、キリスト教者たちは彼らを迫害していた人物の名を数字に置き換えて聖書の中に暗示しており、この616という数字はそのままローマ皇帝カリグラを指し示しているんだとか。

 この発表を受けてサタニスト(悪魔崇拝主義者)たちはどう反応したのかというと、「666は、我々がキリスト教者を恐怖させるために用いてきた数字です。もし数字が616になるのなら、今度は我々はそれを使う。それだけのことです。」(ニューヨークのサタニスト教会教父、ピーター・ギルモア氏)と、そんなに666に思い入れはないようであっさり乗り換える予定なのだそうだ。




転載終了





そして、ガイドに促されて「666」が三位一体の聖なる数字であるとした私の妄想記事は、参考記事(2)として再掲しましたのでご参照ください。
この参考記事(2)を投稿した時に、丁度、「ピュア・インスピレーション」の記事の数が666本目になっていました。
そして、この記事が666x2=1332+1の1333本目になります。
ということは、私は、「聖」なるサイクルが2回繰り返され、3回目(3段階目)に入ったことを意味しているのではと思っています。
私は特に数字のことを意識して記事を書いているわけでは無いのですが、不思議なことにこのような巡り合わせになっています。

ですから、今、そのような巡り合わせになった意味を考えているところですが、今のところガイドからのお知らせはありません。
そうなってくると、この記事は単に、邪悪な連中が人々を真実から遠ざけるために真逆の事を、さも本当のように伝え広め人々を「洗脳」させていることの一つの証明に過ぎないということになりますが・・・
そのようなことは、ほとんどの皆さんは既にご承知のことであると思われるので、このような記事を投稿する必要も無いのではということになってきます。
ですから、今、その意味を考えているのですが・・・

やはり、「3」がキーワードであるようです。
「3」は安定を意味します。
そして、ピラミッド、3+3は三角形と逆三角形が合わさった六芒星=ダビデの星そして私たちの身体の中心にある「マカバ」の形です。
そして、この記事の意味は、この度「666」の聖なる三位一体が3巡目に入り安定する時期に入ったと伝えることなのではと思います。

私たちは、宇宙根源の普遍的で全てのものを活かす「愛」のエネルギーを感じることが意識のシフトになると気づいています。
感じるということは通じていることであり送受信していることです、すなわち同調しているということですから、その波動の振動数になっていることを意味します。
ですから「愛」のエネルギーを感じ取ることが出来たなら、それは意識のシフトが出来たことになります。

だから、この記事の意味は、この聖なる三位一体の安定期に入ったことをお知らせすることなのではと思います。
「人間」、「地球」、「宇宙」が繋がり聖なる三位一体となることを、知り、認識し、感じる局面に入ったということなのではないでしょうか。
2年前には、ガイドが囁くことと私の妄想とは区別出来ていましたが、最近は、私の妄想とガイドがそれこそ一体になっているような気がして、その区別が難しくなっているように感じています。
私たちとガイドは元々一緒だったので、そのようになるのが自然なのかもしれません。


さて、さて、今回の「勝寛舟の大妄想」も的を得た真実になるのでしょうか。
私は間違いなくその方向に進んでいると思っています。
皆さんは、どのように感じられているでしょうか・・・





参考記事(2)




「666」は獣を表す数字ではありません!:それは「聖」なるものの完成を表します!

[アセンション・テレポテーション]
2013年9月22日 15時45分の記事



「666」は獣を表し、サタンを表しているとされ、人々が忌み嫌う数字になっています。
しかし、本当にそうでしょうか?
ここでも「誘導」、「洗脳」の意図が働いていると思われます。
私の妄想ですが、最近の私の妄想は「アカシックレコード」から取り出している場合が多いようですので、案外、当たっているのでは、と思っています。


この「666」という数字は、今までに映画や書籍で、散々、人々が忌み嫌う数字として刷り込みが行われてきました。
ですから、一般にそのように思い込まされていると思います。
しかし、私は、真逆であると思っています。
「666」は「聖」なる数字であると、それを表すものだと思っています。
「闇の勢力」の常とう手段ですね。
真実を知られると困るから、人々を真実から遠ざけるために用いる、意図的に真逆に「洗脳」するという悪意からの刷り込みです。

「6」という数字は、3+3です。
「3」は安定を表します、三角形、ピラミッドです。
そして、「6」は三角形が二つ合わさった数字です。
ピラミッドと逆ピラミッドが合わさったものです。

もうお分かりですね。
「6」は「ダビデの星」を表します。
「六芒星」です、日本では「籠目」として表わされているものです。
8月に宇宙に「印」として示された「ダビデの星」を表しています。

そして、「ダビデの星」が3つ。
これは何を表しているのでしょうか?
私は、人間と地球、そして宇宙を表していると思っています。
その人間と地球、宇宙とが「三位一体」として「聖」なるものに完成したとのことを表す数字だと思います。

6+6+6=18→1+8=9
「9」は完了を意味します。
すなわち、人間と地球と宇宙の「聖」なる「三位一体」が完成したということです。
それが、今、完成したということだと思います。
9月19日~9月25日の中間日である今日、9月22日に完成した印であると思います。

そして、明日からは、その「聖」なる領域へ向かってのスタートとなる日です。
私はそのように解釈しています。

そして、私のハイヤーセルフやガイドがこの記事を書くように勧めています。
「ピュア・インスピレーション」の記事は、この記事で「666」通になりました。
これも偶然ではないと感じています。

前の記事で、「これから公園に行って瞑想してきます」と書きました。
そして、公園に出かけようとすると・・・
「今日は公園に行かなくていいよ」
「自宅で瞑想したら・・・」
「その方がいいと思うよ」
とガイドに言われました。
それに対して、最近は、出来るだけハイヤーセルフやガイドのアドバイスに素直に従っている私ですが、ブログで宣言しているし、運動にもなるからといって公園に行きました。

そして、樹木に囲まれた昨日とおなじような位置で「瞑想」を始めました。
そうすると、どうでしょう。
「パーン」、「パン、パン」というピストルの発射音が聞こえました。
さらに、かん高い女性の声で、早口でまくしたてる大きな声が聞こえました。
おまけに大きな歓声まで聞こえます。

数百メートル離れた小学校で「運動会」が行われているようです。
この環境にもめげずに「瞑想」しましたが20分ほどでいったん終わり、少し散歩してから15分ほど「瞑想」を続けていると・・・
「新郎新婦のご入場です」という大きな声が聞こえてきました。
これも、数百メートル離れた結婚式場が宣伝のためでしょうか、披露宴自体は内部で行われているのに、その実況を外部に大きな音で発しているのです、おめでたいこととはいえ近所迷惑なのでは、と思いました。

やれやれ、昨日は同じ場所で、あんなに静かだったのに、ガイドさんが伝えたのはこのことだったのかと、思い、「瞑想」を中断して帰ってきました。
そして、ベッドに横たわり「瞑想」しようと集中していたところ、「ピーンポーン」と、運送会社の方の訪問で中断されました。
そして、ガイドにこの記事を書くようにと促され、記事を書いているところです。
どうも、この記事を書いてしまうまでは「瞑想」できないようです。

これから昨晩のような強烈なエネルギーの流入を期待して「瞑想」しようと思っています。
昨晩の背中からのエネルギー流入は、特別なことでなく、色々なチャクラからエネルギーの流入があり、最後の方で頭頂からの流入があるとの、「るつぼ」さんからコメントをいただきました。


「1. るつぼ@5D tunesまつり♪ 2013年9月22日 12時32分 [返信する]
勝さん、こんにちは(^^)
私もこれまでに強いエネルギー注入を体験してますが、頭頂から来たのはここ2、3か月に2回くらいです。
それまでは喉、サードアイ、みぞおち、基底チャクラ周辺などから来たりしてました。 

私も睡眠中に来て、最初のうちは訳がわからず「なんだこの金縛りもどきはーっ!」と混乱しましたが、
慣れてくると心地よいです。

頭頂からのエネルギー注入は順番的に最後なのかもしれませんです。
それまでは人それぞれ、必要な場所から注入されるのかもしれません。」


とのことです。



さあ、これから、やっと「瞑想」に集中できそうです。
何を置いても「瞑想」などに集中してエネルギーを吸収してくださいとの「オリオンの高等評議会」の皆さんの熱いアドバイスに応えられそうです。





参考

「ウィキペディア」 「三位一体(さんみいったい)」より

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BD%8D%E4%B8%80%E4%BD%93



三位一体


三位一体(さんみいったい、ギリシア語: Αγία Τριάδα[1], ラテン語: Trinitas[2], 英語: Trinity, ドイツ語: Dreifaltigkeit[3], ロシア語: Святая Троица[4])とは、キリスト教において「父」と「子」と「聖霊(聖神)[5]」が「一体(唯一の神)」であるとする教え。
正教会[6]・東方諸教会[7]・カトリック教会[8]・聖公会[9]・プロテスタント[10][11][12][13]といった大半の教派が、この教えを共有している。

三位一体は、「三神」(三つの神々)ではない[14][15][16][17]。

正教会(日本ハリストス正教会)では「至聖三者(しせいさんしゃ)」と訳される(但し「三位一体」の表記も用いられないわけではない)[18]。
聖公会(日本聖公会)等では聖堂名・学園名など主に固有名詞の一部として、「聖三一」の語も使われる[19]。

この語は、キリスト教神学を離れて、三者が心を合わせることや、3つのものを一つに併せることを指して用いられる場合もある。


概要[編集]

「三位一体」は、正教会[6]・東方諸教会[20]・カトリック教会[2]・聖公会[9]・プロテスタント[10][11][12][13]といった、キリスト教における中心的な教えの1つであり、正統教義のひとつである。4世紀に公会議において明文化された。但し上記諸教派に比較すれば極めて少数であるが、ユニテリアンなど三位一体を認めない派もある[21]。

三位一体論をめぐり整理された定式において、神は、一つの実体(希: ουσία[22], 羅: substantia)と、「父なる神」・「ロゴス」(λόγος) である子なる神(イエス・キリスト)・および「聖霊(聖神)[5]」の三つの位格(希: υπόστασις[23], 羅: persona)において、永遠に存在すると言い表されている[3][24]。
なお東方諸教会(非カルケドン派)も三位一体論においては他派と異なるところはない。
東方諸教会が他派と異なるのはキリスト論(合性論)においてである。

第1ニカイア公会議(第一全地公会、325年)の頃から第1コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会、381年)の頃にかけて、こうした三位一体論の定式が(論争はこの二つの公会議が終わった後もなお続いていたが)整理されていった[6][25]。

こうした定式が教会の発展の中で確認されてきたが、三位一体論が難解であることは、各教派において前提となっている。

正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される[6]。

西方教会においては、16世紀から19世紀にかけて、三位一体論は不合理であるとしたり、信仰者の生活への実際的意味が見出せないとしたりする批判が多くなされた。
しかし近年では、共同体における生き方のパラダイムとして捉えたり、単純な非三位一体的唯一神論よりも権威主義に通じにくい神の唯一性の再定義を求めるものとして捉えるといったかたちで、三位一体論に対する関心の復興がみられる[26]。


歴史[編集]


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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年11月)

初期[編集]

「Trinitas(三位一体)」という語は教父のテルトゥリアヌスによる造語で、「ヨハネによる福音書」の一節に、神である父が神であることば(=子)を遣わし、見えざる父を子が顕わし、子は天の父のもとへ帰るが、父のもとから子の名によって「助け主」なる聖霊を遣わす(ヨハ1:1, 14, 14:12, 16-17、26)という構図からによると言われている。

アウグスティヌスは三位格の関係を「言葉を出すもの」父、「言葉」子、「言葉によって伝えられる愛」聖霊という類比によって捉えた(『三位一体論』)。三者はそれぞれ独立の相をなしつつ、一体として働き、本質において同一である。
これは西方神学における三位一体理解の基礎となる。
また西方では「力」である父、「愛」である子、「善」である聖霊という理解も見られる。


第1ニカイア公会議(ニケア公会議)[編集]

キリスト教が広がる過程で、教理解釈のさまざまな異論が生まれていった。
4世紀初め頃、アレイオスによって説かれた「御子は御父と同一の実体ではなく (έτεροούσιος) 神性を持たない」と考えるアリウス派が、当時は神学において首位を担っていたアレクサンドリア学派と激しく対立した。
教理の混乱に収拾がつかず社会問題にまで発展したため、ローマ帝国皇帝コンスタンティヌス1世は公会議を召集、325年第1ニカイア公会議(ニケア公会議)において、アレクサンドリア教会の助祭アタナシウスらの論駁により、アリウス派側が異端として敗北した。
アタナシウスはさらに書簡などの中で、聖霊が御父と同一の実体 (同本質: όμοούσιος) とすることを説いた。
後、彼はアレクサンドリア教会の総主教(総大司教)に叙階され、三位一体の教理において第一人者となった。


ニカイア・コンスタンティノポリス信条[編集]

4世紀後半から5世紀の初め頃には「聖霊は神性を持たない (Pneumatomachi)」とする考えが、ヘレスポントスに隣接している国々のマケドニア人の間で普及した。
そして、御父と御子と聖霊の実体は同本質ではなく類似 (ὁμοιούσιος) とする類似派、「御父と御子と聖霊は、一つの神の性質に過ぎず、御父みずから受肉(藉身)しキリストとなった」と考えるサベリウス派などが現れた。
これらは、381年の第1回コンスタンティノポリス公会議で異端として排斥された。
そしてこの公会議の際、ニカイア信条は拡張されニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、三位一体の教理はほぼ完成に達した。
このときも、アレクサンドリア学派の教父ら(特にカッパドキアの三教父が知られている)が活躍したとされる。

詳細は「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」を参照


フィリオクェ問題[編集]

しかしながら、ラテン系の西方教会において、ニカイア・コンスタンティノポリス信条がラテン語に翻訳される際、ギリシャ語本文の聖霊に関する箇所において、「父から発出する」を意味する “έκ τού Πατρός έκπορευόμενον” を「父と子から発出する」の “ex Patre Filioque” と訳し、「子とともに」の Filioqueを付加した。Filioqueとは、「子」を意味する名詞filiusに「ともに」を意味する接尾辞的接続詞queが附加されたものである。
ローマ司教会議はFilioqueを正文と決定したが、公会議を通さずに行われたこの変更に、ギリシャ系の東方教会は強く反対した。
これがいわゆるフィリオクェ問題 (Filioque) である。
フィリオクェ問題は、やがて東西合同で執り行われたフィレンツェ公会議で採り上げられ、一旦ギリシャ系の主教らは「父から子を通して」を承認したが、ロシア正教会は公会議に出席したキエフ主教を破門し、決議の承認を撤回した。

これによって東西教会の分裂はそのままにされることとなった。
ローマ教会ではトリエント公会議の第2回総会で、“Filioque” を加えたラテン語の信条が改めて承認された。

詳細は「フィリオクェ問題」を参照


近世以降[編集]

エホバの証人など三位一体を否定するグループからは、三位一体の根拠は聖書にないと主張されるが、三位一体を信じるキリスト教の立場では三位一体の根拠が聖書におかれており、三位一体を否定するグループはキリスト教ではない異端と判断される[27][28][29][30]。
聖書のみをかかげるプロテスタントにおいては宗教改革者ジャン・カルヴァンが三位一体を否定する者に対して、『キリスト教綱要』で三位一体の語を使う妥当性について弁護している。
ミシェル・セルヴェは、三位一体を否定したため、ジャン・カルヴァンの手のものに火刑に処せられている。


用例[編集]


祈祷文[編集]

祈祷においては、正教会の奉神礼で「父と子と聖神(せいしん)の名に依る(よる)」[31]、カトリック教会の典礼・祈祷、聖公会および一部プロテスタントの祈りにおいて「父と子と聖霊の御名において」と唱えられることに反映されている(ギリシア語: Εις το όνομα του Πατρός και του Υιού και του Αγίου Πνεύματος、ラテン語: In nomine Patris et Filii et Spiritus Sancti)。


図像における表現[編集]


アンドレイ・ルブリョフによるイコン『至聖三者』
正教会では、アンドレイ・ルブリョフが描いたものが代表的な、アブラハムを訪ねる三人の天使(『創世記』)に拠る『至聖三者』の聖像が、唯一正当な至聖三者の図像表現として公認される。
これは西方にも伝わり、聖像を用いる教派で使われている。[32]

西方ではルブリョフとともに「老人の姿の父、キリスト、鳩または火の姿で表される聖霊」の図像も広く用いられている。
代表的な作例にマザッチオの『聖三位一体』がある。
これは十字架上のキリストとともに父および鳩の形をした聖霊を描いたものである。

このほかに、正教会でも近代に西方から入った「老人の姿の父、全能者ハリストス(キリスト)、鳩または火の形をした聖霊」という図像もある。
これは公認されていないが、ロシアを中心に伝播している。
それより古く西方から入った「老人の姿の父、幼子キリスト、鳩または火の形をした聖霊」の図像は、1667年のモスクワ教会会議により、「見えざる父を描くことはできない。
父を顕わす事が出来るのはキリストだけである」との理由にもとづき禁止された。[33]


非キリスト教の三位一体[編集]


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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。
出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2011年11月)

キリスト教以外の思想が類似性から三位一体と呼ばれる事がある。

フェミニストのバーバラ・ウォーカーなどは、三位一体は本来古代オリエントにおいて、父と母と子、あるいは乙女と母と老婆が同一の存在として君臨する様であると指摘する。
即ち、ギリシャ神話や北欧神話に見られる運命を司る三姉妹の女神(モイライ、ノルニル)である。

ヒンドゥー教のトリムールティと三位一体の相同については、論者により意見が分かれる。
なおイスラム教では、キリスト教徒のとなえる三位一体とは神とイエス(イーサー)とマリア(マルヤム)の三人のことだと認識され、そのような信仰を持つキリスト教徒を異端であるとクルアーンでも非難している。
しかし実際にはキリスト教徒のとなえる三位一体とは神とイエスと聖霊である。
しかしそのことはあまりイスラム教徒の間では理解されておらず、キリスト教徒が、神とイエスとマリアの三人をひとつだと思うようになった経緯を物語る民間伝承まで存在する。


その他[編集]

以下は、固有名詞・キャッチフレーズに用いられた例。


トリニティ実験特に三位一体を記念して捧げられた教会・大学寮などが存在する。ダブリンのトリニティ・カレッジなどが有名。
1945年7月16日にアメリカ合衆国ニューメキシコ州アラモゴードで行われた世界初の核実験は、これに因んで「トリニティ実験」と命名された。
ソニー社のトリニトロン(TRINITRON、一つの電子銃から三原色分の電子線を放ち、電子レンズは大口径のものを用い、簾状のアパーチャグリルを用いるブラウン管)は三位一体を表す英語TRINITYと電子を表す英語ELECTRONから作られた造語である。[1]参照。
トリニダード・トバゴを構成するトリニダード島の名前はスペイン語で「三位一体島」という意味である。
小泉純一郎が内閣総理大臣であったときに提唱した「三位一体の改革」。
宗教の用語としては、浄土真宗における他力本願と共に、本来の意味とかけ離れて誤用される代表的用語である。




転載終了



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