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第44回 街かどみて歩き(天王寺大国主神社からまで)

2017年02月01日 | 街かどみて歩き

◆実施日:2017年1月27日(金)
◆行き先:「こてこての大阪」(天王寺大国主神社からまで)
◆参加者:16名(男性:12名、女性4名)
◆実施内容
地下鉄四つ橋線「難波駅」の北改札口に、参加者16名午前9時00分集合し、地下鉄で一駅「大国町」まで乗って、最初の見学先である「大国主神社」へと向かった。
大国主神社は、1744年に敷津松之宮の中に摂社として大国主神社が勧請され、
大国主神社としての歴史は264年と新しいが、商売繁盛の神として「東は今宮の戎さん、西は木津の大黒さん」と親しまれている。
命がけで大坂城の備蓄米の「お蔵破り」を決行して、飢饉に苦しむ人々を救済しました木津勘助の銅像がある。
次いで、木津卸売市場に向かった。
老朽化した市場建物を3年余りかけてリニューアルされ、従来の卸売市場に大型総合食品卸、スーパー銭湯を併設されている。
また、毎月イベントを開催、業務筋のお客様のみならず、広く市民に利用されている。
その後、商売繁盛の神として有名な今宮戎神社を見学した。1月9日から11日のえびす祭りは有名である。ここで記念写真を撮った。
最後に、観光客で賑わう通天閣へと向かった。
通天閣入口からB1に行き展望券(700円)を買い、2Fからエレベーターに乗り、ビリケンさん等がある展望台5Fで降りる。ビリケンさんの足の裏をこちょこちょして、ここで更に500円の券を購入して、特別展望台「天望パラダイス」へエレベーターで上った。
ここからの眺めは、周囲に眺望を遮る物がないので、大阪の景色を存分に楽しめる。
中国の春節前だったので、姿がほとんど見えなかった。
お昼過ぎたので、通天閣近くで昼食をして、解散した。
 
(写真提供:中村直之さん及び世話役、報告文:世話役)



大国主神社            
  

木津勘助の銅像


木津卸売市場入口          


木津卸売市場の中
<

  
今宮戎神社


今宮戎神社で記念撮影


通天閣

             
ビリケンさん


  
特別展望台見えるあべのハルカス


特別展望台見える大阪城


遅いなあ~(昼食)


第43回「街かどみて歩き」

2016年12月02日 | 街かどみて歩き
◆実施日:2016年11月25日(金)
◆行き先:京都西陣界隈
◆参加者:12名(男性:9名、女性」3名)
◆実施内容
京都駅バスターミナルに午前9時50分集合、数回バスを利用するので、
各自1日乗車券を購入してバスに乗り、堀川今出川駅で降りて、最初の見学先である「西陣織会館」へと向かった。
沢山の展示品を見て回った。我々男性には着物の事は分からないが、30分毎に行われる「着物ショウー」に目を奪われた。
30分ほど館内見学して、千本今出川駅までバスで行って、次の見学先の大報恩寺(千本釈迦堂)へと行った。
大報恩寺は、鎌倉時代の承久3年(1221)に義空が開いた真言宗智山派の仏教寺院で、千本釈迦堂とも称される由緒あるお寺である。
安貞元年(1227)に建立された本堂は、幾多の戦火を免れ、800年近く経った今も当時のまま残る京都市内(京洛)最古の木造建造物として国宝に指定されている。
次いで、石像寺(釘抜き地蔵)へ向った。
ここは、寺伝によると、空海(弘法大師)により819年(弘仁10年)に創建されたとある。当初真言宗寺院であったが、鎌倉時代に俊乗坊重源による再興を機に浄土宗に改宗され、慶長19年(1614年)西蓮社厳誉上人が再興したという。
地蔵堂の本尊は、空海が唐から持ち帰った石を刻んだとされている地蔵菩薩である。この地蔵は苦しみを抜き取るということから苦抜(くぬき)地蔵と呼ばれ、それがなまって釘抜地蔵と呼ばれるようになったそうでる。
次いで、引接寺(千本閻魔堂)を見学した。
引接寺は、京都市上京区にある高野山真言宗に属する寺院である。
一般には千本閻魔堂の通称で知られている。
引接とは、仏が我々人間をあの世に導いてくれるという意味であって、その名の通りこのお寺は、かつて京都の3大墓地と云われた化野、鳥辺野、蓮台野のひとつ蓮台野の入り口に建っている。
その後、千本鞍馬口バス停まで歩いた。
バスに乗って大徳寺前駅で降りて、大徳寺を見学した。
大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山である。京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭が立ち並び、近世寺院の雰囲気を残している。
(1)
大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。全員の記念撮影をし、13時を過ぎ、お腹の方も空いてきたので、キタオオジタウンで腹ごしらえをした後、ここで解散した。
(世話役)

  
西陣会館に向かって歩く


西陣会館
  

着物ショー


大報恩寺(千本釈迦堂)1

  
大報恩寺(千本釈迦堂)2


釘抜き地蔵 1

  
釘抜き地蔵 2


引接寺(千本えんま堂)本堂

  
大徳寺(山門)

          
大徳寺で記念撮影



第42回「街かどみて歩き」報告

2016年10月31日 | 街かどみて歩き
◆実施日:2016年10月28日(金)
◆行き先:大阪: 木津川渡船、船町渡船、千本松渡船
◆参加者:16名(男性:10名、女性:6名)

◆実施内容
今回は、今年4月実施した渡船めぐりで残った木津川、船町、千本松の3つの渡船めぐりをした。
最初は木津川渡船場へ行くので、集合場所をニュートラム(南港ポートタウン線)の平林駅改札口前とし、9時50分に参加者16名が集合した。
山岸代表より、今日の巡回先の概略説明を受け、木津川渡船場へと向かった。
木津川渡船は、木津川の河口にある渡船で、新木津川大橋の真下を進んでいる。
以前はカーフェリーが運航していたが、1973年(昭48年)に上流に千本松大橋が開通したことで役目を終え、翌74年(昭49年)からは人と自転車を運ぶ渡船となったとの事である。
下船して次の渡船に乗るため、船橋渡船場に向かって歩いた。
船橋渡は航路が60mと短い渡船である。川幅が短いので昭和20年から昭和30年頃にかけては、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していたそうである。
下船して、今日最後の千本松渡船場に行くため、鶴町一丁目バス停に行き、バスに乗って大運橋通で下車した。ここで、丁度昼になったので山岸代表推奨の食堂に入り昼食にした。お腹を満腹にして、千本松渡船場に向かって歩いた。
昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止されることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も通勤通学の貴重な足として利用されているとの事である。
これで、4月に行った①天保山②甚兵衛③千歳④落合下⑤落合上の渡船に加えて⑧つの渡船を征服し、本日の「街かどみて歩き」を終了した。
前日から雨の予報で、実施が心配されたが、少し雨がぱらつく程度で幸いであった。
(写真、報告分:世話役)




山岸代表の今日の概略説明


木津川渡船場に向かって出発


木津川渡船場


我々が乗る渡船がやってきた


船町渡船場


千本松渡船場


千本松渡船から見た千本松大橋


千本松渡船場で記念撮影



第41回「街かどみて歩き」報告

2016年06月27日 | 街かどみて歩き
◆実施日:2016年6月24日(金)
◆行き先:大津市「比叡山門前町.坂本」
◆参加者:男性16名(男性:10名、女性:6名)
◆実施内容
今回は琵琶湖の畔、JR湖西線の「比叡山坂本駅」に参加者16名集合、ボランティアガイド(2名)の紹介後、駅前の坂本町の立て看板の図面を見ながら、見学先の概略説明を受けた。
まず最初の見学先の、旧竹林院にて由来の説明を受けた。
旧竹林院は、比叡山延暦寺の門前町として栄えた坂本に点在する里坊(高僧の隠居所)のひとつである。邸内には、地形を利用した滝組と築山を配した広さ約3,300平方メートルの庭園が広がり、主屋をはじめ2棟の茶室や四阿(あずまや)などが配置されています。茶室と四阿は大正年間に建てられたものとされ、平成5年3月大津市指定文化財に、庭園は平成10年12月国の名勝に指定されたそうである。
以前は、1階の畳の部屋から綺麗な庭を眺めるだけであったが、耐震工事が施されその工事が平成26年9月に完了したので、2階から庭園の眺望を楽しむことが出来た。
坂本は穴大衆(あのうしゅう)と呼ばれる延暦寺の土木工事を担った人々の出身地でもあり、自然石を加工もせず積み上げた石垣が至る所で見られる。
日吉大社に向かう。
日吉大社は、全国に2000社ある日吉・日枝・山王神社の総本山である。
社名の「日吉」は、かっては「ひえ」と読んだが、第二次大戦後は「ひよし」を正式の読みとし、日枝の山(ひえのやま)とは、後の比叡山であるとの事とある。
平安京遷都の折には、この地が都の表鬼門(北東)にあたるところから、都の魔除去・災難除を祈る社として、天台宗の護法神として崇敬を受け、今日に至っているそうである。
「見ざる、言わざる、聞かざる」は、日光東照宮で有名であるが、この三猿の話はもともと、比叡山の中興の祖と言われている良源の処世術から生まれたそうである。
人間は数多くの邪険を有するが、そういった悪い心を「思わざる」ことが、最も大切であると、良源は諭している。
次いで、滋賀院門跡跡へと行く。
滋賀院門跡は、江戸時代まで天台座主となった皇族代々の居所であったため格式が高く、 石垣(穴太衆積み)と白壁は、とても背が高い。 延暦寺の本坊らしい堂々とした外構で、気品が高く、障壁画を数多く見る事が出来たが、室内は撮影禁止であった。
ここで、一度も消えたことがない「不滅の法灯」と言うお灯明がある。毎朝夕に燃料の菜種油を絶やさないように僧侶が注ぎ足し続けているそうだが、気を抜くと燃料が断たれて火が消えてしまう。「油断」や「油断大敵」は、
(1)
ここから出た言葉であると説明を受けた。
12時を回って、最後に300年続く老舗の「鶴喜そば」で、ぶっかけ定食(冷)を食べて、解散した。
見学中は天候も良かったが、最後の昼食場所の「鶴喜そば」向かう時になって、雨がひどくなり、傘を差さなければならなくなり、40回雨無しで続いた「街かどみて歩き」に終止符を打った。
(報告分、写真:世話役)


ボランティアガイドさん今日の概略説明

      
坂本市の概略マップ

 
竹林院入り口


竹林院の庭(1)

  
竹林院の庭(2)

           
めずらしい三角が乗った鳥居

  
神猿(日吉大社)

          
西本宮楼門(日吉大社)

  
自然石を加工せず積み上げた石垣


        
滋賀院門跡

  
滋賀院門跡で記念撮影

        
「鶴喜そば」で昼食


第40回「街かどみて歩き」

2016年05月30日 | 街かどみて歩き
◆実施日:2016年5月27日(金)
◆行き先:伊勢街道の宿場で大宇陀への玄関口榛原の街散策
◆参加者:10名(男性:6名、女性:4名)  
◆実施内容
近鉄大阪線榛原駅に午前10時参加者10名集合、先ず山岸「街かどみて歩き」代表より今日のボランティアガイドガイド(田中)さんの紹介があり、田中さんから今日の見学概略説明の後、最初の見学地へと出発した。
昔懐かし「やまと座」と看板のかかった大衆演劇場の前に着いた。殆ど毎日開園されている様で、当日の催し物の演題が掲げられている。場内を見せてもらって次ぎへと向かった。
近鉄大阪線のガード下をくぐる時、ガイドの田中さんが足を止めた。ガード下のコンクリート足下駄の側面に、数個の銃弾の跡が残っている。この弾痕を後世に残したいと田中さんは5年前から案内板の設置を市に要望して、ようやく昨年3月に設置されたそうである。
国学者本居宣長が宿泊したという旧旅籠「あ婦らや」に行き、家に入り、階段を上って2階も見学した。「あぶらや」の「ぶ」が「婦」となっている漢字になってるところが面白い。
ここは、「伊勢本街道」と「伊勢街道」(あお越え道)の分岐として賑わった宿場町の名残を残している。そばに「右いせ本かい道」、「左あおこえ道」の石塔が建っている。
次いで、宗祐寺に行き寺に入って座り、住職より寺の来歴について説明を受けた。
織田信長の家臣服部宗祐が入寺し、私財を抛って当山の堂坊を再建した。信長の命によって宗祐寺と号した様である。聖徳太子の開基と云われ金の御紋が目についた。
大阪と奈良にしかない融通念仏宗のお寺として有名。
あちこち古い街並みを見学しながら橋を渡り、赤色を基調とし背後の向井山の緑との調和のとれた美しい墨坂神社に行った。
霊験あらたかなるご神水を家庭の神前又は先祖様へ供えなさいとある。
ここから、鳥居の後方に山が3つ見える。それが丁度「山」の字に見えるので、「山」の字の起源は、ここだとの説もあるそうである。
この鳥居、山をバックに記念撮影を行い、榛原駅近くの「寿司屋」に行って、今回の「街かどみて歩き」を終了した。
振り返ると、第1回の「街かどみて歩き」(奈良市内めぐり、2012年5月14日)を皮切りに、今回で40回を実施した。
自慢は、1回も雨に降られた事が無い事である。今回こそ、数日前からの予報で雨を覚悟したが、幸いにも朝方は曇りであったが、すぐに日が差し始め、雨知らずの会を続けている。
(報告分、写真:世話役、集合写真:中村 直行さん)
 
 ボランティアガイドの田中さん紹介


大衆演劇場「やまと座」


 
 大衆演劇場の座席と花道


 機銃掃射の弾痕跡と案内板

 
 旅籠 「あ婦らや」


 表示塔


 宗祐寺

              
 ご住職の説明


 
 墨坂神社
             

「山」の字の発祥地?

        
 
 すし屋「みーちゃん」


 鳥居、山をバックに記念撮影