岸本年史コラム

短評、報告など

医療法人向聖台會當麻病院新棟竣工式祝辞

2022年09月17日 | コラム
医療法人向聖台会當麻病院の皆様新病棟の竣工おめでとうございます
私は昨年の3月まで奈良県立医科大学におりまして教授を務めさせていただいておりました。私は同大学の卒業で、前任の井川玄朗教授に入局し、當麻病院院長の菊池厚先生と机を並べたこともございますし、現在診療部長の上田昇太郎先生は同門で私の優秀な教え子であります。私の恩師井川玄朗先生は昭和52年に慈恵医大の助教授から奈良医大に赴任されました。昭和40年代の大学紛争が奈良医大精神科では当時先鋭化し、教授、助教授、講師と退職され単位認定の試験ができなくなり、学生を卒業させることができないという事態に至りました。学長梅垣健三先生が母校慈恵医大の精神科教授新福尚武先生にお願いし井川先生に2月に来ていただき卒業試験をしていただき3月に第6学年学生が卒業できたのであります。その4月の国家試験の奈良医大の合格率は50%台と散々なものでした。精神科医局も大変な状況にあったことは想像に難くないでしょうが、それ以上のものでありました。その時に助けていただいたのが、向聖台會當麻病院創設者菊池正先生でした。菊池正先生は九州大学の中脩三先生門下であり、恩師井川玄朗先生は九州大学御卒業ですが、インターン終了時中脩三先生が大阪市立大学精神科におられたことから大阪市大に入局され、同大で菊池正先生とご一緒に勤務されたこともあり、菊池正先生には援助していただきました。中脩三先生の県医師会でのご講演の後、中先生、菊池先生、井川先生らの歓談されているお写真を見たことがあります。また電気けいれん療法は、現在ではうつ病の治療に有効なことはよく知られており、慶應大学や奈良医大などでも難治性うつ病の治療に用いられておりますが、井川先生が赴任当時はその機器、当時木箱と言いましたが、そのものが医局では破棄されておりました。そこでその医療機器を菊池正先生にお願いし當麻病院から借り受け、そのままもらい受けたと聞いております。このように教室大変な時に、菊池正先生、當麻病院にはずいぶんお世話になってきております。改めて御礼を申し上げます。
 菊池氏は、肥後国菊池郡に住んでいた太宰少監(しょうげん)藤原則隆を祖先とし、律令制、南北朝をへて、戦国時代に各地に分散した一統であります。菊池家は代々豊前小倉藩小笠原家藩医を務められたお家柄で、現在も本家は豊前市千束で医家をお勤めであります。縁あってこの大和の地當麻で昭和34年(1959年)に當麻病院を創設され、当初から開放病棟で運営され、また平成2年(1990年)には精神障害者社会復帰施設援護寮二上寮を奈良県で最初に開かれるなど、患者さんに寄り添った医療を展開継続されてきております。菊池正先生、奥様の奈那重先生ご逝去の後も、マタイ伝に「すべての良い木はよい実を結ぶ」とあります通り、ご長女の薫先生をはじめご家族で職員とともに献身的に尽くされています。向聖台会當麻病院の理念は「愛」であります。これはカソリックの教えによるところが大きいとは思いますが、この困難な時代において人類共通の必要としている理念であろうと思います。この當麻病院が「緑・光・風」をコンセプトに患者さんのプライバシーを重視し、全室個室で患者さんの症状に合わせるよう工夫された新病棟を竣工なった。奈良県でご一緒に仕事をさせていただき、患者さんやそのご家族・地域に奉仕しているわれわれにとりましても、また地域にとりましても大変な慶事でございます。神や菊池正先生奈那重先生のお恵み、ご加護のもと、向聖台会當麻病院、また菊池家の益々の発展を祈念しまして私のご挨拶といたします。

大阪観世会「江口」

2022年09月10日 | コラム
今日令和4年9月10日は中秋の名月で庭に出ると雲も晴れて美しい満月が拝め、虫の音とともに秋の静けさを実感させてくれる。大槻能楽堂に13時開演の大阪観世会を観に伺った。私の観世の先生から、家元がみえるので是非にと勧められて寄せていただいた。
私の先生の山本博通先生の仕舞、人間国宝の大槻文蔵先生の舞囃子、梅若実先生の一調などがあり、狂言の「魚説教」ののち観世清和お家元がシテを勤められる「江口」が始まった。頃は月の美しい秋、流れの川面にある屋形船の舟遊びもある優美な曲である。
 都の僧一行が、天王寺をはじめ西国行脚に出かけ、淀川を下ったところの摂津国江口の里を訪れる。江口は水上交通の要所で娼館が立ち並んでいたという旧跡に感慨にふけっていると、西行の泊りの乞いを断ったという江口の遊女の亡霊を僧が弔っていると、秋のつき冴えわたる川面に舟を浮かべて遊女たちが現れ、遊女は普賢菩薩になり、舟は白象に変じ、菩薩は象に乗り西の空に行ってしまわれた。
 2時間以上にわたる曲で、大つづみ、小鼓の音がさえわたり美しい。お家元の序の舞は動きは優美にあるものの体幹は少しも動ぜず至芸とはこのようなものかと思った。博多は西中洲の御鮨屋、亀松のご主人菊地正大将が賞賛している人であることも納得できた。シンプルな舞台の誂えからその舟遊びや、幻想的な風景や遊女の変身などの清麗高雅を思い浮かべるのが鑑賞法なのであろうが、私はその域には達しておらず、直接的であって、声の、笛の、鼓の音とその響きに感じるところがあった。また、おそらく江戸時代と全く同じ時間を当時の人々と同じ時間の流れを過ごすという体験をしているのだなと舞台を観ながら感じる自分もあった。幽玄に接することのできた幸せな時間であった。ただ、1分にも満たないであろうがその静寂の中で私の後ろの女性が飴をなめるのであろうか音を立てるのには驚かされた。
 

大澤安秀先生を偲んで

2020年09月05日 | コラム
私は観世流の謡をしているが、次のお稽古は「杜若(かきつばた)」である。杜若の謡本を本棚から取り出してみている、刷り・発行は昭和55年(1980年)とある。この本も、今日、やってきた「船弁慶」の謡本も大澤安秀先生からいただいた謡本のうちのひとつである。船弁慶の本のそれは昭和48年(1978年)とある。

いつの日だったか忘れたが、谷町4丁目の徳井町にある山本能楽堂に、大澤先生に「三山(みつやま)」という演目を観に連れてもらった。香久山、耳成山、畝傍山の大和三山を擬人化し、恋のさや当てをする曲で、私がなじみやすいからとの先生のご配慮であった。能楽を習うことを先生から勧められたときに、私が「退官してから」と申し上げたところ、50代で始めた方が良いといわれ、なんとか59歳の時から始めた。当初のお稽古の先生は、山本勝一(まさかず)先生で、なんと大澤先生が習われていた同じ先生で、85歳を過ぎてらっしゃった。観世流山本職分家の先代の当主で、山本能楽会の会長をお務めであった。通例は、どなたかの先生に教えていただいて基礎を積んでから勝一先生に習うのだが、初歩の「鶴亀」から習った。ちなみに私が最後の弟子である。「小学校1年生みたいに、本、読んでるのとちゃう」と叱責されるようにお稽古は厳しく、一つの音ができないとできるまで何度もやり直しをさされた。88歳の時に早朝自分で舞いの練習をされた後に、舞台から下りられるときに大腿骨を骨折された。そのままお稽古を夕方まで正座してお続けになり、夕方になって初めて痛いと訴えられ、急遽大手前病院に入院、そこで手術をうけられて、リハビリののち歩いて帰られた。大手前病院整形外科は奈良医大の関連で親しく伺ったが、主治医によると歩いて帰られたのはこの年齢の方では初めてだと聞いた。普段の研鑽が大切なのと、プロは違うなと感じた。大澤先生によると、能楽師の舞台は年を経てからの方が良いといわれていた。精神科医に通じるものがあるのかと思ったことがある。

大澤先生は、1919年の東京のお生まれで、佐倉藩士のお家柄である。青山墓地に大澤家の墓がある。4歳の時に関東大震災に遭われて、とても怖かったと言われていた。昭和初めの大不況で、お父上のお勤めの銀行が倒産し、慶応時代の先輩の縁故で、神戸岡崎銀行(のちの神戸銀行)にお勤めになり、西宮に来られた。北野中学、旧制大阪高等学校から大阪帝国大学に進まれたわけだが、高校時代に結核を患われ、工学部をやめて医学部に進まれた。結核(当時は肺浸潤といったといわれてたが)のために、高等学校と医学部で併せて2年遅れたそうである。精神科医になられたのも、身体を悪くしてようやく卒業したので、身体に負担の少ない診療科だったからだといわれた。1945年にご卒業後、阪大に入局され、4年おられて和医大に赴任された。阪大の堀見太郎教授がペニシリンショックで急逝され、金子仁郎教授が奈良医大から阪大に赴任されたので、1956年12月に奈良医大の教授に38歳で

着任された。教員歴が10年以上という条件を満たせるのが自分しかいなかったからだと謙虚にいわれていた。1965年7月1日付で和医大に赴任されるが、先生の奈良医大時代は、高度経済成長期に当たるとともに、精神科治療に向精神薬が導入され、教室も精神科医療自体も順調に発展した時代である。また教室は神経精神科と標榜しており、神経疾患もたくさん診られたといわれていた。特に吉野の奥に集団的・家族的に神経疾患が発症したといわれていた。小学生のかわいい女児がランドリー麻痺、脊髄麻痺が下から上へと上がって遂に呼吸麻痺に至る病気で、阪大に一台「鉄の肺」という機械的に呼吸をさせる器械があり、そこに行けば助かるという一縷の望みもあったが、他の患者が使っていてそれもかなわず、何もできなかったこと、また伝染病棟(跡地に現在の精神医療センターがある)で日本脳炎の予防注射がなかったこともあり日本脳炎で産婦人科の前山昌男教授の中学生のお嬢様がなくなられたこともつらい思い出だといわれていた。もっとも嬉しかったことは、1959年に皇太子殿下と美智子様がご結婚のご報告に橿原神宮にお越しになり、その奈良への帰りに病院の前をお通りになるとのことで、行幸の際は精神科の患者さんは外出も外泊も警察から禁止されていたが、入院中の患者さんが、お迎えに行きたいと言うので粘り強く警察と交渉されて、職員が第一列、患者さんたちが第二列以下でよろしいと許可がでて、病院のそばの沿道でお迎えでき、皆が大変喜んだことだとおっしゃっていた。

先生はシニカルなところというか本質を見てらっしゃるところがあり、大学紛争については、毛沢東思想などの時代背景もあるが、経済が順調で学生が紛争の当事者になっても就職の心配がなかったことをあげられていた。昭和の大不況や戦争の時代を生きてこられたこともあって、国の財政についても消費税を上げて子孫に負担を残してはならないと言われていた。このコロナの状況ではどのようにおっしゃるだろうか。

教室60周年の記念誌で、私がインタビューさせていただいた。精神科医を志す医師へのメッセージをいただいたので、それを記念誌から転載して、追悼文としたい。御指導有り難うございました。合掌。

1~2年は一生懸命臨床してください。そして看護婦さんが一番、患者さんの状態をよくわかっていますから、看護婦さんの話をよく聞いてほしいと思います。それから患者さんとよく話をすることです。医師になって3~5年もすると、初心を忘れて天狗になっていきます。それが一番いけません。私自身がそうでした。診療は3~4年も経てばできるようになりますが、親身になって患者さんのことを考えることのできる精神科医になるには10年以上かかるのではないでしょうか。ですから、慢心せずに謙虚に学ぶ姿勢を失わないでください。

また、年を取ってくると、患者さんを診るのが恐くなってくるようになります。若い時は何も考えず、「ただ病気だけ治せばよい」と思うのですが、年を取ると患者さんの将来、たとえば結婚や就職、再発の可能性まで心配してしまい、自信がなくなってくるのです。また、同じ場所で長いこと診療していると、患者さんのお子さんを診る機会も出てきます。患者さんは、それこそ生涯にわたって相談できるかかりつけ医を求めていると思いますので、そうしたニーズに応えることも大切です。

それから、医師も一度病院に入院して治療を受ける側になってみることも大切だと思います。患者さんの置かれている立場になって考えることが大切だからです。最近、私は鼠蹊ヘルニアで入院したのですが、入院患者というものは寂しいものです。特に夜が寂しいです。医師や看護師の態度が気になったり、詰所の様子が気になったりします。例えば、夜眠れないときに詰所から笑い声が聞こえてくると、無性に腹が立ちます。自分で患者を体験してみれば、そのことが分かると思います。

”牛島定信先生の傘寿をお祝いする会”にて

2019年07月20日 | コラム
牛島定信先生、奥様、この度は誠におめでとうございます。また繁田雅弘先生、中村吉伸先生を始め、慈恵医大精神医学教室の皆様、誠におめでとうございます。

 私は、公私ともども牛島先生にお世話になっておりますが、私の教室、奈良医大精神医学教室も慈恵医大精神医学教室には大変お世話になっております。古い話で恐縮ですが、1970年代に奈良医大は精神科を中心とする大学紛争で混乱状態が続いておりました。遂に1979年には教室の教授、助教授、講師が全て退職し、卒業試験が出来ないという状況でした。当時の学長代行であった慈恵医大ご出身の梅垣健三先生が、母校の新福尚武教授にお願いして、慈恵の助教授であった井川玄朗先生に2月に赴任して頂き、卒業試験を行うことが出来、その3月の卒業式も行うことが出来ました。潰滅的な状況であった教室に、山根隆先生、杉原克比古先生、新貝憲利先生、山岡一衛先生らの先生方に慈恵医大からお越し頂き、教室を支えて頂きました。現在の奈良医大精神医学教室の礎を作って頂いたご恩を本当に有難く思っております。
したがって私共の教室は慈恵医大の流れを汲み、「病気を診ずして病人を診よ」。つまり患者を病に悩むひとりの人間、またその家族を診るという、臨床を大切にする文化を継承しております。

牛島先生のお人柄について3つのことを申し上げたいと思います。
 1つは、私からお願いして先生にはこころよく、ここ10年近く、当初は2ヶ月に一度、現在は3ヶ月に一度、奈良医大のケースカンファレンスに来て頂いております。後期研修医や大学院生が担当している患者に私が1時間程度インタビューをし、その後牛島先生に直接インタビューして頂きます。先生は対人関係や生活歴などのポイントを適確にお聴き取りになり、私共に教えて頂けます。
先生は精神分析の大家ですが、難しい精神力動的な解釈でなく、この患者にどのように対応援助するかを薬物療法も含めて具体的に教えて頂けます。先生の精神医学の深く広い知識と経験に基づいた臨床力に敬服するとともに、われわれにその技術を伝えようとされる使命感に感銘を受けるとともに感謝しております。
 2つ目は、牛島先生は現在もクリニックで患者を診ていらっしゃいますが、全ての患者にご自分の携帯電話の番号をお伝えしていらっしゃるとのことで、先生から伺った際は驚きました。助けを求める患者から電話がかかってきた時には、「よく電話をかけてこれたね。それがいいんだよ」とその行為をコーピングとしてほめるとのことでした。患者に安心感を与えるとともに患者の成長に付き合うという暖かい真摯な姿勢をとってらっしゃいます。私は見習いたいと思いました。
 3つ目は、先生は精神分析学による人間理解により、さらに森田療法を発展させられたと拝察しておりますが、ご自身でも森田療法を実践されているのではないかと私は、内心思っています。外面でもって内面を治すと申しますが、いつも笑顔で暖かく包んでいただけます。正に人格の陶冶の域に到っておられると思っております。

以上、牛島先生について3つのことを申し上げましたが、先生にはどうぞご健康に留意されて、精神医学の泰斗、大先達として、われわれ後輩精神科医をなお一層ご指導頂きますことをお願い申し上げて、私のご挨拶と致します。

(「牛島定信先生の傘寿をお祝いする会」学士会館 2019/7/20)

鵜飼聡先生、和歌山県立医科大学教授就任祝賀会挨拶

2017年09月23日 | コラム
鵜飼聡先生、教室関係者の皆様、この度は教授ご就任誠におめでとうございます。
鵜飼先生は、木村潔教授、大澤安秀教授、東雄司教授、吉益文夫教授、篠崎和弘教授に続き第6代目の主任教授であられます。第2代の大澤教授が、私共の教室から赴任されておりますし、また私が入局した当時の教授は、和医大が東教授、奈良医大が井川玄朗教授で、大変親しくしていただき、十津川や龍神温泉で合同の勉強会や野球の対抗戦などをさせて頂き、そのあとカラオケや麻雀に興じたことを懐かしく思い出します。
さて、先程和歌山城に登りまして、その展示コーナーの一角に和歌山の偉人・先達の人々のパネルがありました。鎌倉時代初期の方には和歌山有田出身の明恵上人があります。明恵上人は南都仏教の華厳宗の改革を進められました。幕府の執権北条泰時も私淑し、当時聖人として大変尊敬された方です。私達精神科医にとりましては、19歳の時より入寂の前年迄40年に亘って自ら見た夢を記録された「夢記(ゆめのき)」でご案内の方も多いと思います。女性にも美丈夫として大変人気のあった方で、京都栂尾の高山寺の大変有名な絵「明恵上人樹上座禅像」を見ると確かにハンサムな方です。実は鵜飼教授とお顔が似てらっしゃると思うのです。
明恵上人は「阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)」を修行の上で大切にされていたようです。遺訓に「人は阿留辺幾夜宇和の七文字を保つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此のあるべき様に背く故に、一切悪しきなり」とおっしゃっています。白洲正子によりますと、菩提心に発した易(い)行(ぎょう)を大衆に向ってわかりやすく説いたものだとしています。
この「阿留辺幾夜宇和」は、私には、人間、動物、植物までも、それなりの生き方があると捉えます。人は能力や環境は等しくないけれど、等しく懸命に生きることができるという意味であります。精神障害、知的障害があっても自己実現できるということです。
和歌山には障碍者のリハビリテーション「麦の郷」がございます。百渓陽三先生を始めとする和医大の精神科の先生たちが礎をつくられてきたと伺っております。障碍者の自己実現を実践してきた和歌山県の風土の背景には明恵上人の訓へがあろうと思っております。
教授職は大変な重職でございまして、修業に近いものがあります。どうぞ、ご健康に留意の上、患者さんや家族の、教室員とその家族の、自己実現のために、そして教室の発展と和歌山県、日本及び世界の精神医学の発展に寄与されることを期待しております。
教室関係者の皆様におかれましては、益々のご支援をお願い申し上げまして、私のご挨拶と致します。

(平成29年9月23日鵜飼教授就任祝賀会/ダイワロイネットホテル和歌山)

わたしを変えた患者さん 統合失調症の捉え方が変わった! 30年前の精神科医5年目のエピソード(田辺三菱製薬medical view point)

2016年09月01日 | コラム
精神科医療は、教科書通りにいかないと痛感させられることも多いことと思います。今から約30年前、わたしが精神科医5年目ごろに主治医として診療した患者さんにまつわる経験と、そこから学んだことを共有させていただきます。
初診時、患者さん情報
30歳代前半女性

統合失調症。19歳で初発、数回の入院歴があり、外来治療を継続していましたが、悪化したため、再度入院となりました。主訴に「目が痛い、目にタヌキがいる」など幻覚症状。家族歴は、母親が神経症で睡眠薬を服用していました。入院に際して研修医で、副主治医となったのが最初の出会いです。

当時の診断・治療、その後

過去のカルテを調べたところ、Aさんが19歳のときに「心因反応」との病名がつけられており、完全寛解していました。その後入退院を繰り返し、幻覚・妄想を訴える状況となっていました。既に便秘薬を含めて多剤服用中でしたが、寛解を目指して抗精神病薬を増量し、治療強化をはかり、軽快して退院となりました。その後、当時の主治医が転勤となり、私が主治医となったのですが、やはり症状の再燃があり何度目かの再入院となったのです。

経過―D2受容体アップレギュレーションの可能性を考慮し、減量・断薬で症状悪化

30年前の私は、精神病症状、特に幻覚・妄想などの陽性症状はドパミン過剰により起こるのでD2受容体を確実に遮断すれば治まると信じていました。そこでD2受容体の選択的阻害剤を中心に薬物をさらに増量しました。病棟を昼食時に覗くと、Aさんが服用している薬剤の量は明らかに多くて、「薬でお腹がいっぱいになって、ご飯が食べられない」と、彼女は真顔で訴えました。私は、彼女に「ご飯だと思って飲んでください」といったものの、これは何とかしなければと思いました。「複数種類の薬剤の大量服用によるD2受容体アップレギュレーションがあり、断薬によりD2受容体をダウンレギュレーションさせる」との仮説を立て、徐々に減量し、断薬を試みました。
しかし、減量断薬後、さらに精神症状が悪化してしまい、隔離室に隔離となりましたが、睡眠薬と抗パーキンソン剤以外は投与せずに経過を見ておりました。全く眠らず24時間しゃべり続ける状況が続き、隔離室で様子を見たものの、この状態が3日間持続しました。ダウンレギュレーションする前に死ぬのではと直感しました。このため教科書に載っていた「急性致死性緊張病」に近い状態と判断し、危険な状況とみなし再度、抗精神病薬等による薬物治療を再開しました。こうした対応により、ある程度興奮は治まりましたが、寛解には至りませんでした。その後も何度か入退院を繰り返し、治療を継続することとなりました。
わたしはこの患者さんによって、初めて「ドパミン仮説だけでない」と気付いたのです。

その後-長く病むということ

Aさんについては、統合失調症にて入退院を繰り返していた状態にもかかわらず、実は過去に一度完全寛解に至っていた、という点にとても驚きました。だから、当時の仮説に従い、D2受容体を確実に遮断すれば治ると信じていたのです。また、5年間の精神科医をやって、「教科書通りに基本をおさえて治療に取り組めば、たいていの患者さんは治せる」と高慢でもあったと思います。「治らない患者さんもいる」ということを知り、そこが精神科医としての真のスタートだったと思います。また、この経験により、わたしは症候学が脳の病理とどう結びつくのかという点に深く興味を持ち、学問上のテーマが「慢性期の統合失調症」となりました。
私は、統合失調症の患者さんが好きです。というのは統合失調症は“良い人”になる病気のためです。機会があれば、そのこともお話させていただきたいと思っております。

統合失調症の捉え方や治療方針は、この20~30年で大きく変わりました。当時、統合失調症の治療は「ドパミン過剰仮説」が主流であり、幻覚・妄想はD2受容体を遮断することで取れると信じられていました。このため、例えば、幻覚・妄想を取るために十分な量を使用すれば、副作用として錐体外路症状が見られるのは当然のこと、と考えられていました。
多くの精神科医が、様々な統合失調症患者さんと出会い、それぞれの経験を積み、基礎・臨床の双方からのアプローチにより知見を重ねてきたことで、現在に至っています。現在の研修医の先生方が得ている経験は、わたしのそれとは全く異なるものだと思いますが、そのひとつひとつが、これからの精神科医療につながるものだと考えます。


「主体的学び」の重要性 天理よろづ相談所「憩の家」開設50周年祝賀会の祝辞

2016年05月01日 | コラム
真柱 中山善司様、理事長 横山一郎様、総長奥村秀弘先生をはじめ関係者のみなさま、天理よろづ相談所「憩の家」開設50周年誠におめでとうございます。心からお喜び申し上げます。奈良県下の基幹病院として地域医療に貢献されるとともに、高度先進医療を実践され、数多の人材を輩出し、日本の医療をリードされた来たことは、私たち奈良県民の誇りでもあります。また天理医療大学におきましては建学の理念「人に尽くすことを自らの喜びとする」のもとに、学長吉田修先生を先頭に素晴らしい教育を展開されていることにも敬意を表します。
 さて、我が国の高等教育において、「主体的学び」に焦点が当てられております。主体的学びにより、例えば東日本大震災、今回の熊本地震のような不測の事態への対応能力を涵養することができると考えられております。人類社会がグローバル化し多様性を増すほどに必要な資質であります。
 医学教育も最近は主体的学びを進めております。Early Exposureは早めに臨床の例に触れることで学びの意味を考える、つまり医学の学びの動機づけを図るものです。医学の急速な進歩により身に着けるべき知識は急速に増大しております。主体的に学ぶ、すなわち、患者さんから学び、考え、自ら解決方法を見つける、物事の本質を見出す姿勢は医学研究そのものでもあります。天理よろづ相談所病院におきましては、開設の時より、主体的学びを実践されてきたと考えます。このことが患者さんや患者さんの家族の抱える本質的な問題の解明に寄与してきたところは衆目の一致するところであります。
 これまで同様に天理よろづ相談所「憩の家」がますます発展され、人類の幸福のために尽くされますことを祈念いたしまして、わたくしのお祝いのご挨拶とされていただきます。

私の一冊 The Catcher in the Rye(邦題「ライ麦畑でつかまえて」) J.D. Salinger 日本医事新報

2016年03月26日 | コラム
欺瞞に満ちた大人に反発し、行き場のない孤独と怒りを裡(うち)に抱えた16歳の少年を描いた本作は、私が大学生だった70年代の若者の大きな共感を呼んだ。私は医学部でスポーツを熱心にやっていたときにこの本に出合ったが、全く共感できなかった。女子高生の間に私のファンクラブができていて、試合を黄色い声で応援してもらっていた。スポーツは私の密かな自信になっていた。だから主人公のホールデンとは全く真逆の健全すぎる屈託のない恵まれた学生で、彼の嫌いなタイプで、嫌なやつだったに違いない。
 精神科に入局した私は、同期に対して劣等感を覚えた。とにかくあまり患者の話を聞くのが得意でないのである。研修医のときに救命救急センターにローテートしていなければ外科系に転科していたかもしれない。以来私が精神科に向いてないな、と思うことは度々あった。
卒後20年に再びこの本に出合った。学生のときからの親友がSan Diegoに留学しており、12月に彼に会いに行った。その帰りの飛行機で読むように、彼が読んでいたペーパーバックをもらったのである。このときはじめて少年の心の純粋さを知り、その苦しみに共鳴できた。「ライ麦畑の崖に立ち、そこを駆けまわる子が落ちそうになったら僕がつかまえてやる。そういうものに僕はなりたいんだ」とホールデンは語る。落ちかけた子どもは彼自身の投影であろう。私の精神科医としての20年は自分の未熟さを痛感し、人間の持つ苦悩や性(さが)に向き合う日々だったかもしれない。それが精神科医としての私を成長させてくれたと思う。精神科医としての資質をそうして少しずつ身につけたことを、私のささやかな成長を、実感させてくれた大切な一冊である。
日本医事新報No.4796より転載

テロリズムから新しい専門医制度について思う     精神経誌. 118 (2): 63-63, 2016(巻頭言)

2016年02月01日 | コラム
2015年11月13日に、パリで同時多発テロ事件が起こり、フランスのオランド大統領は「フランスは戦争状態にある」と述べ、テロと戦うことを宣言した。新聞では大きく報じられていないが、トルコのアンカラでも死者が100人を超す大惨事のテロが10月10日に起こっている。1914年と似ている状態にあると危惧するのは私だけだろうか。1914年6月に、オーストリア皇太子夫妻がバルカン半島のサラエボで暗殺され、オーストリアは7月にセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦が勃発した。現代の中東問題につながる時代でもあり、大元をたどれば、ほぼ1世紀前、オスマン・トルコの瓦解と英仏列強による地形・人種・宗教をないがしろにした国境画定に行き着く。イギリスは1915年に、メッカの太守であるフサインと「フサイン・マクマホン協定」を結び、第1次大戦における対オスマン帝国戦協力を条件にアラブの独立国家の建設支持を約束したが、反故にしている。つまり同時に1916年のに結んだ「サイクス・ピコ協定」で、イギリスはアラブを裏切り、イギリス、フランス、ロシアでオスマン帝国の領土を分割し、それぞれが支配することを決めた。第2次世界大戦後にの独立したするまでシリア・レバノンはフランスが、イラク・ヨルダン・パレスティナはイギリスが統治した。解決の目途が立っていない「パレスティナ問題」も、その発端はイギリスが行ったもう一つの外交政策である「バルフォア宣言」にある。ロックフェラー財閥の資金援助をうけ、1917年のバルフォア宣言で、「パレスティナにユダヤ人のふるさとを建設することを支援する」と約束したため、第2次世界大戦後イスラエル建国、中東戦争が起こっている。これらにより、クルド人はトルコ・イラク・イラン・アルメニアに分断されたクルド人問題、イスラエル建国によりパレエスティナ問題という二つの大きな民族問題が生じた。19世紀の民族自決・主権国家という近代ヨーロッパの作った概念により、ユダヤ人は差別され、第2次大戦中には、ナチスドイツによる大虐殺があり、多くのユダヤ人が悲願の独立国家に入植した経緯があった。21世紀のISIL(イラン・レバントのイスラム国)の誕生も、アンチテーゼとしてあるのではなかろうか。
 さて、機構認定の新専門医制度である。この制度は「プロフェッショナルオートノミー」に基づいて中立的な第3者機関(日本専門医認定機構)が運営する。このプロフェッショナルオートノミーは、現在の問題とも無関係ではない。ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルク裁判でユダヤ民族の抹殺と医学実験という医学の犯罪が顕になった。ナチスはアーリア人種以外を動物とみなして医学実験を行っていた。この状況を直視したのが1947年のニュールンベルクコードであり、これを契機に世界医師会(WMA)が結成された。WMAは、ナチスドイツの大虐殺に多数の医師が関与していたことから、医の倫理を発表し、各国の医師会にプロフェッショナルオートノミーを推奨してきた。わが国においても他人ごとではなくい。日中戦争から1945年の終戦まで人道に反する医学医療実験を行っていたが行われていた。1951年に日本とドイツは、医学犯罪を謝罪してWMAに加盟することが許された。このプロフェッショナルオートノミーは、1987年のWPAマドリッド宣言から汎用されている。プロフェッショナルオートノミーは、医師専門職としての自律であり、端的に言うと、患者・医師以外の国や製薬企業などの外部による規制を受ずうけず、また自らも自律し積極的に行動することである。さらにその自律は唯我独尊的なものであってはならないのは当然であろう。
 新しい専門医制度が患者や医師の自律を妨げることのないように作り上げることが必要である。医師主導の職業規範のシステム、すなわち専門医制度は、法令のように外部から規制を受けるものであってはならず、私利的内部保護的であってはならず、公平合理的な透明性を備えたものであるべきである。新しい専門医制度においても、が、われわれにとって患者の生活の場面を意識しながら日常臨床や研究にを励み進めることができるようになってほしいとことを切に願いう、またそうなるように努力したい。

菊花と不老不死 (日本医事新報「炉辺閑話」)

2016年01月02日 | コラム
私はゴルフを趣味としており、菊薫る季節にはゴルフ場の玄関や東屋に会員の丹精込めて作られた小菊や大輪の菊が美しく飾られている。菊の花言葉は「高貴」「高潔」である。源氏物語で菊の出てくる場面は、「紅葉賀(もみじのが)」の巻、朱雀院の行幸の日、18歳の光源氏が青海波(せいかいは)を舞うところである。二人舞の相手は左大臣家の頭の中将(とうのちゅうじょう)だった。源氏の冠にかざしていた飾りの紅葉が散り、頭の中将が庭前の白い菊を手折って差し替えてさしあげる。その菊が霜や露にあたり紫色が染み出したものだったので、いっそう美しく源氏を引き立てる。舞姿は素晴らしく、帝は涙をぬぐい、上達部や親王たちは落涙する。平安時代はまだ大輪の菊はなかったので小菊であろうが、小菊のほうがこの場面にふさわしい。
 菊の紫は、菊の花弁の細胞内の液胞に含まれていたアントシアニンが白露のために発色したのである。平安貴族は菊の移ろい儚さをも雅としていたのだ。菊は中国から輸入されたものであるが、中国では不老不死の妙薬である。能楽の「菊慈童」では、魏の文帝の勅使が不老不死の薬の水を求めて酈縣(れっけん)山に奥深く入り人倫通わぬようなところで、周の穆王(ぼくおう)の時代から魏の文帝の時代まで700年余を生きている童子に出会う。勅使はそのような人間が生きているはずはない化生のものだと怪しむが、童子は穆王から賜った枕に書かれている二句の法華経の偈があり、その二句のために菊の葉より滴る露が薬となり今まで生きてこられたと教え舞う。長寿を願い愛でる物語である。しかし不老不死になり狼の住むようなところで700年生きるとは皮肉であろう。確かに菱田春草の名品「菊慈童」の童子は紅葉の深山幽谷の中にあり、孤独弧愁を思う。スウィフトの「ガリバー旅行記」で、ガリバーは日本の次にラグナグ王国に立ち寄りストラルドブルグという不死の人に会う。彼は死ねないことほど辛いことはないという。この国の人たちは彼を見ているため長寿を望まないのである。長寿することが洋の東西を問わず幸福であると限らないのは永遠の真実であろう。医療に携わるものとして時に痛く思うのである。(週刊日本医事新報 No.4784)


ラグビーワールドカップ(W杯)のイングランド大会

2015年10月07日 | コラム
ジャージーの 汗滲むボール 横抱きに 吾駆けぬけよ 吾の男よ
                   佐々木幸綱

ラグビーの試合の最中、汗の滲む皮のラグビーボールを横抱きにして、突進せよ、そのように自分の中の逞しい純粋な自分も矛盾や雑念をかかえた私の中を駆け抜けよ。
という歌の意味です、この一首の作者は歌人で早稲田大学教授であった佐々木幸綱です。NHKの教育テレビのチャンネルで、短歌入門の講師をされていたこともあるのでご存知の方もおられるでしょう。祖父、父上も歌人で、特に祖父の佐々木信綱は文化勲章を1937年に受けています。私の祖父は私が生まれる前に亡くなっておりますが、彼の本棚には、彼の祖父の「短歌入門」(1931年)の本があったのを記憶しております。
 さて、9月19日(日本時間の20日未明)、日本代表は優勝経験が2回ある南アフリカを34―32で破り、強豪相手に劇的な勝利を挙げました。南アはクリント・イーストウッドの映画「インビクタス/負けざる者たち」でも有名な優勝経験が2回あるチームですので、私は大敗を予想して翌日のゴルフに備えて寝ておりましたので、その試合はリアルタイムで見ておりません。しかし、20日の朝のテレビの数分のニュースでプレーを見て泣きました。私がスポーツを観て、泣いたのは過去に一度あり、今回は2度目です。1度目は1985年の21年ぶりの阪神の優勝の時です。前回の優勝は1964年、そののち巨人がV9を決めた甲子園での最終戦の大敗や最下位のあとの優勝でした。10月16日の神宮球場でのナイターで、ゲイルが打たれ試合は3-5のまま9回になり、掛布雅之のホームラン、岡田彰布の犠牲フライで同点に落ち着き、10回で5-5と引き分けて、優勝しました。私は信貴山病院の当直業務に入っており、医局でテレビをひとりで見ていて泣きました。
日本がW杯で勝つのは1991年大会のジンバブエ戦以来、南アが優勝した1995年には、ニュージーランドに17-145と歴史的大敗を喫したこともあります、それもあっての24年ぶりの南アからの勝利です。翌日月曜日の夜、院生らとの論文読み、いわゆるjournal clubのあと、新幹線のぞみで東京に向かいました。その車中、YouTubeで試合をみました。五郎丸がPGを決めて、3点を先制。南アのトライとゴールで逆転されます。ラインアウトからモールを押し込み、リーチがトライ、ゴールも決まり、10-7とリード、そのあと南アにトライを決められ、10-12でハーフタイム。後半は五郎丸のPG、トライとゴールで追いつき、再度逆転を許し、29-32、ジャパンは相手ゴールにボールを繋いで繋いで突進し、ロスタイムにペナルティを得て、PGを選択せずにスクラムを選択しボールを回して、ヘスケスが左コーナーポストぎりぎりにトライを決めて逆転し、劇的な勝利をものにしました。YouTubeはイアフォンで聞きながらラップトップで観ているのですが、のぞみの車中ですが、つい声を何度も上げてしまいます。のぞみの前の席のお客さんが振り返って私の顔を覗き込みます。YouTubeでも試合の途中からまた泣いておりました。
私は大学では体育会ラグビー部に所属し厳しい練習に勤しみました。私どもの教室にはラグビー部出身は前の医局長の洪基朝先生、助教の牧之段学先生やほかにもいらっしゃいます。またサッカーや軽音楽部など体育会や文化会の部活動を熱心にやってきた方が多いと存じております。みな医学部の勉強の傍らどちらが本業かわからないくらい熱心にやってきたと思います。冒頭の一首も、スポーツに取り組む青年の生命感が伝わってきます。これから何を得たのでしょうか。もちろんみなと一緒にやることにより協調性や忍耐力も身につけられたと思いますが、達成感、自己効力感が肝要だと私は思うのです。皆さんがこの忙しい日常の中で純粋な自分を奮い立たせてできるのはこの自己効力感に他なりません。
患者さんはセルフエスチームが低い方が多いですが、これは医療者から与えられるものではなくて自分で獲得しなければなりません。いわゆるリカバリーの過程、自己変容のプロセスですが、それには障害の受容もありますが、患者さん同士で患者さんの中で達成感や自己効力感を得られるように援助することが大切です。われわれがやっている盆踊りや運動会などの行事や日常の作業療法やレクリエーションでも、患者さんに何か役割を果たしてもらうということが地道で大切であると思っております。


中村祐香川大学教授開講10周年の祝辞

2015年04月11日 | コラム
中村祐教授、奥様また教室の皆様
開港10周年、まことにおめでとうございます
 先生が、私どもの奈良県立医科大学助教授から、亡き私の親友の栗山茂樹教授(消火器・神経内科学教室)や、本学の当時の学長吉田修先生のお弟子さんである、筧 善行教授(泌尿器科学)らのご縁で、香川大学教授に就任されて以来、奈良県立精神医学講座からは、永野龍司、石田剛士、永嶌朋久、前川忠廣、佐竹明など各先生が赴任し、勉強させていただきました。
 はや10年が過ぎたことが驚きであります。光陰矢のごとし、または、少年老い易く学成り難し、と申しますが、先生は他と違い、順調に教室を発展させられ、香川県の寄付講座として、地域連携精神医学講座に新野秀人教授を輩出され、また第28回日本老年精神医学会という大きな学会を会長として成功させられるなと、学成り難くでなく、順風満帆であることをお慶び申し上げます。
 先生は、現在幸福な人生を送られておりますが、この瞬間がとわに続くことを願うものであります。私は、精神科医として35年目になりますが、不幸な患者さんに出会った際に、ニーチェの永劫回帰について考えたことがございます。それは、その不幸まで受け容れて、人生をそっくりそのまま繰り返せるかという問いでありまして、瞬間と永遠について深い示唆にともものであります。
 ニーチェはドイツの哲学者で、プラトン以来の形而上学やキリスト教を基盤に形成されてきた西洋文化の総体を批判し、生きた自然を復権することによってその克服を企てた方であります。その方の言葉に、「人間の偉大さを言い表すための私の慣用の言葉はアモール・ファティ(運命愛)である。何事も、それが今あるあり方とは違ったありかたであれ思わぬこと、未来に対しても、過去に対しても、永遠全体にわたってけっして。(「「この人を見よ」」手塚富雄訳、岩波文庫、1969年)」、この言葉を先生に送り、つまり不断に努力され、ご自身、ご家族、教室、香川大学のために、そしてなによりも患者さんやそのご家族のために、また精神医学の発展のために、今まで同様の努力をお続けになることを祈念いたしまして、私のお祝いのご挨拶とさせていただきます。

初心忘るべからず

2015年04月01日 | コラム
是非の初心忘るべからず、時時(じじ)の初心忘るべからず、老後の初心忘るべからず
世阿弥「花鏡」奥段

能楽は古い歴史を持ちます。観阿弥が伊賀から出てきて、大和の結崎の地に結崎座を立てたのは14世紀半ば、観阿弥が京都の今熊野において催した猿楽において世阿弥が足利義満の目に留まったのは1375年とされていますから、それから640年になります。近鉄結崎駅から徒歩で20分ほどのところに観世流発祥の地として面塚(めんづか)があります。興福寺や春日大社の庇護を受けて大和には猿楽が四座あり、それが現在の能楽の、観世流、宝生流、金春流、金剛流の源流です。
 「初心忘るべからず」といえば、今日では、物事を始めた時の新鮮な気持ちを忘れてはならない、という意味でつかわれていますが、これは世阿弥のいった意味とは異なります。
「花鏡」にはこのようにあります。下記の通り、能の奥義はこの本にのべたそれぞれのこと、以上である、ではじまります。

 およそ、この一巻、条条巳上。この他の習い事あるべからず。ただ。能を知るより外のことなし。能を知る理(ことわり)をわきまへずは、この条条もいたづら事なるべし。(略)
 まず、師のいう事を深く信じて、心中に持つべし。師の云うとは、この一巻の条条を、よくよく覚して、定心(じょうしん)に覚えて、さて能の当座に至るとき、その条条をいたし心みて、その徳あらば、げにもと尊みて、いよいよ道を崇めて、年来の劫(こう)を積むを、能を智(し)る大用とするなり。一切芸道に、習い習い、覚し覚して、さて行う道あるべし。申楽(さるがく)も、習い覚して、さてその条条をことごとく行うべし。
 秘儀にいわく、能は、若年より老後まで習い徹(とを)るべし。老後まで習うとは、初心より、盛りに至りて、そのころの時分時分を習いて、(略)これを、老後に習うところと知るべし。
 然れば、当流に、萬能一徳の一句あり。
   初心忘るべからず
この句、3か条の、口伝あり。
   是非の初心忘するべからず。時時の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず。
この三、よくよく口伝すべし。
                 (日本古典文学大系65より、一部改略)
 世阿弥の初心は、若いころの未熟な芸だけでなく、年齢ごとの初めての境地を指しており、芸の向上を図るうえで、何事にも通用することだとし、3つに分けて説いています。「花鏡」の本文は省略しますが、まず、「是非の初心忘するべからず」といい、若いころの初心を忘れなければ、初心を忘れないと工夫する、忘れていれば、初心に帰る工夫をしなけばならない。それほど若い人には重要であるといいます。次に、「時時の初心忘るべからず」といい、年盛りから老後に至るまで、各段階で相応の芸曲に、その曲に応じて演ずることにより、それぞれの初めての境地を覚えていることにより、幅広い芸を学ぶことが可能になるといします。そして「老後の初心忘るべからず」といい、老後にさえふさわしい芸を学ぶ初心があり、それを忘れずに限りがない芸の向上を目指すことを説いています。
 精神医学は、能楽以上に歴史のある分野で、アートとサイエンスが求められますが、大切にしたい言葉だと思います。


焼け野の雉(きぎす)、夜の鶴

2015年03月11日 | コラム
旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子(わがこ)羽ぐくめ天の鶴群(擦ることになったあめのたずむら)
万葉集巻九・一七九一
斎藤茂吉の「万葉秀歌(岩波新書赤本)」にある歌です。「遣唐使随員の母」としかありません。茂吉によれば、この短歌の意は、私の一人子が、遠く唐に行って宿るだろう、その野原に霜が降ったら、天の群鶴よ、翼を以て蔽うて守りくれよ、とあります。この歌の「はぐくむ」は翼で蔽うて愛撫する意味ですが、転じて養育することとなったともあります。さて、「焼け野の雉(きぎす)、夜の鶴」といわれるように、雉は巣のある野を焼かれると自分の命にかえてもその子を救おうとし、鶴は霜の降る寒い夜、自分の翼で子を覆って守るといわれており、ともに子に寄せる情愛の深い鳥として知られています。
私がこの歌を思ったのは、2013年北海道を襲った猛吹雪の中、9才の娘さんを守って亡くなった父親のニュースでした。車の燃料がなくなり、友人宅まで歩いて行く途中の惨事で、父親の岡田幹男さんは暴風雪から我が子を守る為に一夜10時間ものあいだ娘の夏音さんをかばい抱いて体を温め続けました。その翌朝父は死亡し子は助かりました。わが子の命を救うためなら翼はなくとも人は雉にも鶴もにもなれるのです。
万葉秀歌には山上憶良の次の歌も紹介されています。
銀(しろがね)も金(くがね)も玉もなにせむにまされる宝子に如(し)かめやも
万葉集巻五・八〇三
教科書にも出てくるこの歌は、「子等を思う歌」一首(長歌反歌)を作り、この反歌は、金銀珠宝も所詮、この宝には及ばないというのですが、茂吉の評価は、新しい語感を持った言葉で以って堅苦しいほどに緊密な声調が良い点だが、長歌に比して劣るともしていますが、子を思う親の心はわれわれにもわかりやすいものです。
先日の川崎市の上村遼太君が亡くなった事件は悲惨な少年犯罪ですが、隠岐諸島の西之島から小学校6年の時に川崎市に越してきた少年は、母子家庭の長男として母に心配をかけないように、怪我を負わされても母には黙っていたことは想像に難くありません。上村少年はもちろんのこと、無力であった母の心中を思うと辛いものがあります。また犯人の少年たちに怒りを覚えるのは自然の感情であろうと思います。声高に少年法改正の声も聞こえてきます。少年たちは犯罪を行えばどうなるかという事に考えが及ばないために犯罪に及んでいる一面もあるので、少年法を厳罰化したところで犯罪を抑止する効果はありません。われわれが情緒的に反応しているのにすぎません。犯罪を起こす子供たちは幼さと無知からその行為に及ぶのですが、その行為の背景に被虐待が多いことも知られています。彼らは犯罪を償って出てきます。刑法をはじめとする法律は情緒的に流されず理性的に処理するために人間が生み出した知恵、システムともいえます。
2002年のフランス映画でベルギーのダルデンヌ兄弟の「Le Fils」(本邦での題は「息子のまなざし」)という映画は、映画史に残る珠玉の作品だと思っております。少年は、罪を償って出所し、職業訓練施設の指導員の先生を尊敬し、彼に自分の保証人になってほしいと頼みます。ところが彼は少年が殺した児童の父親であったのです。その指導員の葛藤は想像の及ばないものですが、映画は彼の行動をストーカーのように表現しています。彼ら二人の関係の結末はあらわされていませんが、彼が理性によって許すのではないかとの期待を抱かせるところで終わります。
精神を扱う仕事に従事するわれわれは、人間の可能性を信じ、憎むべき人間さえも受け容れることができるかということを自問しなくてはなりません。

過去に目を閉ざすものは

2015年02月04日 | コラム
「若い人たちにお願いしたい。ほかの人びとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることのないようにしていただきたい」(永井清彦訳)。2015年1月31日に死去されたワイツゼッカー元ドイツ大統領の演説にこうあります。いま再読しても、その切実さは増すばかりです。彼は東西ドイツ統一(1990年)を挟んで10年にわたって大統領を務めました。1985年のドイツが降伏した5月8日に連邦議会における、戦後40年に際した「荒れ野の40年」と称される演説であり、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目になります」の一説が特に有名です。「余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのが現実であります」とナチスの蛮行に目をつぶったことに触れ、ナチスの過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはいかにはいかない、われわれ全員が責任を引き受けなければならないと、訴えました。
 「荒れ野の40年」の表題は、旧約聖書から引用しているものであり、意味するところは深いものがあります。ワイツゼッカーは演説の中で次のように言及しています。「イスラエルの民は約束の地に入るまで、40年間荒れ野に留まっていなくてはなりませんでした(申命記・民数記)。しかし、ほかのところ(士師記)では、かつて身に受けた助け、救いは往々にして40年の間しか心に刻んでおくことができなかった、と記されております。心に刻んでおくことがなくなったとき、泰平は終わりを告げたのです」と。これは聖書の2つの事例に基づいています。1つは、イスラエルの民がモーゼに導かれて出エジプト(映画でも、「エクソダス:神と王」として今架かっています)を果たしたのち、荒れ野で重大な罪を犯したため、40年荒れ野でさまよっていたことです。その世代が死に絶えたのち、イスラエルの民は約束の地に入ることができました。罪を犯した世代の交代に40年を要したという事です。民数記には「種の怒りはイスラエルに向かって燃え上がったのだ。それで主の目の前に悪を行った世代の者がみな死に絶えてしまうまで彼らを40年の間、荒野にさまよわされた」とあります。もう1つは、同じ旧約の士師記にある40年という年月です。「こうして、この国は四十年の間、穏やかであった。そののち、ケナズの子オテニエルは死んだ。そうすると、イスラエル人はまた、主の目の前に悪をおこなった」とあります。つまり既に厳しい試練にあったイスラエルの民は、士師(さばきつかさ)オテニエルにより救われ、40年間安泰であったのに、彼が死ぬとふたたび主の前に罪を犯したとされています。イスラエルの民は40年しかその救いを心に刻む(erinnern)事ができなかったとされています。
 人の、ともすれば盲目になる傾向を思い知らされます。過去だけではありません。社会の不正義でも、学校のいじめでも、ささいだからと見て見ないふりをしていることが往々にしてあります。そのような場合には、社会的弱者がさいなまされることのほうが多いように思います。私たちは、精神障害やそれを持つ人々やその家族にかかわるものとして、盲目になることを恐れなくてはなりません。