オスロ日記(1985-1986)と その後(2012-)

30年前、主人と子供たちとでノールウェーのオスロで過ごしていた頃とその後の日記

1985-5月31日

1985-05-31 09:04:04 | 海外生活
5月31日 金曜日 晴れ

朝9時に私の手の一ヶ月診察に主人と一緒に行った。すでに8月まで予約でいっぱいだったのだが私たちを覚えくれていてすぐに診てくだっさった。主人からこの前買った薬を持っていけといわれたのだが薬の紙だけを持っていったところ間の悪いことにこの間吹き込んだテープが間違ってイレ-ズされてしまったのでどおいう処方箋を出したのか分からなかった。私の持っていった紙は何の役にも立たないものだった。しかしながらこの一ヶ月で信じられない程よくなった。何とかこの前の薬が分かったのでもう一度処方箋を書いてもらって同じくすりを買った。夏は比較的エグザメがよくなるそうだ。だけどこんなに綺麗になったことは日本でもなかった。ノールウェーに来た甲斐があった。帰ったら池田さんから電話があった。”中村さん今日何か予定がありますか?”別にないというと”じゃあ買い物に出かけましょう”ということでビグドイアレーの電話ボックスで待ち合わせをした初めて主人の会社の人以外の日本人と行動をともにすることになった。今までこちらに赴任していたベリタスの日本人スタッフから商社マン婦人達の陰険な態度を聞かされていたので気が進まなかったが私と同じ年で子供達も上下同じ年で主人たちもどちらも同じ大学同じ学部ということでいろいろ共通点も会って1日中いやな思いもせずにすごせた。そして明日はマイケル君の一家を招待しているのでその分の買い物も出来た。

1985-5月26日

1985-05-26 08:58:46 | 海外生活
5月26日日曜日

朝10時ごろ加納さんから電話があって源太君の体調がすぐれないので安岡さん宅へはいけないとのこと。私たちも安岡さんがパーテイの準備をしてはいけないと思って彼のお宅には電話がないので11時過ぎに直接知らせに行ったところどうぞといわれて言われるままにあがりこんでもうホームパーテイの始まり。メニューは アボガドの刺身 魚の南蛮ずけ豚肉のソテー ブロッコリーのサラダ オードブル(チーズ キャビア)ご主人が”これはもうちょっと酢が利いているのが本当やないかなー”となかなか批評も厳しかった。奥さんも負けずに”本の分量通りやったのに!”と面白い一面を拝見した。がんばれ新婚さん!。加納さんが礼二君だけを連れて3時ごろきたそうだ。私たちとすれ違いになった。

1985-5月23日

1985-05-23 08:55:53 | 海外生活
5月23日

朝7時に日本の私の両親に電話する。政男おじさんが来ているという。この人には私たちが神戸に引っ越してきたとき大変世話になった。今は大分の田舎に引っ込んでいるのだがやはり私たちと縁があるのだろうか。お父さんがずいぶん慌てて話していた。どうも国際電話はお父さんの心臓に悪いようだ

1985-5月21日

1985-05-21 08:37:37 | 海外生活
5月 21日 火曜日

ろうそくと座布団がピンクで統一できて綺麗になった。そうするともう一本欲しくなってめげずにキャンドルの店へろうそく一本と足元の花をひとつ買いに行った。仁と二人でマクドナルドでハンバーガーを食べる明日は涼のテデイベアピクニックなので涼のお迎えに行った帰りに近くの文房具店まで行ってテデイベアを買った。89krもした。学校からの手紙にテデイベアをもってピクニックに行くとかいていたので慌てて探したわけだ。適当な大きさのものがなく少し大きめだけど持たせることにした。これはアメリカの大統領セオドアルーズベルトにまつわる風習でテデイベアにまつわる歌やゲームをして楽しむ行事だそうだ。

1985-5月19日

1985-05-19 08:35:25 | 海外生活
5月 19日 日曜日

ハイエルダールのコンチキ号を観にビグドイ海岸のコンチキ博物館に行く。見学後近くの海岸でくつろいだ。私一人が服を着ているのがおかしく感じるほど他の人はビキニ姿で日光浴を楽しんでいた。午後6時から先日来たナジャブーの家に招かれていたので私は4時ごろから着付けをやりつけ下げを着て行った。お料理は奥様のてずくりだった。どのお料理にもカレーが入っていた。私たちのために辛さを控えたそうだ。スリランカの人は大変のんびりした感じの人たちだった。    

1985-5月17日

1985-05-17 08:27:20 | 海外生活
5月17日 晴れ 後 曇り

今日はノールウェーの建国記念日。朝9時50分に車で家を出てスコーブバイエンの駐車場に車を停めて宮殿まで15分ほど歩く。宮殿前にはすでにたくさんの人がいて私たちはかろうじて比較的前列に立つことが出来た。偶然典子さんと親戚の女性に会った。旦那さんの勉強の邪魔になるから出て来たといっていた。それにしても何が始まるのかと思っているとやがてオスロ中の中学校や高校のブラスバンドが行進してきた。それぞれブラスバンド部ごといろんなユニフォームを着てコングオラフ( Olav 国王)の前で指揮者が敬礼して通り過ぎていく。見事なチームもいればそうでもないチームもいる。総じて日本で見かけるブラスバンドに比べてびしっとは決まっていない。和やかなムードで2時間ほどでパレードが終わった。その後三々五々見物人は街中に散らばっていった。それにしてもいつからオスロにこんなに人間がいたのかと思うほどたくさんの人人。町のあちこちにノールウェーの民族衣装を着た女性を見かけた。青い服を着た高校生が青く塗った車に乗って赤い服を着た高校生が赤く塗った車に乗って町じゅうをパレードして廻る。この高校生たちは文科系と理科系に分かれて色を塗り分けていたのだ。(どちらの色が文科系か理科系か失念)街角で出会うと卵をぶつけてりして戦うこともあるそうだ。ノールウェー人にとってこの青と赤の服を着て街中を暴れまわることが出来るのは一生に一度のことで彼らにとっては誇らしいことなのだそうだ。多分この高校生たちはそれなりの大学に進学することの出来る選ばれた人たちなのだろう。主人の会社の同僚たちの中に昔赤い服と青い服を着て戦ったことがあっていまだに中が悪いという話を聞いたことがある。ところで意外とたくさんのインド人を見かけた。この人たちは一人が移民に成功するとその後10人ぐらいの一族係累がやってくるそうだ。中には子沢山でバーネトリグデン(児童手当)だけで暮らしているのもいるそうだ。この人口の少ない国にむごいことをするものだ。

1985-5月16日

1985-05-16 08:22:47 | 海外生活
5月16日木曜日 晴れ

今日から4日間ノールウェーの建国を祝うためお休みだ。我が家はビグドイ アレー沿いにあるのでオスロの観光地のどの場所にも車で10分程で行ける。今日は船の博物館に家族そろって出かけた。バイキング船を見学してフラム号の見学をしていると涼がフラム号の薄暗い船室で”怖い”といって泣き出してしまった。そのとき一人の日本人男性に声をかけられた。フラム号を見学した後外に出るとさっきの男性が一人で居るので(団体旅行ではないので)我が家にお連れした。仕事の話や日本の話などいろいろ楽しそうに主人としていた。それから私に洗濯機と乾燥機の使い方を聞いたので教えてあげた。トロンハイムに単身で数ヶ月間住んでいるのでいろいろ大変とのこと。この方は大阪大学工学部造船学科の内藤教授でこちらに来るとき予め神戸の主人の会社に電話して今オスロに誰がいるか調べてきたそうだ。夕食を一緒に食べてオスロ市内にあるホテルまで車で送ってあげた。その後近くを散歩していると突然雨が降り出した。

1985-5月15日

1985-05-15 08:19:02 | 海外生活
5月15日水曜日 晴れ

韓国人のエンジニアが住んでいた我が家の上の階に今日アメリカのヒューストンから旦那さんがアメリカ人奥さんがオランダ人の夫妻が2歳の女の子と一緒に越してきた。今日はお天気がよくてアパート中の子供たちが外で遊んでいた。仁もその中で遊んでいた。北欧の人は男女とも背が高く目はブルーで髪はきれいな金髪、そんな人たちの中に入っていく勇気もないので出来るだけ眼をあわさないようにして仁を観ていた。今日3階に越してきたオランダ人のコビーが私の腕を持ってここに座ってとベンチを指差す。おもちゃの話など簡単な会話を分かりやすくゆっくりとしてくれた。どうしても分からないときは”OK貴女は日本人で英語は大変でしょう、私たちには日本語は難しすぎて出来ない”と励ましてくれた。この日からコビーの娘の2歳のジェネファーがお天気がいいと3階から降りてきて我が家のドアの前で"JIN JIN”と額にしわを寄せて”アウチ アウチ(=out out)”と片言の英語でお誘いに来るのだった。

1985-5月13日

1985-05-13 08:14:09 | 海外生活
5月13日月曜日

スティーン&ストロムというデパートに行ってリュックサックを買ってきた。58krだった。家に帰ってくると電話局の人がきて電話をつけてくれた。やっと我が家の孤立状態が解消された。



1985-5月12日

1985-05-12 08:12:23 | 海外生活
5月12日 日曜日

突然スリランカから来ているナジャブー夫妻が子供を連れて遊びに来た。以前は5年間モスクワで政府から派遣されて勉強していたそうだ。主人の会社にノールウェー政府のODAで派遣されてきているそうだ、残念ながら本人がその気にならなければ会社のノールウェー人は誰も相手にしないそうだ。つまり実際に一生懸命勉強しているひとたちは少ないそうだ。たぶん選抜過程に有力者や権力者の忖度で選ばれるので彼らの子弟が来るのだろういずれにせよ本国に帰れば大変な実力者の子弟たちだからその奥さんは大変な美人だ。彼女は素敵な民族衣装を着てきた。そしてその仁と同じ年のナフリーという子供も傍から見てまるでしつけがなってないといった感じだった。私の子供のおもちゃ(本当ののラジコンの自動車のおもちゃ)が気に入ると泣いてもって帰ろうとするのだ。その子が持っていたのはリモコンといってケーブルが電池ボックスから自動車の車体に着いているやつだった。スリランカでは長男の言うことはおじいちゃんおばちゃんそしてお手伝いさんまでなでも聞かなければならないそうだ。私は家にあるものでおもてなしをしようとするのだがビールだめ豚肉がだめということはハムやソーセージもだめ。本当にところ変われば品変わるというが難しいことだと思った。インドから来たやはりODAで派遣されてきた一家が近所に居る。主人が車で通勤しているので退社時間が迫ると今日は何時に帰るかと電話がかかってくるそうだ。近くのノールウェー人に頼まないでなぜ遠くの私の主人に頼むのかと主人が悩んでいた。