直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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自殺のこころと生きる意味

2019年01月25日 | ちょこのひとかけ


最近、発作的に、今なら死ねる、今死ぬべきではないかと
思うことが増えてきました。
自分の死はほぼまったく怖くなくなっているので
もうそんなにがんばれないかもしれません。

なぜ今死にたく思うかと考えると、未来に絶望したからです。
この先に、今よりよくなることはないとしか思えません。
死にたいのになぜさっさと死なず、
起きて寝て、食事もしてるのかと言えば……
波があるから、というよりももっといい説明を思いつきました。
自殺は、株売買の『損切り』にとてもよく似ています。

株の価値が下がり、損が出ると、持ち続けたらマイナスがかさみます。
そういうとき、『これ以上マイナスが出る前に切りたい』と
思うはずです。
人生にあっては『これ以上悪くなる前に死にたい』と
いうのと同じです。

でも、株を損切りで売りたいと思っても、
すぐに手放せる人はそういません。
死にたいと思っても、すぐに死ねる人もそういません。
なぜなら、将来また価値を取り戻し、資産を回復できるのではないかと
希望を持ってしまうからです。

自殺するということは、損切りの気分によく似ています。
では、損切りで手放すものはなにか、
自殺で手放すものはなにかと考えれば、それは人生です。
すると、人生は『株』と同じ扱いです。

ならば、『人生』で手に入るもの、『人生』において
資産価値があるものはなにかと考えたら……
人間はなぜ生きるかの意味がわかりました。

人生において、人間が手にするものは『しあわせ』、
あるいは『幸福』です。

昔から、人間はなぜ生まれるのか、という問いには
いろいろな答えが出されてきました。
アイヌだとこの世は『生み・増やし・育てる世界』だと
言われていたはず。
つまり人は、『生み・増やし・育てる』ために
生まれてくる、ということになるわけです。

でもわたしは今回、人は『しあわせ』を得るために生まれてくるのだ
という考えに至りました。

死の間際や一度死んだとき、幸福感に包まれたという話はよくあります。
死んでいる世界、動かない世界は幸せな状態なのでしょう。
でも、幸せに浸っていては、幸せがわかりません。
あるいは、幸福感という平坦で薄い感情がずっとあることの不満から、
強い情動のような幸せを感じるために生まれてくるのかもしれません。
そして、人間の魂の財産は『幸せ』だけなのかもしれないと思いました。

『人生』という株で得られるもの、利益や資産は『しあわせ』。
その株の価値が下がり、幸せが減り、この先幸せが回復せず、
マイナスのままになると思ったとき、
人は損切りをしたいと思うのです。
そして、そう思う人は、持ち株がとても少ないのです。

他の人は、『人生』以外の株も持っています。
たとえば、『夫婦の生活』『こどもとの生活』
『社会での生活』『会社での生活』などです。
このうちのどれかで損が出ても、ほかの生活、ほかの株の利益で
幸福量を守れるので、相対的に資産はマイナスにならないため
幸せに生きていけるのです。

でも持っている株がすくない人、たとえば『自分の人生』しか
持っていない人は、自分の人生の先に幸福が暴落する未来しか見えなければ
人生を損切りで捨てようとするのも理解できるでしょう。
それが自殺です。

会社の上の方の人間がしあわせでいられるのは、
他人のしあわせを吸い取っているからです。
会社の社員が仕事したすえに自殺するのは、
しあわせを吸い取られすぎたからです。

自分が幸せになるには、他人から幸せを奪うのが手っ取り早くて簡単です。
他人を傷つければ幸せになる人間は、そこらへんで他人を殴れば
簡単に幸せになれます。
そして殴られた人は、しあわせを失い、奪われます。
これが簡単な世界の仕組みです。

幸せになりたい強者が、弱者を踏みつけ幸せを奪い、
それによって幸せになっているのがこの世界です。

でも、これは悪い幸せのなりかたです。
奪い、奪われる幸せは、幸せの総量が変わりません。

けれど、これとは違う幸せのなりかたもあります。
たとえば恋人、たとえば赤ちゃんです。

赤ちゃんを愛すると、赤ちゃんは愛を返します。
恋人に愛を注ぐと、その愛に喜び、相手も愛を返します。
マイナスはなしに、愛の総量が増えるのです。
おそらく、これが正しい人間関係なのでしょう。

この世界は、幸福量シミュレータの中なのかもしれません。
一定の幸福量を用意して、そこに人間を入れてみたら、
最終的に幸福量はどうなるのか。
奪い合って定量を保ち続けるのか、それとも奪って殺して
総量は減っていくのか。
それともみんな愛し合って、総量は増えていくのか。
それを、人間の上の存在が試しているのに過ぎないのではないかと
考えました。

その点で、戦争は他国から幸せを奪う行為なので間違っています。
今の、奴隷をこき使って生産物に価値をつけていく、
資本主義のありかたも、搾取が入っている点で間違いです。
みんなが幸せになる何か新しい手法があるはずで、
おそらくそういう手段でやりとりしないといけないのでしょう。

また、人は一人ではおそらく幸福を作り出せません。
幸福を与え、受けるには他者の存在がいります。
その、他者との関わりの場が、人生における『株』です。
人間はそういう他者との関わり、『株』をなるべく多く
もっておくべきなのです。
そうでないと、何かの株が暴落したとき、幸福が回復できず、
自分の生命、自分の人生という株を損切りするしか
道がなくなるからです。

でも、いろいろな話を聞いていると、人間の上位存在は
損切りで株を手放すことには罰を与えるようです。
他人を殺して幸せを奪っても、それは自分が幸せになるための
試行錯誤のようなものなので、
殺した本人には別段罰は与えられないそうです。

けれど、自殺に罰は与えるというのは、
どうも、損切りしなくてもすむ、
裏技のような手が本当に見えないところにあり、
それを見つけなければいけないかららしいです。
その手段に気づくまで、何度死んでも同じような人生を
やらされつづけるのだとか。

うちの家系は、きょうだいが片方を殺す、というような歴史があります。
今でもそれが続き、きょうだい仲は家系として結構悪いです。
わたしは魂の輪廻は信じているので、
どうもそういう家を選んで生まれさせられているような感じを
最近持っています。

なぜか好きなもの、なぜか気になるもの、なぜか苦手なものを思うと、
西暦250年ごろにきょうだいからレイプされたので自殺した気がします。
その罰が延々と今まで影響し、きょうだい仲が悪い場所に
送られ続けているのかもしれません。

この世はわたしにはつらすぎました。
会社でのいい地位も、結婚していることも、こどもがいることも、
多くの友人がいることも、それは全部人生の財産で、株です。
持っているなら持っているにこしたことはありません。
損が出るなら損切りすればいいだけで、
損が出ないなら幸福がかってに入ってくるものだからです。
でもわたしにはなにもありません。

ほぼ『他人を好きになれない』というのが、
わたしの人生に与えられた呪いだったのでしょう。

小学二年生のときにラブレターをもらって、
よくそこまで他人に強い感情をもち、
他人と一緒にいたいと思うものだと感心し、
わたしもいつかわかるときが来るのだろうと思いましたが、
結局そんなときは来ませんでした。

中学二年あたりからは、他人の顔もあまりわからなくなり、
覚えていられなくなり、名前もほぼわからなくなりました。
複数人が出てくる映画やドラマでは、誰がどの役なのかも
わからないくらいです。

外で声をかけてくる人間が知り合いかどうかもわからないのに、
その状態で他人を好きになれとか他人と関係を築けとかは
無理な話です。
生まれたときから約束された失敗人生です。

噂では人生には、人生を損切りしないでいられる
裏技があってそれを見つけなければいけないそうですが……
わたしの人生にもそんなものはあるのでしょうか。

人生は、つらく苦しく惨めなものです。
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