直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
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許される自殺・許されざる自殺

2020年09月04日 | ちょこのひとかけ
世界の宗教や常識的な考えをざっと見ると、
基本的には自殺は悪であり、罪であるようにされているようです。

……が。
だいたいどこにも例外があることに気づきました。

たとえば仏教系だと、他者のために即身仏になることは
自殺とはみなされず、悪ともされないはずです。

また、飢えた人の食欲を満たすために、
自分が火の中に飛び込んで自殺して、肉を食わせようとした場合、
それも悪や罪とはみなされず、逆に褒められます。

他宗教の人間たちが国に攻めてきて
「お前らを皆殺しにして宗教建物を全部壊し、蹂躙してやる!」
と叫ぶものがいたとして。
それに対抗した一人が体に爆弾を巻いて敵の中に飛び込み、
自殺で敵を壊滅させた場合、
どこの宗教でもそれは自殺の悪とはみなされないはずです。

また、魔術の世界では、人を殺すのは別に問題ではないが、
自分を殺すのは問題だ、とも言われます。

これらの話には、ひとつの共通概念が見て取れます。
それは、『幸福の追求のための死は罪ではない』ということです。

この考えは、『この世が幸福シミュレータである』、
『この世は幸福ゲームで、外の世界のプレイヤーが
トゥルーエンドを求めてプレイしている』
というようなものとも矛盾しません。

自分が積極的に幸せになりたくて、他人を殺してみる行為は、
他人の幸せを奪うため罪ではありますが、
自分の幸せを追求した副産物だとすれば、
世界の構造上はたいした罪になりません。

道路に飛び出て車に引かれかけているこどもを見て、
助けたら自分が死ぬなと思いながら飛び出すのは、
自分の信念を貫くという幸福追求と、
生き残ったこどもの幸せを守るという点で、
幸福度を上げる方向に向かっているので罪にはなりません。

不幸な村人たちが、不幸をのけて幸せになるために、
仏教関係者を無理やり即身仏にしようとしても、
それは幸福追求なのでそれほど問題にはならず、
死ぬしかないとわかっている関係者が自殺で即身仏になっても
他人の幸福のための死なので罪にはなりません。

戦争も、他国を踏みにじって利益を得て幸せになりたい
と思った人々が多数を巻き込んで殺し合いに発展しただけなので
世界にとっては別に問題のない現象なのでしょう。

罪になる自殺・罪にならない自殺、
悪となる自殺・悪にならない自殺は、
わたしがざっと調べた限り、
それが『幸福を追求しているか否か』で
区別されているように見えます。
もしくわしく見てもそのように分けられているのなら、
たぶんこの世界は『幸福量シミュレータ』の中であり、
外の世界のコンピュータ的なものが
計算している仮想現実に過ぎないのでしょう。
計算させている存在は、幸福量を最大にできるような結果を求めているので
幸福追求に対しての行動は非難されないのです。


よって、
「いとしい人の目の前で首を切って死ねば
相手の心に一生残って幸せになれる」
と思って実行する自殺や、
「マスコミに注目されながらの焼身自殺で
不満をアピールできて幸せになれる」
と信じて実行する自殺は、おそらく世界の構造上、罪とはなりません。

逆に、「頼むから死んでくれ」、
「おまえが死ねばわたしたちは幸せになれる」と言われて
自殺を選ばなければいけなくなった場合も、
他人の幸せを増す行為なので、おそらく世界の構造上、罪とはなりません。

自殺をするなら、苦しみから逃れるため、ではなく、自分や他人の幸せのため。
そう心から信じながら自殺ができたら、
その自殺はおそらく、世界のシステム的には許されるものになるはずです。
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