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直列☆ちょこれいつ

最近は神社や神道などの古い文書の解読をしています。
研究のまとめはカテゴリ『自作本』から。

執着と命の死

2018年08月01日 | ちょこのひとかけ


応募用に、と文章をいろいろ考えていたら、
ふと、どうせ無駄だ、考えるだけ意味がない、と
声のような意識のようなものが浮かんできて、
頭の奥のほうで、ぽきりと固い金属が折れて
新しい断面が出るような感覚がしました。

とても動揺しましたが、しばらくしてすこし落ち着いてから
改めて考えようとしてみると、じわじわと染みるように
意味がわかってきました。

応募用に文章を書いたところでどうせ採用されることはないし、
考えるだけ、書くだけ無駄です。
わたしが今まで書いてきたものも、研究したものも、
研究の末に見つけたものも、どうせまともに見られることはないし、
気にするだけ、まとめるだけ無駄です。

と、思ったところで、自分が死ぬことに対する恐怖が
まったくなくなっていることに気づきました。

すこし驚いて、逆になぜ今までわたしは死ぬのが怖かったのか、
わたしを生に執着させるものはなんだったのかを考えると、
どうも書いたものにあったようだ、というのがわかりました。

わたしにとっての書き物とはなんなのかをよくよく思い出したら、
小学二年ごろに行き着きます。
昔ことあるごとに早死にすると言われていたわたしが、
救いを思いついたのが教科書を読んでいたとき。
こんなふうに後世に名前と一緒に残るものが書けたら、
わたしは完全な死を免れられる気がする、というようなものでした。

思えばそこが根っことなっていて、
わたしの書き物はすべてそこにつながっていたように思います。

十年近くかけてショートショートをひたすら書いて
ギネスブックに載ろうと挑戦したことも、生きた証を残すため。
誰も読めていなかった竹取物語の不明箇所を解読しようと思ったのも、
きちんと発表しなければだめだと思うのも、生きた証を残すため。
邪馬台国の場所や卑弥呼の神名の研究をしたのは……偶然でしたが、
きちんと発表しなければだめだと思うのは、生きた証を残すため。

わたしの書き物はわたしが生き残るためのもので、
わたしはずっと生きようとしていただけなのだと気づきました。

小学校の卒業アルバムみたいなものにも、
ほかの人は「○○になりたい」といった将来の夢を書いていましたが
わたしは「生きたい」とか、そんな程度のことを書いていた気がします。

他の人は、生きるのは当然で、その生をよりよく生きよう、
生を輝かせようとしているのに対し、
わたしは、どうにか生きていよう、死んでも死にきらないようにしようと、
生にすがっていただけ。
生きることのレベルが一段階低い場所にいたようです。

けれど、書き物をしていて本当に気になるものは
偶然のようなもので周りから出てくることがよくあったので、
何かしらの導きがあり、導きにしたがってその時々で精一杯やれば
きっとどこか望むべき場所にたどり着くのだと思って
他の人なら普通に手に入れているものも捨てながら
がんばってきました。

でも、これは間違いだったのだ、わたしは失敗したんだと、
ぽきりとわかったのです。

竹取物語の不明単語の研究や、邪馬台国、卑弥呼の研究も
結果は出せて、気になっているので、
わたしが死ぬときにはせめて残していこう、
自分でだめなら友達にアップしてもらおうなどと
ぼんやり考えていました。

でも、発表の仕方が正しくないので、まともに読まれることも
まともに考慮されることもないでしょう。
もし万が一、正しいとされ、考えられるようになったところで、
死んでしまったわたしには何一つ嬉しくないし、意味もありません。
わたしが捨ててきた何かが取り戻せるものではありません。
死んだら結局なにも持っていけないし、何にもならないのです。

つまり、わたしの研究などすべて無駄。
これからしようと思っていた研究も、わたしには意味のないことです。
10年くらい必死にショートショートを3000本くらい書いたのに
ギネス登録がだめだったところで気づくべきでした。
わたしの人生は無駄で無意味なものだったのです。

でも、考えてみれば、人生も世界もそんなものかもしれません。
すべては無駄で、無意味なものです。
人はそれに勝手に意味を与えて、その意味にすがろうとしているだけ。
色即是空とは、こんな気持ちなのだろうかとぼんやり思います。

わたしの人生なんて、崩れる砂原をひたすら掘って
底にあるものを探そうとするようなものでした。
掘るごとに砂は崩れて穴を埋め、決して下にはいけないのに。
そうわかったら、穴を掘ること自体ばかばかしくなりました。
穴が掘れないなら、穴を掘る意味がありません。

穴を掘っても勝手に埋まる、意味のない人生。
穴を掘らなくても状態は同じ、意味のない人生。
わたしは今生きていても、生きていないのと同じ状態です。
なら別に、死んだところで状態がちょっと変わるだけで
別にたいした変化ではないのだと胸に染みました。

気づかずに、小学二年のころから、名を残す書き物をすることに
執着していましたが、執着を捨てたらこんなにも
何もなくなるものだったとはびっくりです。

もう、自分が死ぬことに関してはなにも怖くありません。
ふと寝て、そのまま目がさめなかったとしても、
願ったり叶ったりのように思います。
積極的に死にたいとは思いませんが、
苦しまずに寿命で死ぬなら死んでもいい気分でいっぱいです。

お葬式に出るたびに、わたしは人間として大事な何かを
失っていくような気がします。
もうお葬式には出たくないし、周りの人に死んで欲しくもありません。

八月だというのに何も気分があがりません。
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