涙目筑前速報+

詰まるところは明日を知る。なだらかな日々につまずいて
向かうところはありもせず、未来の居場所だって未定―秋田ひろむ

マンガ雑記-『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』についての私的解釈

2010-06-22 05:30:23 | 書籍
先日、新井英樹『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』(全5巻)を読んだ。
この日記は、当マンガについて、我々に何を伝えたかったのかということを個人的に解釈する内容である。


第一には、「生きる上での選択の重要性」ということであると私は考える。
トシモンが無差別殺戮を行っている中での選択、そして最後の結末。
その中では、各キャラクターの性格がその選択に反映されているように感じる。

例えばトシについては、作者が5巻の巻頭インタビューでも答えているように、自己完結型の人間に見られるような振る舞いをしていく。
また、凶行に隠れてはいるが、彼は1巻の人質に関するやりとりから、妥当な判断を提案しているように思える。
つまり、彼は作中でも言っているが「平凡な一般人」としての意味合いが強い。
だが、一般人でも選択を誤れば、ああいったことになるということを伝えていると思われる。

モンについては、マリアの死以前までは「力こそが正義」「俺は俺を肯定する」というような意味合いが強い。
つまり、力によって相手と関わりを持つという考え方だ。
これは、巻頭インタビューにもありように、自分の脅威に対しては力を以って臨む、「弱肉強食」を想起させる考え方であるように感じられる。
そうして力による関わり合いを選択し、行きつく結果が、最後の滅びに繋がっていくということを主張しているのであり、宮沢賢治『なめとこ山の熊』の引用にもあるように「ずるいやつらは世界が進歩するとひとりで消えてなくなっていく」という言葉に繋がっていくのだ。


マリアについては、全ての人を平等に愛する考え方である。
どんな人にも優しく接することのできる彼女は博愛主義者に近いキャラクターであるように見受けられる。
このマリアによって、モンは力だけではなく、受け入れることの重要性を知ることになるのであるが、この選択肢ばかりを選び続けていると、時としてお節介を生んでしまったりする。
また、4巻にもあるように、自分が説得している最中に親友が殺されてしまったりした際に、それでもその考え方を貫けるかといったような疑問を本作では投げかけている。

この作品ではそれぞれのキャラクターが、その思考に伴い、主張を貫き通すのであるが、大抵は悲劇に終わってしまう。
個人的感想としては、この悲劇だけを捉えるならば「鬱マンガ」というレッテルを貼られてしまうのではないかと思う(飽くまでそれは結果なのであって、作者が言いたいことは別にあるのであるが)。
また、本作の中で誰が一番幸せな生を貫けたかと問われれば、私は新聞記者の星野隆之であるように思える。
取材相手や同僚の悪口を大量の性器のイラストと共に手帳に書き込む、悪癖を持つ星島が、周囲の影響を受け、自分なりの答えを見出していく。
そして社会との折り合いをある程度つけつつ、自分の幸せを手に入れていく様は、この中では一番穏やかな生を謳歌している。

上述のキャラクター達の振る舞いから読み取れることは、「生きる上でどのような選択をするのかが重要であり、その選択は様々な要素を受け入れた上で、どのような生き方を選択し、どのような視点で世界を見て、どのように自分の未来を描くか」ということである。
そして、それが「抗うな。受け入れろ。全ては繋がっている」という言葉に収束されているのである。
一つの個人的な考えを貫き通すことも重要であるが、他の考え方・生き方を受け入れ、自分にとって良い方向に影響させていくことが自分にとってのより良い道標であると主張しているのだ。


第二の主張としては、「それでも過ちを繰り返す人間の浅はかさへの皮肉」という点だ。
第一の主張の中で、他の考え方・生き方を受け入れ、自分にとって良い方向に影響させていくことの重要性を記載したのであるが、人間はそう簡単には変われない。
それは現実社会を見る限り明白な事実である。

誰もが何らかの話題・流行に振り回され、コミュニティの中で分不相応な自分の意見を主張し、時としてそれが不毛な争いを発展させてしまう。
また、インターネットを介した関わり合いの中で、コピペの煽り、自演、マジレスにはじまる、終わりのない罵り合い(お世辞にも論争とは呼べない)も多発し、「嘘を嘘と見抜けないか、あるいは見抜きたくない人」も少なからずいるであろうことも事実である。
更に、内輪同士の遊びの範疇ならまだしも、それを真面目に受け取り、外部の者に攻撃的に接する事象も発生している。

インターネットという、情報収集を行う上で、この上ない便利なツールが出現する一方で、情報を他者を貶めるだけの力と捉え、生産性のない争いにがしばしば行われていることがある。
こういった争いが+の方向に転じるのであれば良いのであるが、大半は大した成果も上がらず、最終的には誰が戦犯であったか、そもそも知の定義は、などというように、さながら祭りの後といった塩梅である。

人間なのであるから、勿論主張したいことや、信念はある。私にだってある。
だが、信念のみに固執し、他者の意見を参考にしない事は、非常に損な行為なのである。
併せて、自分で他の意見を寄せ付けず、その選択肢を選んだにもかかわらず、その選択に後悔してしまう。
しかも、後悔した後も、同じような過ちをまた繰り返すという事象も少なからずある。
そういう選択を何度もしてしまう者たちを、この作品は皮肉として描き、分をわきまえることの大切さを主張しているのだ。


第三の主張については、「超越的なものへの畏敬の念」であると私は考える。
超越的なものとは、トシモンと同列に出てくる、「ヒグマドン」である。
モンの暴力性をも一時的に鎮静化させるその圧倒的な存在感は、さながら災害のようであった。
こういった災害に対して、畏敬の念を持って接するべきという主張であるように思える。
作中では、「ヒグマドン」は最終的には肥大化し、水爆によって征服されるという最期を辿るが、人類もその後、核への依存により、最期を迎えることになる。
つまり、自然というものを対立的に描くのではなく、奇妙で、恐ろしいが、敬うべき存在として接するべきということなのだ。
つまりは、災害の化身である「ヒグマドン」も受け入れられるべき存在であるということである。
また、受け入れるだけでなく、受け入れた上で、自分達はどのようにすべきか、メディアは何をすれば良いか、政治はどのようなアクションを以って対応すべきか、といった疑問を投げかけている。


最後に、結論として、これまでの主張をまとめてみる。
この作品では、テロや災害による理不尽な死や、それを面白がり、煽る周囲があるという現状の中でどのように生き、また、そういった現状や理不尽さを受け入れ、より良い選択肢をどう選ぶかといったところにある。
しかしながら、自らの立場や思想に固執するあまり、中々より良い結果を得られないまま、現在を迎えている。
その中だからこそ、抗わず、受け入れた上で、そこに輝く何かを見つけられたのならば、作中での「ザ・ワールド・イズ・ユアーズ(世界はあなたのものだ)」ということなのであり、「そこに・・・素晴らしき世界が見えたなら神はあなただ」という言葉に繋がっていくのである。

どのように物事を受け入れ、どのように自分にとって輝かしい世界を築くか。
それは他ならぬ自分次第なのであるということなのである。

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