伊豆国 網代城 <アジロジョウ> | ||
別称 | ||
城郭種別 | 城郭 | |
縄張り | 平山城 | |
築城者 | 聞間七郎太夫 | |
築城年 | 南北朝時代 | |
廃城年 | 不明 | |
主な城主 | 聞間氏 | |
指定史跡 | なし/不明 | |
住所 | 静岡県熱海市網代 [Google] [地理院地図] | |
城址碑 | あり | |
現地案内板 | なし | |
スタンプ | ||
現存建造物 | なし | |
復元建造物 | なし | |
DID・航空管制 | 対象外・対象外 |
概要
網代城は肥後の菊池氏の一族である聞間七郎太夫によって築かれたと伝わる。
天正17年(1589)に、安房の里見義頼が攻め寄せた際、城主・岡本善左エ門が攻撃を防いだ記録が残っているが、伝承であって事実かどうかは定かではない。
城址は「朝日山公園」に位置し、眺めは良い遺構はわずかに石積を確認できるのみで、近くには江戸城の石伐丁場がみられる。
麓にある「教安寺」の参道(少し下る)に城址碑がある。
天正17年(1589)に、安房の里見義頼が攻め寄せた際、城主・岡本善左エ門が攻撃を防いだ記録が残っているが、伝承であって事実かどうかは定かではない。
城址は「朝日山公園」に位置し、眺めは良い遺構はわずかに石積を確認できるのみで、近くには江戸城の石伐丁場がみられる。
麓にある「教安寺」の参道(少し下る)に城址碑がある。
攻城記録
教安寺
鐘楼
城址碑
顕彰碑
網代朝日山公園案内
城址碑は教安寺にあったものの、城は朝日山にあったようだ。
石丁場跡
徳川家康、秀忠、家光の三代にわたる、慶長11年(1606年)より寛永13年(1636年)にかけて江戸城の大規模な増修築をはかった際、
諸国の大名に命じて城郭の分担箇所の工事を督励するとともに、伊豆の国(静岡県)より石材の運搬に当たらせた。
石材の採掘は相模の国(神奈川県)の真鶴から伊豆の稲取にかけて行われたが、当時大名が義務として提供する石の割当ては、
10万石につき100人持ちの石1020玉ずつであったことから九端帆の石船(100人持の石2つを積む)3000艘も伊豆と江戸の間を月2回ずつ往復したといわれている。
このところも石伐りが行われた跡地でこの辺一帯を熊本城主加藤忠広をはじめ、小倉城主細川忠興や大村城主大村純信の大名が担当し、
石伐りと舟積みにあたったものでここに見られる石材は当時の運び残された伐石のひとつで担当した大名の刻印がしるされている。
※現地看板より
なぜか教安寺に城址碑があり、朝日山を目指していたら石切丁場に辿り着いたので、これはこれで見られてラッキー!と、ここで引き返してしまいました。これはリベンジせねば😅
2024/8最終訪問
周辺地図
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※ 城址等は、私有地になっている場合もありますので、有権者の確認を行うなどをし他の人の迷惑になるような行為はやめましょう。
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※ DID情報については、令和4年(2022年)版の情報となりますので、最新の情報をご確認ください。
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