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大阪府立大学山岳会ブログ

OPUAC会員の交流記録です。

西域シルクロード2012/6~8

2012年12月12日 | 海外トレッキング

    西域シルクロードから天山へ

      ------2012年6月~8月------

                                  2012.12.11 高木(記)4740m

今から1385年前、唐の玄奘(三蔵法師)26歳の若僧が中国を密出国して、ベデル峠(4280m)を越えてキルギスに入った。厳しい峠越えで、多くの従者・馬を失いながらも天山を乗り越えて、イシク・クル湖畔を西進してサマルカンド(ウズベキスタン)へ達したという。

この玄奘のたどった西域シルクロードから中央アジアへの旅の一端を私もたどってみようと思った。(陸路で)まず2007年6月から7月にかけて、西安を出発し、西寧・敦煌・ウルムチ・カシュガルを経てパキスタンのフンザに達した。

その後、カラコルム山脈の峰々に魅せられて、2009年、2010年(中山・大内氏とチョゴルンマ氷河へ)、2011年とパキスタンを訪れ、やや足踏みしたが、昨年はカシュガルよりキルギスへ入り、今夏のトレッキングの前調査を行った。そして今夏、14名で2週間のトレッキングを行い全員元気で帰国した。<http://jfma.news.coocan.jp/kaigai%20jouhou.htm>の2012年中央アジアの山旅記録を参照下さい。

機会を得れば、来夏もハンテングリB.C(ヘリツアー)やペデル峠近辺(バスツアー)などへ足を伸ばしてみたいと思っている。


キルギス・カザフスタンへの旅2011/8

2011年11月24日 | 海外トレッキング

       2001年夏 キルギス・カザフスタンへの旅

                                              2011・11高木記

 7月中旬から8月上旬にかけて、倉屋さん、八尾さんと3人でパキスタンのフンザでトレッキングKyrgyztan1_2 を行った。その後は私の一人旅になり、中央アジアのキルギスとカザフスタンを訪ねた。中央アジアの旧ソビエト領には5つの国がある。北からカザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタンである。ソビエト時代はそれぞれがソビエト連邦を構成する共和国であったが、1991年のソ連邦崩壊後新しい独立国家になった。

 今回、訪れたキルギスは、国土の94%が標高1000m以上の山地で、キルギス人が65%、ウズベキスタン人が14%、ロシア人が12%を占める多民族国家である。中央アジアの山岳地帯は、キルギスを中心に一部カザフスタンとウズベキスタンにかかる天山山脈と、タジキスタン・ウズベキスタンとキルギス南部にまたがるパミール高原に分かれる。キルギスは、東西2500kmにおよぶ、この天山山脈の西側に位置し、緑濃い渓谷や果樹豊かなオアシスに恵まれている。中央天山には峻厳な岩と氷の高峰が林立し、北部天山ではキルギスやカザフスタンの遊牧民たちが長い間、馬で駆け巡ってきた草原がある。彼らは20世紀の始めまで大半が遊牧生活を送って来た。近代的な都市はこの地にロシアが進出してから出来たものである。

以下、本文をご覧ください。

キルギス・カザフスタンへの旅(高木記):「Kyrgyzstan201108.doc」をダウンロード

キルギス・トレッキングルート(高木記):「kyrgyztan_trekking_route2011.pdf」をダウンロード


カラコルム・トレッキング10/8

2010年09月07日 | 海外トレッキング

            カラコルム・トレッキング

2010/8/2~9/1 高木P8050008

2010/8/4~8/19 大内(写真)、中山(記)

1.はじめに

 高木・中山・大内の3名でパキスタンノーザンエリアに行ってきました。記録的な大雨による災害があったとは言え、この国は入国はしやすく出国は難しい国だと胆に銘じて感じた。

 高木さんは3度目、中山・大内は始めてのパキスタンである。一昨年から高木さんは、中国経由でノーザンエリアに入り、トレッキングとソニアピーク登山を計画していた。今年4月に、メンバーを募るとトレッキングに倉屋・八尾・甲斐(我々の山仲間)・山本夫人がエントリーし、ソニアピークには山本・中山・大内がエントリーした。高木さんを含めて総勢8名となった。ところが5月始めにフンザ川が大規模な土砂崩れで川が堰き止められ、全長18kmに及ぶ巨大な自然のダム湖が出現し、主要道路であるカラコルムハイウェイ(KKH)が水没したことが朝日新聞に載った。この土砂崩れは今年の1月に起こったもので、我々は5月の朝日新聞で始めて知った。コンタクトしていたパキスタンのガイド会社に問い合わせるとno-problemで、湖はヘリとボートで往来しているとの回答だった。しかし、この湖の出現で中国経由で行くのは無理と判断し、イスラマバードからノーザンエリアに入り、チョゴルンマ氷河のハラモシュ峠を越える計画に急遽変更した。この時、中国経由の入国を望んでいた倉屋・八尾・甲斐・山本夫妻が参加を取りやめ、高木・中山・大内の3名でチョゴルンマ氷河に行くことになった。P8060019

 チョゴルンマ氷河はスカルドからジープで、途中に有名なバルトロ氷河方面との分岐を左に進み氷河末端のアランド村が起点になる氷河で、人気(ニンキ)の高いバルトロ氷河に比べて人気(ヒトケ)はないトレッキングルートである。

8/4(水)成田AP(11:00)----バンコックAP(15:30、19:00)---イスラマバードAP(22:10)---グリーンシティホテル泊

 成田APで甲斐・岡本さんの見送りを受け出国する。バンコックAPで乗継をする。バンコックAPは巨大なハブ空港で成田のように案内表示がない。乗継ゲートがわからない。しかし、所々にインフォメーションセンターがあり、女性のスタッフがいる。女性スタッフにゲートを教えてもらい600~700mは歩いただろうか、イスラマバード行きのゲートにやっと辿り着いた。乗換え時間が十分あるので、ゲートを確認した後、空港内のレストランで軽食をとる。イスラマバード行きはほぼ満席だった。後部座席のパキスタン人であろうか、完全に風邪をこじらせていて5時間の飛行中、ひどいクシャミと咳ばかりしていた。風邪がうつらないか不安になる。P8070022

 イスラマバードAPで入国手続きをしてドアをくぐり(ロビーのようなものはない)外に出ると高木さんとタクシー運転手が出迎えてくれた。高木さんは2日前に入国し現地ガイド会社との打合せを済ませている。小型タクシーに荷物を積込み市内のホテルに向かう。ホテルは高木さんが探してくれたリーズナブルなホテルである。部屋は2部屋、エアコンが1台、大型扇風機が1台ある。どうもエアコンは故障し送風しかでないようだ。扇風機をかけっぱなしで寝たが暑くて、よく眠れなかった。

8/5(木)グリーンシティホテル(8:00)---イスラマバードAP(9:00、10:35)---スカルドAP(12:00)---コンコルデアモーテル(13:00)P8070031

 ホテルの近くの屋台で朝食をとる。ナン・揚げパン・オムレツ・チャイで結構食べれる。昨日と同じ運転手が迎えに来て、イスラマバードAPにいく。国内便の待合室でフライトを待つが案内板は全くなく、搭乗口と思われるドアの前に女性が一人いて時々マイクで案内をする。よく聴いていないと行き先がわからない。カラチ便には大勢が乗っていった。搭乗口近くのベンチにはヨーロッパ人20~30人が集まっている。アナウンスでスカルドと聞き取れた。瞬間、ヨーロッパ人から「ワオー」と大きな喚声が上がった。この時は、喚声の意味がわからなかったが、帰国時には思い知ることになる。ともかくも、2時間近く待たされたが、あっさりと搭乗できたのである。機上では雲が多く下界は見えない。雲海から突き抜けた山塊が右手に見えた。このエリアで高い山は一つしかない。ナンガパルバット8125mだ。機長のアナウンスがありナンガパルバットと言っている。独立峰だが、結構長い稜線を持っている。P8070038

 スカルドAPに着きバス(内装はボロボロ)でターミナル(簡単な建物があるだけ)に着き、観光客用のペーパーに記入した後、出口を出るとガイドのラーマットが待っていた。高木さんとは旧知の間柄である。ラーマットは41歳、小太りだがガッチリし、短髪で黄色に染めている。髭も剃っていて、色白である。パキスタン人では珍しいタイプの男だろう。流暢に英語をあやつり、トレッキングの欧米人から独学で学んだという勉強家で頭もよい。ラーマットの案内でジープに乗り、空港から30分あまりのスカルドの中心地バザールを通り越し、大河インダス川の土色の流れが見渡すことができるコンコルデアモーテルに着く。ここの景色はすばらしい。モーテルと言っても部屋は広くベットが2つある。一人一部屋とっているのでゆったりしている。ただ、ハエが多く、持参したウチワでハエタタキが始まった。夕食は我々3人とラーマット(ガイド)、イルファーン(サブガイド)の5人でモーテルのレストランで摂った。イルファーンは32歳、パキスタン人らしい男で頭は少し禿げているがヒゲはモジャモジャ、色は黒く、引き締まった精悍な体つきだ。P8080050

 今日は、イスラマバードからフライトでスカルドに到着した。予定ではジープで2日かけて来ることも念頭にあったので、1日得をしたことになる。明日はスカルド見物で過ごし、7日からアランドに向けて出発することになった。

 後で知ったが、この時点では、イスラマバードからスカルドへのカラコルムハイウェイは、大洪水のため橋が落橋し、ズタズタで通行不能の状態だった。足はフライトしかなく、イスラマバードAPでヨーロッパ人が喚声を上げたのは、彼らはイスラマバードで足止めを食っていたためと思われる。

8/6(金)コンコルデアモーテル---フンザガイド事務所---バザール---カルポチェ(古城跡)---モーテルP8100053

 今日は一日、スカルド町の見学だ。フンザガイド事務所と言っても普通の民家で倉庫がありトレッキングの荷造り作業をしていた。山道具の中古品を売っている店に行き、高木さんはゴアジャケットとシュラフを買った。インターネットの店でメールを打っている間に高木さんは床屋に行った。まるで現地人である。スカルドには小高い山があり、その中腹にカルポチェ(城跡)がある。そこに登ると町が一望でき、インダス川の流れも眼下に望める。大きなモスクが2つあり明日の7日はモスリムの儀式(体を傷つける)が行われるので人が集まり混雑するらしい。明日は6時出発と早立ちに決まった。

8/7(土)コンコルデアモーテル(6:00)---シガル町(10:00)---キャンプ地(15:35)

 モーテルに泊まっていたヨーロッパからの3パーティも早立ちである。ほぼ前後してジープで出発した。どのパーティもジープは2台である。彼らはバルトロ氷河を目指している。出発して30分は舗装した道路をハイスピードで走る。風を切って走るので、ジープの後部座席では寒くなる。急にジープが止った。直前を走っていたヨーロッパパーティのジープも止っている。どうしたのだろうと思い車を降りると、右側の山の斜面から泥流が流れ道路を横断し、左側のに向かって流れている。の人達(全て男性のみ)が大勢で、に入らないよう土木作業をしている。道路のこちら側ではトレッキングのジープが10台ぐらい止っている。向こう側では、スカルドの儀式に行くための車が車列をつくっている。村人たちの泥流の方向を変える作業は終わった。次に道路通行の作業をするかと思えば、彼らは集まって話し合いを始めた。輪になって延々と話し合いをしている。その内に、キレイな整備された大型ジープに乗った役人がやって来た。お役人は視察した後、村人と話し合っている。そしてシュプレヒコールが起こり、村人が腕を突き上げる中、お役人は帰っていった。ラーマット(ガイド)に聞くと、お役人に災害を見せて復旧の要求をしたとのことだった。その後、村人の一部が頭大の石を泥流の中に投げ入れ始める。30分も作業しただろうか。投げられた石の上をジープが通った。3時間かかり開通したのだ。その間、我々はジィーと見守るしかなく、よそ者の我々は石を投げ入れる手伝いもはばかられた。P8110066

 10時にシガルに到着し、軽い昼食をとる。シガルはスカルドに次ぐ比較的大きな町で中心地にはバザール(といっても数軒の店)がある。ここでポーターが4人乗り込む。これから先は土道になる。土道は所々大きくエグレ、ジープは大きく揺れる。シガール川の左岸に沿って進むとバルトロ方面(アスコーレ)との分岐になる。他のパーティは右折してバルトロ氷河に向かった。我々は左折し橋(ワイヤーの吊橋で床は木板で、そこをジープで走る)を渡りアランドに向かう。バーシャ川の崖地の左岸に付けられた狭い土道を走るが、落ちれば川まで転がり落ちる。即死だろう。ジープのパイプフレームにしがみついている手に力が入る。対向車が来ないのが救いである。と言うか対向車など来ない場所なのだ。途中に何箇所か右側の山側から渓流が流れ落ちてくる。人は下車し渡渉する。ジープは川の中を流されそうになりながら渡っていく。なるほどアドベンチャラスだ!

 アランドのかなり手前でジープは止った。アランドまで車で行くと聞いていたが、これ以上、進めないと言う。荷物をおろして川岸まで降りるとワイヤーが架かっていてチロリアンブリッジで激流の川を渡り、対岸でキャンプするという。まだ、15時で早いと思ったが初キャンプでもあり、途中3時間も通行止めがあったりしたのでキャンプに決めたのだろう。設営を見ていたら、我々用のテント2張り、食堂テント1張り、キッチンテント1張りの計4張りを設営した。人数は我々3名、ガイド(ラーマット)、サブガイド(イルファーン)、コック(ジャーン)、コック助手(カーン)、ポーター4名の11名である。残りのポーターは明日アランドから来るらしい。

8/8(日)キャンプ地---アランド村2770m(10:40、11:00)---ブックホン・キャンプ地3070m(14:00)P8120078

 昨晩のビーフカレー・マトンカレー・ナン・ライス・サラダなど豪華で、今朝の朝食もオムレツ・ナン・揚げパンなど食いきれない。昨晩から食べ過ぎで胃モタレしムカムカしている。アランド村に向けて歩き出すが、車が通れる道ではない。1時間ぐらい歩くと前方からトラクターが荷台を牽引してやってくる。このガタガタした河原の道なき道は、トラクターしか通れない。トラクターは昨夜のキャンプ地に向かって走り去った。荷物を回収するためである。ガイドと共に歩いているとトラクターが荷物と、コック・ポーター達を乗せて追い抜く。コック・ポーターは降りて歩き出す。彼らは早い、トラクターより先に行ってしまった。アランドは氷河モレーンの末端に近いで大麦畑が広がり牛など家畜を飼い暮らしている。電線が架設されていたが、にはまだ送電はされていない。の世話役(トラクターの持ち主・運転手)の家に招かれグリーンティを頂戴する。ここでポーター頭のジャンを紹介された。アランドでポーター15名、ポーター頭(ジャン)、世話役が合流する。総勢28名のキャラバン隊だ。予想もしていなかった大部隊になった。今まで、ジープとトラクターで荷物を運んできたが、これからはポーターが担いでトレッキングが始まった。ポーターは30kgは背負っているだろう。走るように、すごいスピードで先に進んでいく。歩いても歩いても、振り返ればアランドが見える。氷河の左岸の山の中腹を上がったり下がったりしながら距離を稼ぐが、スケールが大きく、3時間歩いてもアランドのが見えた。予定ではチョゴブランシャまで行く計画だが、その手前でキャンプになった。正確な地図がないのでチョゴブランシャまでの距離と時間がつかめない。また、雨も降ったり止んだりで天気もよくない。

8/9(月)朝から雨で沈殿P8120080

 中山は、下痢気味で、ムカムカし熱もあるので食事を抜き、高木さんに消化剤をもらい、ひたすら寝ていた。ポーター達は、石を積み上げた放牧のための小屋に寝ている。ラーマット(ガイド)はサマーハウスと言っていたが、この場所のように水の流れがあり緑地(柳の潅木、草地)になっている所には、かならずサマーハウスが造られていた。朝6時ごろには、村人(ほとんど女性)が鎌と背負子と水筒を持って更に上に登っていく。越冬用の燃料となる柴、家畜の飼料用の草を刈取る日課となっている労働のためだ。

8/10(火) キャンプ地(7:00)---チョゴブランシャ(9:00)---カス(11:00ランチ)---グリーンチョ3780m(17:00)

 チョゴブランシャまで2時間だった。一昨日もう少しガンバレば良かったと思う。ここにも石を組んだサマーハウスがいくつも造られていた。牛と人の踏跡(牛糞だらけ)をさらに進みカスでランチをとる。先行していたコックやポーターがターフを建ててテーブルに食事を用意し待っている。またもや豪華なランチである。14時先行していたポーター頭がテントを張ると言っている。一昨日も14時テントを張った。でも、今日は予定のグリーンチョまで行かないと先には進めない。遅れ遅れて予定を消化していない。ジャン(ポーター頭)にグリーンチョまで「何時間かかるか」聞くとポーターの足で2時間と言う。我々だったら4時間だろう。先に進むように言うが、今度はガイドのラーマットが異議を申し立てる。ラーマットと我々3人の立話しになるが、一番意思が通じるのは大内のようだ。どうも私は英語ができない上に過激らしい。高木さんは、年齢から来る歩くスピードの遅さであまり強く言えないようだ「ガンバルからグリーチョに行こう」と言ってくれた。ここで高木さんはガイド・サブガイドと行くことにし、中山・大内はポーターと先に進む。踏跡だけの道だが、彼らはルートをよく知っている。私は何度もルートからずれて立ち止まると、離れた所をポーターが登っていく、軌道修正をしながら、前に進む。グリーンチョに16:40に着いた。ザックを置き高木さんを迎えに引き返す。17:40高木さんに出会い、しばらくすると大内もミルクティを持ってやって来た。ガイドを含めた5人でゆっくりとグリーチョに向かう。19:40キャンプ地に到着した。今日は約12時間歩いたことになる。夜に我々3人とラーマット(ガイド)と今後の予定について話合うことにする。高木さんは「ポーター一人をつけてアランドに引き返すから、中山・大内でハラモシュ峠を越えてくれ」と提案するが、ラーマットはimpossbleと言う。「パーティを分けることはできない」との理由だ。天気も悪く、ハラモシュ峠は降雪もあるだろう。日程は厳しく余裕は全くない。峠をこえても、その後の道路は寸断されていて立往生は必至だろう。ガイドの言うパーティを分ける分けないは理由にならない。もしメンバーが10人なら1~2人体調を崩す者が出て当然だからだ。でも、状況から見ると来た道を下るのが正解に思う。明日は、ガイドとチョゴルンマ氷河を散歩することし、明後日アランドに引返すことに決まった。P8120093

8/11(水) キャンプ地(8:30)---チョゴルンマ氷河(11:30)----キャンプ地(13:30)

ラーマット(ガイド)、イルファーン(サブガイド)、ジャン(ポーター頭)、中山、大内の5人でチョゴルンマ氷河に降立ち、上流を目指す。氷河はクレバスを避けながらジグザグに進まなくてはいけない。氷河表面には融けた水の流れが幾つも流れている。ジャンはルートを探すのに長けている。あっという間に引き離される。やっと土砂がかぶっていない白い氷の上を歩くことができた。氷河の真ん中あたりに来たので、もうこれでよいだろうUターンする。

8/12(木) キャンプ地(7:10)---ランチタイム(11:00)---チョゴブランシャ(14:30)

 早朝から快晴で、テント地からスパンティーク7027mとマルビリング7458mのピークが初めて確認できた。いままでもスパンティークは見えていたが、頂上は雲で被われていた。二つの峰を写真におさめキャンプ地を後にする。下から牛が10頭ぐらい上がってきた。放牧の牛である。このグリーンチョはの人達の最奥部の生活圏である。彼らの徒歩での行動範囲は異常に広い。P8120096

8/13(金) キャンプ地(7:00)---8/8のキャンプ地(9:00)---アランド(10:20)

 来た道を帰っているので、距離・時間も読める。のんびり下ってアランドのはずれの橋のそばにキャンプを張る。老人や子供たち(全て男性)がやって来て我々を見ている。あまりトレッカーが来ないのだろう、物珍しそうに見ていて、立ち去らない。アランド村は貧しい。物品がないように思われる。ここでは、ペットボトルでさえ貴重品になるだろう。主食は不足しているか、どうかはわかりかねるが、嗜好品(甘いもの)はない。子供たちだけでなく、若い娘も老人も、掌で唇を何度もさすり、食べ物を要求する。ノドアメの袋を持っていたので、数個あげると、もっとよこせと迫ってくる。あげくの果てに袋ごと握り締めるが、強く「ノー」と言うとサット手を引き走り去っていく。無理に取ろうとはしないが、本当に欲している。

8/14(土) アランド村(6:30)---ビシル村(11:30)---ムリスワ村(13:30)キャンプ

 ガイドは数日前にポーターに手紙を持たせ走らせて、ジープを呼ぶ手配をしていたが、途中の渓流が増水し、往路にジープで渡渉した所が通れない。ジープの来れる村まで歩いて下ることになった。アランド村から幾つかの村を通り過ぎムリスワ村まで歩く。さてジープだが故障して別のジープを呼んでいる今夜ジープが来るとのことだった。「ほんまかいな」「あんな崖地を夜中に走ると落ちるんちがうか」半信半疑である。アランド村のポーター達15名はここでお別れである。彼らは賃金とチップを受け取り、集合写真を撮った後、歩いてアランドに帰っていった。彼らの健脚なら3時間ぐらいで帰り着くだろう。

ポーター達が去った後、テントの中はハエだらけなので、キャンプ地にテーブルを出し3人で座っていると、遠巻きに村人の老人と子供たちが20名ぐらい、我々を見ていた。そして段々近づいてきて我々を取り囲んだ。老人が何か言っているが、さっぱりわからない。ラーマットを呼んで聞くと「少女が皮膚病で、薬はないか」とのことのようだ。高木さんがムヒ(虫刺されの薬)を取り出し、少女の手に塗ってやる。顔や手は垢まみれである。高木さんは「手を洗わないと皮膚病になるわ」と言いながら何箇所か塗っていた。椅子に座って前かがみで薬を塗る姿は、まるで本当の医者のように見えた。全員去ったのでボケーとしていたら、また、やって来た。今度は、子供を抱いた母親がいて、ラーマットに聞くと「子供は8歳の女の子で病気だ」と言う。病気は一目でわかるが、2~3歳にしか見えない。足は痩せこけ歩けないのだろう。これはどうしようもない。ラーマットに「ビッグ ホスピタル」と言うと、彼は両手を上げ、首を振った。呆然と見ていると、母親は子供を抱いて立ち去った。何ともやるせない気分になる。

8/15(日)キャンプ地(7:30)---2台目のジープと出会う(8:30)--テサール村(8:50)--シガル町(12:00)---スカルド町・マッシャーブルムホテル(13:00)

 朝起きると昨夜10時にジープが着いたとのことでびっくりする。ジープは1台来ていた。ジープに荷物を積み13人がジープにしがみつく。少し走ると、ジープが乗り捨てられていた。フンザガイドのジープで本当に故障したのだ。それをやり過ごし1時間走ると2台目のジープと鉢合わせした。2台目のジープはしばらくバックで走りUターンした。2台目のジープに我々3名とラーマット(ガイド)が乗り移った。往路はシガール川の左岸を走ったが、復路は右岸を走る。両岸に道路は付けられていることを知った。右岸は、人家が多く村の数も多い。同じ道路を走らないのはガイドの気配りであろうか。スカルドに着くと少し高級なホテルに泊まろうと言うことになり、マッシャーブルムホテルに向かう。このホテルはコンコルディアモーテルと、そう大差はないがシャワーでは温水が出る。さっそく湯を浴びて髭を剃る。7時の夕食にレストランに行くと日本人の今井さんと会った。今井さんはバルトロ氷河の予定が、途中で腰が痛くなり一人でスカルドに下り、帰国するとの事だった。しかし、スカルドからイスラマバードの飛行機に乗れず1週間このホテルに滞在し、毎日飛行場に通っている。その他の欧米人のグループも何組かいるが同じ状態だという。大洪水でカラコルムハイウェイが寸断され通行不能になり、陸路では帰れない。空路はお客が大勢詰めかけ、また、飛行機も着陸したりしなかったり、有視界飛行のため雲が出ると、旋回してイスラマバードに帰ってしまう。そんなことを繰り返して1週間待っているそうだ。その話を聞いたあとで食事していると、MINGMA SHERPA(32歳、ネパールのシェルパ、ガイド)が日本語で話しかけてきた。彼は今シーズンNANG PARBAT8125mとGASHERBRUMⅠ峰8065mを登り、8000m14座のうち13座に登頂した。来年、KANCHANJANGA8585mを登る予定という。KANCHを登ればネパール人で最初の14座登頂者になるそうだ。彼はプロのガイド(名刺をもらった)だが、今回はプライベートで弟とシェルパ仲間と来ている。彼らも10日間ホテルに閉じ込められていて、早く帰りたいそうだ。また、NPOの仕事で滞在している椎野さんからも情報を頂いた。

8/16(月)マッシャーブルムホテル---スカルドAP---マッシャーブルムホテル

 ジープでスカルド空港に行く。飛行機は着陸したが、空港建物の中にさえ入れなかった。大勢の人が詰めかけていた。今井さんも搭乗できないでホテルに帰ってきた。持っているパキスタン航空のEチケットをよく読むと予約リストアップされている券で、コンファームされた券ではない。今井さんも我々と同種のチケットだった。このチケットでは搭乗できないとの結論に達し、ラーマット(ガイド)と相談し、ジープで裏道を通りイスラマバードに向かう手配をする。裏道は通る事ができても3日はかかるそうだ。ラーマットの話では何とか通れる可能性はあるだろう。

8/17(火)マッシャーブルムホテル---コンコルディアモーテル

 朝8時出発だが、ジープが来ない。ラーマットを問い詰めると軽油が配給制に成り許可がないと入手できないと言う。こりゃ困った。大内とラーマットが役所に行くが、ここでも大勢の人がいて、担当の役人が留守で許可がでない。そんなこんなで半日が過ぎてしまう。軽油の配給はスカルドでの話でチラス町やギルギッド町では軽油は買えるそうだ。ラーマットはチラスからジープを呼寄せる手配をする。今日も今井さんは飛行場に行ったが、飛行機は旋回し着陸しなかった。今井さんは旅行会社に相談にいった。夕方になりマッシャーブルムホテルは高いのでコンコルディアモーテルに引っ越す。その話を聞いてシェルパ達も移動してきた。その夜10時頃か、ラーマットが来てコンファームされたチケットをイスラマバードのフンザガイドの社長が予約したので、もう一度フライトにチャレンジしてくれと言う。ジープの手配もできているそうだ。正規のチケットが手に入れば、空港に行き、だめならジープでギルギッド経由チラスに行けばよい。高木さんは用意したジープでギルギッドに行く予定である。

8/18(水)コンコルディアモーテル(8:00)---スカルドAP(8:30~12:40)---イスラマバードAP(14:00~23:00)---バンコックAP(19日6:25)---成田(19日15:45)

 中山・大内はコンファームされたチケットを持っていたので空港建物内に入れた。高木さんはジープでギルギッドに行く予定だが、飛行機が飛ぶまで外の駐車場で待機している。今井さんも旅行会社と掛け合ったのだろう正規のチケットを手に入れた。荷物検査を受けてロビーで待つが飛行機が来ない。周りのパキスタン人が教えてくれたが、飛行機はイスラマバードで整備中で飛び立っていない。フライト時間は40分だから4時間遅れている。暑い外で待っている高木さんも大変だ。外にいる高木さんから携帯電話で飛行機が来たと知らせてくれた。中にいると全くわからない。今井さんは隣に座っているが腕を組み目を閉じて動かない。「飛行機に搭乗し飛び立たないと、何があるかわかりません。そういう国です」とおっしゃった。その通りで、この時ばかりは、おんぼろ飛行機でも着陸してくれと祈った。運よく飛行機は着陸し、我々も今井さんも搭乗できた。当初の予定どおり19日に帰国したが、これは奇跡としか思えない。

あとがき

高木さんはギルギットからカリマバードに移動し、フンザの堰き止められたダムを船で見学したそうだ。帰国時には、ギルギットからの航空券が入手できなくて、車で2日かけ裏道を走りイスラマバードに辿り着いた。その際、契約外ではあるが、ラーマット(ガイド)も同行した。高木さんも当初の予定どおり9月1日に帰国した。帳尻は合ったわけである。

帰国して1週間は、パキスタンに閉じ込められた悪夢を見続けたが、これはどういう精神状態に陥ったのか、体内に入り込んだ悪性大腸菌が1週間生息していたためなのか。未だ自身でも理解できていない。それにしても、高木さんは、更に旅を続け、約一月間滞在した。また、一緒に帰国した大内さんは、再度、チョゴルンマ氷河に行きたいとの賜っている。この2人の精神構造は、これから分析する。

<資料>

チョゴルンマ氷河トレック・ルート1-----「chogo_lungma_gl_trek_route_1.pdf」をダウンロード

チョゴルンマ氷河トレック・ルート2-----「chogo_iungma_gl_trek_route_2.pdf」をダウンロード 

<関連記事>

「カラコルムハイウェイの水没とその後」(記:高木):http://jfma.news.coocan.jp/KHWsuibotsu%20takagi.htm


モロッコの旅09/09

2009年11月08日 | 海外トレッキング

           モロッコの旅

          ---ツブカル登山とカスバ街道---

                                   2009/11  高木

モロッコは、北アフリカの西端にある王国である。そのモロッコ内陸部にあMttubukaru0909るアトラス山脈の最高峰ツブカル山(4167m)をカミさんと登りに行った。

   9月下旬、羽田より関空を経てドバイまで飛び、カサブランカ行きの搭乗口に着くと、ほとんどの人がジェッラーパやカフタンという民族衣装を着ていた。24時間の長旅でカサブランカの空港に降り立ったが、入国手続きや荷物受け取りに予想以上に時間がかかり、空港駅から列車で 30分、カサ・ボォワジャー駅に着いたのは午後2時になっていた。目指した駅隣りのホテルは満室だったので、プチ・タクシーをつかまえ、次の候補のホテルに向かった。タクシーはメーター制で、20分走って15DH(180円)と安い。

夕方、港近くのシーフード・レストランに行った。モロッコは有数の漁場を持ち、マグロ、タコ、イカなどを日本に輸出している。生牡蠣がうまいとのことKasuba0909であったが、旅のスタートから腹を壊すのが怖くてやめ、エビのグリル、イカのフライ、魚の煮込み、小エビのグラタンと、熱を通したものにした。モロッコワインも注文し、満足のいく夕食であった。

報告書:モロッコの旅---ツブカル登山とカスバ街道

報告書(1)-------------「Morocco-1.doc」をダウンロード

              ①カサブランカへ②マラケシュへ③ツブカル小屋へ

報告書(2)-------------「Morocco-2.doc」をダウンロード

              ④ツブカル山登頂

報告書(3)-------------「Morocco-3.doc」をダウンロード

              ⑤下山マラケシュに戻る⑥カスバ街道の出発点

報告書(4)------------「Morocco-4.doc」をダウンロード

              ⑦トドラ渓谷⑧サハラ砂漠⑨迷路の町フェズへ⑩帰国の途


シルクロードの旅07/6

2007年09月17日 | 海外トレッキング

           シルクロードの旅

              ------高木章雄------Tenthi

2007年6月中旬に、中国の西安から、シルクロードのオアシス都市 天水、蘭州、西寧、敦煌、ウルムチ、トルファン、カジュガルを回る旅に出た。

    写真:ウルムチ郊外の観光地「天地」

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