前日の夜から母と、近くに住む叔父さん夫婦と従姉との5人で泊まったが、
病状にあまり急変の様子は無いとのことであったので、
叔父さん達には一度帰ってもらい母と2人で看病をすることに。
朝方看護師が病室を訪れ血圧を測ったが上が40台。
朝を迎えると父の血圧は測定出来ない状況に。
しかし心拍数や血中酸素の数値はまだ大丈夫との事。
この状況下ではおそらく今日明日がヤマとの判断であったため、
会社への報告と仕事の処理のため実家に戻る事にした。
自身は10時には病室には戻ると母に告げての実家への帰宅であったが、
これは自分自身が一生後悔する判断となってしまった。
このような緊迫の状況であったのに仕事の処理が長引いてしまい、
病院に向おうと思った10時過ぎに母から連絡が。
「家族を呼んで欲しいと看護師さんが言っている」
たった5分程度の道中であるが、こんな時に限って2つしかない信号に引っかかってしまう。
車を乗り捨て病室に駆け込んだときにはすでに父は息を引き取っていた。
ほんの数分前の出来事であったらしい。
しばらくして主治医が病室で臨終を告げる。
2007年11月21日 午前10時40分 父永眠
忘れられない日となる。
主治医が告げる臨終には間に合ったが、
自分としては息を引き取るときには必ず皆でと思っていたのに、
痛恨の判断ミスとなってしまった。
臨終を告げられた暖かい父の手を握りながら、
「ごめんな、ごめんな・・・」としか言葉にすることが出来ず、
その後の出来事はほとんど記憶に残っていない。
葬儀場に連絡し日取りを決め父の亡骸と実家に戻ったが、
何が起こったのか家族の誰もが理解できずにおり、
放心状態のまま時の流れに身を任せるしかなかった。
父の病気の発覚から4ヶ月余り。
ちなみこの日は父の実父の命日の1日前であった。
病状にあまり急変の様子は無いとのことであったので、
叔父さん達には一度帰ってもらい母と2人で看病をすることに。
朝方看護師が病室を訪れ血圧を測ったが上が40台。
朝を迎えると父の血圧は測定出来ない状況に。
しかし心拍数や血中酸素の数値はまだ大丈夫との事。
この状況下ではおそらく今日明日がヤマとの判断であったため、
会社への報告と仕事の処理のため実家に戻る事にした。
自身は10時には病室には戻ると母に告げての実家への帰宅であったが、
これは自分自身が一生後悔する判断となってしまった。
このような緊迫の状況であったのに仕事の処理が長引いてしまい、
病院に向おうと思った10時過ぎに母から連絡が。
「家族を呼んで欲しいと看護師さんが言っている」
たった5分程度の道中であるが、こんな時に限って2つしかない信号に引っかかってしまう。
車を乗り捨て病室に駆け込んだときにはすでに父は息を引き取っていた。
ほんの数分前の出来事であったらしい。
しばらくして主治医が病室で臨終を告げる。
2007年11月21日 午前10時40分 父永眠
忘れられない日となる。
主治医が告げる臨終には間に合ったが、
自分としては息を引き取るときには必ず皆でと思っていたのに、
痛恨の判断ミスとなってしまった。
臨終を告げられた暖かい父の手を握りながら、
「ごめんな、ごめんな・・・」としか言葉にすることが出来ず、
その後の出来事はほとんど記憶に残っていない。
葬儀場に連絡し日取りを決め父の亡骸と実家に戻ったが、
何が起こったのか家族の誰もが理解できずにおり、
放心状態のまま時の流れに身を任せるしかなかった。
父の病気の発覚から4ヶ月余り。
ちなみこの日は父の実父の命日の1日前であった。