事務局長通信

67年目の夏 ナガサキ

平成24年度 長崎平和宣言
 
 人間は愚かにも戦争をくりかえしてきました。しかし、たとえ戦争であっても許されない行為があります。現在では、子どもや母親、市民、傷ついた兵士や捕虜を殺傷することは「国際人道法」で犯罪とされます。毒ガス、細菌兵器、対人地雷など人間に無差別に苦しみを与え、環境に深刻な損害を与える兵器も「非人道的兵器」として明確に禁止されています。
 1945年8月9日午前11時2分、アメリカの爆撃機によって長崎に一発の原子爆弾が投下されました。人間は熱線で黒焦げになり、鉄のレールも折れ曲がるほどの爆風で体が引き裂かれました。皮膚が垂れ下がった裸の人々。頭をもがれた赤ちゃんを抱く母親。元気そうにみえた人々も次々に死んでいきました。その年のうちに約7万4千人の方が亡くなり、約7万5千人の方が負傷しました。生き残った人々も放射線の影響で年齢を重ねるにつれて、がんなどの発病率が高くなり、被爆者の不安は今も消えることはありません。
 無差別に、これほどむごく人の命を奪い、長年にわたり人を苦しめ続ける核兵器がなぜいまだに禁止されていないのでしょうか。
  昨年11月、戦争の悲惨さを長く見つめてきた国際赤十字・赤新月運動が人道的な立場から「核兵器廃絶へ向かって進む」という決議を行いました。今年5月、ウィーンで開催された「核不拡散条約(NPT)再検討会議」準備委員会では、多くの国が核兵器の非人道性に言及し、16か国が「核軍縮の人道的側面に関する共同声明」を発表しました。今ようやく、核兵器を非人道的兵器に位置付けようとする声が高まりつつあります。それはこれまで被爆地が声の限り叫び続けてきたことでもあります。

 しかし、現実はどうでしょうか。
 世界には今も1万9千発の核兵器が存在しています。地球に住む私たちは数分で核戦争が始まるかもしれない危険性の中で生きています。広島、長崎に落とされた原子爆弾よりもはるかに凄まじい破壊力を持つ核兵器が使われた時、人類はいったいどうなるのでしょうか。
 長崎を核兵器で攻撃された最後の都市にするためには、核兵器による攻撃はもちろん、開発から配備にいたるまですべてを明確に禁止しなければなりません。「核不拡散条約(NPT)」を越える新たな仕組みが求められています。そして、すでに私たちはその方法を見いだしています。
 その一つが「核兵器禁止条約(NWC)」です。2008年には国連の潘基文事務総長がその必要性を訴え、2010年の「核不拡散条約(NPT)再検討会議」の最終文書でも初めて言及されました。今こそ、国際社会はその締結に向けて具体的な一歩を踏み出すべきです。
 「非核兵器地帯」の取り組みも現実的で具体的な方法です。すでに南半球の陸地のほとんどは非核兵器地帯になっています。今年は中東非核兵器地帯の創設に向けた会議開催の努力が続けられています。私たちはこれまでも「北東アジア非核兵器地帯」への取り組みをいくどとなく日本政府に求めてきました。政府は非核三原則の法制化とともにこうした取り組みを推進して、北朝鮮の核兵器をめぐる深刻な事態の打開に挑み、被爆国としてのリーダーシップを発揮すべきです。
 今年4月、長崎大学に念願の「核兵器廃絶研究センター(RECNA)」が開設されました。「核兵器のない世界」を実現するための情報や提案を発信し、ネットワークを広げる拠点となる組織です。「RECNA」の設立を機に、私たちはより一層力強く被爆地の使命を果たしていく決意です。

 核兵器のない世界を実現するためには、次世代への働きかけが重要です。明日から日本政府と国連大学が共催して「軍縮・不拡散教育グローバル・フォーラム」がここ長崎で始まります。
 核兵器は他国への不信感と恐普Aそして力による支配という考えから生まれました。次の世代がそれとは逆に相互の信頼と安心感、そして共生という考えに基づいて社会をつくり動かすことができるように、長崎は平和教育と国際理解教育にも力を注いでいきます。

 東京電力福島第一原子力発電所の事故は世界を震撼させました。福島で放射能の不安に脅える日々が今も続いていることに私たちは心を痛めています。長崎市民はこれからも福島に寄り添い、応援し続けます。日本政府は被災地の復興を急ぐとともに、放射能に脅かされることのない社会を再構築するための新しいエネルギー政策の目標と、そこに至る明確な具体策を示してください。原子力発電所が稼働するなかで貯め込んだ膨大な量の高レベル放射性廃棄物の処分も先送りできない課題です。国際社会はその解決に協力して取り組むべきです。

 被爆者の平均年齢は77歳を超えました。政府は、今一度、被爆により苦しんでいる方たちの声に真摯に耳を傾け、援護政策のさらなる充実に努力してください。
 原子爆弾により命を奪われた方々に哀悼の意を表するとともに、今後とも広島市、そして同じ思いを持つ世界の人たちと協力して核兵器廃絶に取り組んでいくことをここに宣言します。

2012年(平成24年)8月9日
長崎市長 田上 富久


「平和への誓い」  
 67年前の今日、この浦上の上空に原子爆弾が投下され、数千度の熱線、強烈な爆風、想像を絶する放射線を浴びせられ、一瞬にして市街地は廃虚と化し、無防備の市民十数万人が死傷したあの凄惨(せいさん)な光景が昨日の出来事のように鮮明によみがえり、この胸が締め付けられる思いです。

 私は当時15歳、自宅は原爆投下地点から約700メートル西の城山町にあり、当日は、3キロ南の三菱電機の地下工場で軍需品の生産に従事しておりました。何の前触れもなく停電し、トンネル内が真っ暗になり、一呼吸して、「ドーン」と強烈な爆風でその場に吹き唐ウれました。気がつくと入り口の方が騒然として外の工場、事務所にいた人たちがなだれ込んでおりました。「工場は全滅だー」と殺気立った声で叫んでいました。懐中電灯で照らすとほとんどの人が負傷しており、手の施しようがありませんでした。

 しばらくして、友人と2人で工場を出て城山の自宅へ向かいました。港の対岸にある県庁庁舎が延焼中で、工場前の海岸通りは負傷者が助けを求めて右往左往しておりました。旭町の住宅街は火災中で通れず、山越えしようと稲佐山へ向かいました。3合目くらいに入りましたが、木は唐黶Aあちこちに煙が立ち込め、陰を求めて負傷者が10人、20人とたむろしており、息絶えた子どもを抱きしめてうなだれている母親、遺体に寄り添って泣きじゃくる子ども、「水をくれー」と叫ぶ声、市街地を見下ろすと、見渡す限り街は廃虚と化し、煙の中には大型鉄筋の残骸が突き出していました。淵(ふち)神社に出て梁川橋まで煙の中を一気に走り、やっとの思いで抜け出しました。橋の上には人、馬の黒焦げた遺体が散乱し、遺体の中には口から内臓が飛び出しているものもありました。三菱製高フ工場はアメのように曲がり、工場の中から必死に助けを求める悲鳴が聞こえてきましたが、どうすることも出来なかったので浦上川へ下りました。川の中には焼け焦げた人など無数の負傷者が水を求めて折り重なるように唐黷トおり、足の踏み場もないくらいで、流れている遺体もありました。上流へ急ぎましたが次の抽站エが真ん中から折れて川に落ちており、その隙間を抜けて城山の石段を上り、道に出たところ、近くの三菱製高フ鉄くずの置き場の山ほど積んでいた鉄くずが真っ赤に焼けて、まるで溶鉱炉のようになっておりました。これでは人間はひとたまりもないと思いました。

 赤茶けた畑の中を我が家へ急ぎました。家は跡形もなく、近くに母と弟の黒焦げた遺体が並べてありました。父が大やけどを負いながらも先に帰って重傷を負った妹2人、弟1人を防空壕(ごう)に寝かせていました。口も利けず、目も見えず、水も飲めず苦しさにうめくのが哀れで早く楽になれればいいと思いました。夜になっても周囲の山々が赤々と燃えていました。散らばっている木片を集めて母と弟の遺体を火葬しました。肉親の行く方も知れず亡くなった多くの人々のことを思えば、親、兄弟の最後を見届けることができたことで悲しみの中にも救われた思いになりました。妹2人、弟1人は5日後に息を引きとりました。

 戦争がなければ、核兵器がなければこの悲劇は起こらなかった。いかなる国の核兵器も廃絶し、戦争のない平和な社会を目指して命の限り訴え続けることをお誓い申しあげ、15万余の犠牲者の霊のご冥福をお祈りいたしますと共に、今日もなお後遺症に苦しんでおられます方々の一日も早いご快復を祈念いたしまして平和への誓いといたします。

平成24年8月9日
被爆者代表 中島正徳

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