事務局長通信

第2回陸前高田学校≠Q日目・午前メモ

第2回陸前高田学校≠Q日目・午前メモ

※陸前高田市内視察

*観光物産協会みよしさん(ガイド)
・この地域は、津波の被害を古くは縄文時代から受けてきた場所、「なぜ再び被害にあったのか」ということをずっと考えてきた。
・昭和35年チリ沖地震津波(この時は津波だけ)、その時の高さは1、5m。防潮堤作ったが、それ以降も海に向かって街が作られていった。田老町では、世界一の高さのものを作っていたが、津波はそれも越えてきた。
・津波は、波でなく「壁」。その高さで、ずっと押し寄せてくる
・子どもの頃に、具体的な話しを聞かされていなかった。本棚の中に記録を残すだけではダメ。後世に伝える、言葉で伝えていくことが大事。
・地震発生時は、車の運転中。震度5を超えると車中でも横揺れように体感する。
・観光協会の建物14.5mの高さへ津波が来たとあるが、実際には21mの高さまで。19.5mにいた3人は必死に耐えて助かった。
・コンクリートの壁に穴が空いているのは引き波が原因。押し波の1.5倍の強さがある。流されたものがぶつかった。駆け上がり現象などもあり、大槌町では38mの高さにあった家が流された。
・女川原発に被害があったら、様々な問題を抱えたと思う。また、発生時刻が夜だったら、更に犠牲が増えていたかもしれない。
・陸前高田の松林。350年かけて作られたが、一瞬ですべてなくなった。防潮堤の後ろに土を入れて、松林を復活させようとの取り組みをしている人たちもいる。
・震災遺構、陸前高田市の方針は犠牲者の出た建物は残さない。3つほど残している。市民の中には、いろいろと意見があり市民会館(多くの犠牲者が出た)で娘さんは亡くしたお母さんは、せめて娘が生きた証として「柱を残して欲しい」と言った。なかなか難しい、どの地域でもそうだか慎重に考えたい。
・避難誘導もとても難しい判断を迫られた。そのことで、長く辛い気持ちを引きずってしまっている人もいる。行方不明者は203名、まだ何も見つかっていない。
・土地のかさ上げに使ったベルトコンベヤー135億円を要した。山の高さが半分になった。街ができた時にどれくらいもどってくるか、当初は帰りたいと思っていた人たちも年月が経つと待てなくなる。
・「津波石」という津波の記録を石に刻んで残してきたものがある。津波の避難は高さで逃げろ、川沿いは逃げたらあかん、てんでんこ。津波は、他の災害とは違う。二度逃げが大事。
・海沿いにあった気仙中学校長、犠牲を一人も出さなかった。教員委員会の作った避難マニュアルを捨てたから。
・5年経って、一本松の前で、ピース写真撮る人がいる。悲しくなる。
・津波の被害、同じ町でも到達したところとそうでないところの差が激しい。様々な感情がわき出てくる。
・陸前高田市、浸水域になった場所には仮設住宅は建設しない方針。市内の小中学校では1ヶ所を除いてある。一度も校庭を使わないで卒業する子どもが出てくる。


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