投稿日:2007年 4月25日(水)00時39分2秒
第二章 中大初の全学バリケードが転換点に
<細目次なし、年表は後で補強>
1,回顧論議の方法的再整理
この章がタイトルの「私的全共闘前史(全中闘史)」の本論の入り口だが、可能な範囲で時代背景に触れて想像力を喚起しつつ筆を進めたい。多くの読者が先人の論述で、時代錯誤や記憶違いやとんだ自己美化やの麗しくも首肯できない惨状を見ている。自分なりの思い出話は尽きぬほどあるが、常に自分が主人公の思い出書きは傍迷惑だ。そこで一般時代背景は神津陽著「一世風靡語事典」、学生運動関連事項は「資料 戦後学生運動」で確認し、中大関係の史実は「中央大学新聞バックナンバー」をベースに、当時の学生側多数の観点は室淳一「中大闘争総括」(雑誌「叛旗六号」)、大学側の見解は「中大百年史」を参考にして書き継いでゆくつもりだ。
60年安保後の混乱期を経て、1965年頃には党派再編の息吹は見えたが、大衆運動の展開像は誰にも描けなかった。問題意識は旺盛な私は時折は原潜闘争や日韓闘争にも出かけたが感慨は薄く、また久保井の誘いで社学同統一派集会に顔を出したが頭でっかちの私は予測可能な知識整理には何の魅力も感じなかった。だが65年12月の中大学館闘争での全学バリケードとの遭遇は、自分も当事者として行動する大衆運動の可能性を引き寄せる転機となった。私はこの可能性を翌年の学館闘争勝利につなげ、その翌年の中大学費闘争の大衆運動の勝利と党派介入の悲劇を見た。これらの経験を反芻し、68年春に三多摩に移り全共闘的諸運動に向かったのである。この経緯については1977年刊の田端書店「全共闘 解体と現在」に少し書いた。
65年末の中大学館バリストは、社学同系活動家にとっては同年10月の同志社大学館管理権獲得をモデルにした自信を持った企画だった。わずか5日間のバリストでの学生側勝利体験は、翌年1月よりの巨大な早大学館・学費長期バリストに続いてゆく。だがノンポリ学生の私は、そのような大局的観点も展望も持ち合わせていない。私は当時は大学三年で長い社会勉強にそろそろ飽きて、真法会での司法試験学習に力点を移す準備をしていた。だが噂を聞いて突然の学館バリストを見物に行っただけなのに深い衝撃を受けて、その後は処分撤回闘争にのめり込み、結局は上京時の規定方針だった人生の進路を捨てるに至るのだから、私的には人生に関わる重大事件だった。
60年安保後の学生戦線は党派再編劇が主導し私には宗教運動に見えて、何で党派利益が自己利益につながるのか皆目分からなかった。全学連継承の革マル派内部から63年の中核派分裂、64年には共産党系の民青全学連再建、他方で社学同・構改派・社青同旧三派から中核が加わり構改が落ちた新三派にと分裂統合を繰り返していた。それが65年になると民学同結成、社青同解放派結成、ベ平連結成、社学同東西統一が進み、新左翼系では当時は三派系都学連と革マル全学連が短期間だが共闘をしていた。党派再編の新しい風に興味はあったが、身体が動くほどの魅力は感じなかった。
政治運動では64年の原子力潜水艦寄港反対闘争に続き、65年は日韓条約反対闘争やベトナム戦争反対闘争が盛り上がった。大学内でも電通大・東京学芸大・東京農工大・教育大・お茶女大・都留文科大・東北大・山形大・静大・京大・近畿大・長崎大など紛争が相次ぎ、慶大学費スト、高経大不正入試阻止闘争などは大規模化し世間の耳目を集めた。だが私には、そんな経緯はたまに見る紙上の知識に過ぎなかった。
戦後政治の分水嶺と呼ばれる六〇年安保の経験談を見ると、こだわる人の多くは政治的活動家であり、こだわりの軸は党派思想であることに驚く。実際に65年頃には安保闘争の記憶を持つ古参活動家も多く、百人くらいのデモをしながら夢の再来を語ってもいた。そんな活動家的センスからは大学紛争は政治闘争の裾野を広げるステップだが、私は学館バリストからまったく異質な感慨を受けた。この時代感覚は全共闘運動の端緒であるが、別に私だけではない。後に成蹊大学で自治会決議なく自分に首輪を付けてハンストを行う牧田吉明は団塊世代だが、共産党や共産同やの党派指導運動と異質な運動が65年頃に噴出したと「時代に反逆する」で野村秋介を相手に述べている。
どの時代にどんな経緯で何に関わるかは個人の選択であり、60年安保でも全共闘でも運動と殆ど関係のない同世代の若者もいた。問題は運動や思想の社会的影響力で、衆議院議員となった加藤紘一は国会内外の安保ブントネットを後に三里塚闘争の収拾に利用しようとした。在学中に東大助手採用が内定していて卒業させろと反全共闘アピールを出した桝添要一は、後には恥ずかし気もなく全共闘世代だと自認している。全共闘運動は安保の労働組合関係以上に、広範な反戦青年委や反差別や市民運動に影響力を残した。諸運動の裾野は全共闘参加者の枠組みを遙かに超えていたが、72年の連合赤軍事件以降に戦線は縮小し89年のソ連圏崩壊で政治的左翼は無意味となった。
さて今になってこの時期の歴史回顧をするのに最も考慮すべきは、時間経緯の評価である。中村草田男は故郷の小学校を訪ねて「降る雪や明治は遠くなりにけり」と慨嘆したが、今では昭和時代そのものが過去である。全共闘はすでに戦争以前なのだ。
ここで述べる1965年は昭和40年だが、わずか戦後20年のことだ。私のなかでは主要な記憶はすべて昭和の出来事だが、既に異質な平成生まれの子供が大学生なのだ。だが自分の中では記憶は連続しているため、全共闘時代の社会現象が色濃く戦争期の残滓を引きずっていた事実を忘れがちなのだ。
もうひとつ押さえておきたいのは、記憶記述者の特権的位置である。戦中派の吉本隆明が自らの体験を基盤に確か「自立の思想的拠点」で<大衆が生活的に圧殺された後に、知識人は抵抗の思想を書き綴る>と述べた日本思想の歪んだ構造だ。マルクス主義的運動が軸の左翼思想は、これとは逆に知識人や学生が警鐘を鳴らして大衆への危害を防衛するとの先駆性理論を掲げた。
だが私の日常的実感は吉本の指摘に近く、多くの活動家が沈黙し定年間際で生活的に困窮しているというのに、68年問題を声高に語ったり左翼的同窓会を呼び掛けているのは運良く生き延びてうまくやっている連中なのである。他人に呼び掛けた過去を持つなら、まず足下から批判を受けよ。対立グループ間の気楽なランチタイムを恥じよ。
65~69年の中大の5年連続バリケードストは、後半には教授会も巻き込んだ全国的にも希有な大学自治の基盤形成であった。だが1960年安保から78年多摩移転までの中大新聞をじっくり読んで行くと、民主的大学を嫌う政府圧力によって連続バリケードで踏み固めた学生自治の基盤は見事に圧殺されている。68年前期の常置委撤廃闘争では教授会も学生に同調し理事会も撤廃を認めたが、その後も学生監視体制は変化せず、その後の常置委なき常置委体制粉砕闘争では学生は見殺しになる。この難所に学園闘争の到達点と限界が垣間見れるし、全共闘運動に伴い共産党系の民主勢力教授会と結合した反政府運動論は足下から崩れ落ちるがこの点は別項としたい。
また誰にとっても青春期の原体験こそが何度も反芻するに値する記憶の源泉だが、体験の基盤である時代的背景は個人的問題ではない。68年末からの教授会も巻き込んだ常置委闘争勝利後の反動的圧殺で中大闘争は、運動論的には当時の東大・日大闘争の高揚と沈静化と同レベルとなる。東大や日大闘争は一年で崩れるが、過去の運動蓄積が大きかった故に学館封鎖と奪還を巡る中大全中闘は72年初まで継続する。
常置委後の活動家は、過去の勝利体験があったからこそ闘争を継続できたとも言えるし、全中闘の勝利体験は過去の神話でその後の自治会なき苦悶の抵抗こそ原体験だとも言えるのだ。本項論述に際して、この僅かな時間差によるズレも自覚的に押さえておきたい。
2、バリケードの何に魅かれたのか
ここで中大全中闘の六十年代後半の学館・学費闘争勝利への経緯が後続する全共闘運動の爆発的エネルギー源になったことを、私の原体験をベースに書こうと考えている。
全共闘運動は68年の東大・日大闘争から69年安田講堂決戦を軸に語られる事が多い。だが突然にそんな運動が起きた訳ではなく歴史的前史があるし、東大と並んで東京教育大の69年入試も中止になっている。66年初には早大での五ヶ月間もの学館学費攻防戦があり、67年初には明大学費のボス交妥結が糾弾されたが、結局それらは全て敗北史である。そこで例外的な中央大学館・学費闘争の勝利経験にスポットを当てて、人は敗北より勝利からより多く学び得ることを示したいのである。
一例を挙げておこう。中大には法学や政治学や経済学や文学や哲学の名を付けた学術研究団体の連合組織があって、学術連と呼ばれた。文連などに比べて個別組織の人数も団体数も少ないが活動家数は多く、昼自治会を軸とする六者共に入り運動を推進した大衆団体だ。自治会や党派に関しての距離の取り方は絶妙で、同意と批判を明確にしていた。65~67年の中大学館・学費闘争はもちろん党派も介在するが、サークルやクラスが軸の大衆闘争の勝利体験だった。当時の学術連主軸メンバーは自分らの運動を<全共闘前期体験>と称して、職安で現業訓練を受けたり、職場組合運動や地域運動を積み上げ、何冊もの交流誌を刊行し今でも横断的に連携を保っている。
さて学生会館というと今では大学が管理する学生寮やサークル棟の異名のようだが、当時に学生が自治活動の砦とせんとしたのは学生が管理運営権を持つ学生会館である。
学館の管理運営権を巡る対立には理念的背景があった。1964年に文部省が定めた国立大学学生会館設置要項では、学館の管理運営責任者は学生部長で、学生団体を指導・監督する事になっていた。だが国立大学はともかく私大では、大学の収入源は学費で大学の主役は学生だから学生会館は学生のための自治施設だと考えて当然だ。この両者を理念的対立軸に、学生会館の管理運営権を巡る諸大学紛争が展開されたのである。
中大学生会館は1962年に基本構想が発表され大学側は学館建築委を設置、学生側は当初予定の経理研究所や通信教育部などの大学機関の排除を要求、65年初に学生要求に沿った単独学生会館の基本設計が決まった。65年末の全学バリケードストは、学館闘争の最期の天王山である管理運営権を巡って展開され学館かた。このバリストを背景とした団交を重ね教学側が大幅に歩み寄り、学生会館管理運営権は「学生案を中心」とするとの合意が確認された。この経緯から考えると65年学館バリストは勝利であり、これを背景にした五年越しの最後の詰めが66年第二次学館バリストとなる。
65年は安保闘争から5年目だが原子力潜水艦横須賀寄港阻止闘争や日韓条約阻止闘争などが一定程度の盛り上がりを見せ、各党派の学生組織も70年への折り返し点との認識を持っていた。63年初には革共同で根本委員長(革マル)派と小野田書記長(中核)派が分裂、社学同・社青同・中核派の新三派連合ができ、64年末には日共系の平民学連が全学連を再建。65年には民学同、統一社学同、マル戦、ML派が組織再編し、三派系都学連再建、反戦青年委員会やべ平連結成へ進んだ。だがそれらの党派的動きは、私の65年中大学館バリストの衝撃とは殆ど関係がなかった。
中大は安保ブントの運動的拠点だったが、右翼台頭による全学連脱退、統一自治会故の党派間抗争と妥協策の役員や中央執行委員会構成により自治会の組織基盤は脆弱だった。私が入学した63年の昼自治会委員長は近藤昭雄(構造改革派、のち中大教授)、後期は川口宣久(社学同、大学院を経て印刷所経営)と流れ、64年前期は小笠原光雄(平民学連、葛飾区議)、後期は久保井拓三(社学同、病死)と続く。学館スト時の65年前期は委員長は名ばかりの小笠原光雄(民青)、副委員長は久保井拓三(社学同)と河合正次(社学同、事故死)、書記長は藍谷邦雄(社学同、現弁護士)だった。この不自然な三役体制下で学館バリストは闘われたのである。
委員長は日共だが他役員と中執多数派は社学同といういびつな構成下で小笠原委員長はヘゲモニーを取れず、学館管理運営権を求める大衆エネルギーの発露としての教授会を敵とするバリストを許容することも出来なかった。結局は65年バリストはストライキ実行委員会委員長久保井拓三、昼自治会委員長代行河合正次の体制で実施された。
この後の昼自治会執行部は68年末の存続時まで社学同が掌握し、日共系は第二自治会策動に終始した。単純な自治委員数では多数派を占める時期が数度ありつつ、日共系は大衆運動形成と組織運営において社学同系や新左翼に完全敗北したのだ。65年バリストでの私の衝撃には、大衆基盤のある少数派は容易に多数派に転じるとの実感もある。
3,65年学館バリスト経緯と私の関わり
さて65年の学館問題を巡る闘争経緯を押さえておこう。
長年の学生側からの圧力も加わり年初の評議員会で単独学館建設正規決定。5月に学生側は学館管理運営学生案を提出。同月末に学館起工式。6月教学側は学部間の意見調整のため連合協議会設置、学生側の会見要求拒否。10月25日連合協議会に学生側が会見要求し座り込み、協議会は流会。11月8日対五学部長会見、11月10日五学部長会議で教学16名・学生25名の定期協議会設置。11月22日学生部長会見。11月27日五学部長会見、学生側要求に12月1日を回答約す。12月1日回答書に不満の学生は管理運営準備会を求め、学長会見を要求する。
12月6日六者共六〇〇名は学長会見を要求し二〇〇名が学長室突入。12月10日連合自治委員総会でスト権確立、スト反対の小笠原委員長ほか民青系は退場、全学スト実委結成、河合副委員長が委員長代行となる。12月11日五学部長が大衆会見要求拒否、学生側はスト宣言を発する。13日全学封鎖スト突入。
私は学館問題には関心深く、63年11月の評議員会突入に参加し、翌年初の味岡副委員長退学・川口委員長と新井書記長戒告処分、64年4月の昼自治会・夜自治会・文連・学術連・学友連の五者共闘結成などは知っている。だが大学三年の後半から司法試験準備に転じた私は、上記の65年いっぱいの粘り強い学館闘争の大きなうねりを殆ど知らなかった。情報を聞き込みいきなり12月13日の全学バリストに遭遇し、17日妥結までの5日間の中大コミューン(久保井スト実委員長の命名)に付き合ったのだ。
私は64年秋の清水谷や横須賀現地での原子力潜水艦寄港阻止闘争や、65年の日韓条約批准阻止闘争にも何度か参加したが、常に機動隊の壁に阻まれ徒労感が募っていた。だがそれと併行する65年の学館闘争準備期には何をやっていたのだろうか。当時の手帳を探して見ると県人寮の南予明倫館から文京区教育大下の小日向に移り、司法試験への取組みを固めながら全力投球はし切れずに逡巡していたようである。
私がなぜ65年12月バリストに衝撃を受けたのか、手帳を頼りに当時の日常を再現しておこう。
授業は学部三年生だから民法Ⅲ・刑法各論・民訴法・刑訴法・商法のⅠⅡⅢを受講しているが、民法や刑法は自力で終了しており、同時代的に面白かったのは原田鋼の政治学原論だった。住所録では大学クラス・真法会・魔歌・大学院の先輩・宇和島関係ほか今に続く友人が並び、電話帳には神保町ラドリオ・水道橋のモーツアルト・歌声喫茶カチューシャ・シャンソン銀パリ・ジャズ喫茶キーヨなどが記されている。
65年前半は関係論として恋愛を捉えた詩作を書き、初の北朝鮮映画「千里馬」に異議を唱え、冬にも春にも夏にも帰省し、5月にはバイトの稼ぎを持って京都の葵祭や奈良の魔歌先輩の勝平宅を訪問している。司法試験に直面することを決めながら入り込めぬ最後のあがきも秋には終わり、どうやらストライキ前は10月31日の真法会模擬裁判の裏方仕事に集中していたようだ。11月末からの司法試験に向けた答案練習会の予定が書き込んであり、受験体制に順応する意志は伺える。だが私は真法会の不良生で役員や当番も口先理由を付けて回避してきたので、多少は裏方でも罪滅ぼしをせぬとバランスがとれなかったようである。
そんな状況下で真法会の後輩で自治会の社学同系中執だった山内徹(のち安田講堂の名で週刊誌の売れっ子になり、しばらくして神田川に飛び込み自殺する)からの情報で、興味半分でバリスト見物に寄り五日間振り回されたのだ。だが司法試験受験体制を整えながら、それを中断するに至るには衝撃だけでは物足りない。
手帳を更にめくると「裁判批判の限界」とのテーマの法律討論会に出て、論調が生ぬるいと批判している。社学同活動家集会やサークル共闘会議にも顔を出すが納得できず、日韓闘争末期のいわゆるサンドイッチデモへの反発は強く「Revolutionの構想」なる詳細メモも記している。更にヘーゲル、マルクス、トロツキー、ルフェーブル、プレハーノフから宇野弘蔵、武谷三男、戸坂潤、梯明秀、梅本克己、竹内好、三浦つとむ、藤本進治から現代思潮社新刊などの読了予定メモもある。だがそれらは新左翼レベルでの常識批判的な考察資料に過ぎない。
だが思い返すと当時は魔歌グループで吉本隆明の新刊「言語にとって美とは何か」の読書会をやっており、65年秋より雑誌「日本」に連載された吉本の「共同幻想論」は毎月必ず熟読していた。個的幻想と共同幻想の逆立論に感心しつつも、私は対幻想を個的幻想に組み入れる吉本の手法には根本的な疑問を持っていた。
翌年に自治会書記長になって後の66年秋には、学館闘争の高揚感もあってか酒を飲みながら一夜で「共同体論への一視角」を書き「魔歌5号」に掲載する。その観点と方法は68年{叛旗1号}の「共同体論へ」に受け継がれることになる。とすると私なりの個(自己)・対(愛)・共同体(国家)の相互連関のイメージの改変の原点として、65年バリストの衝撃が大きいことはよく分かる。