「ウン……」
ムゾリは苦しげに寝返りを打った。
正確には寝ていないので、ただ体勢を直したというべきか?とにかくそんな揚げ足取りはどうでもよい。
「ぅうう、」
また唸るようにして体勢を直す。
横向きだったのがうつ伏せに近い状態になった。
外は柔い雨が降っていた。
道の無いような山を越そうとする道中、雨に見舞われたのである。
昼間過ぎだというのに外は暗く、黒い藍に染まっている。
テントの中にムゾリの荒い息遣いが響く。
風にテントがあおられて、さらさらとしたはずの雨が時折強くそれを叩いた。
雨が降るのはわかっていたので、一緒にいた六識を「急にワインが飲みたくなったから買って来い」などと言って蹴飛ばすように麓の町に戻らせた。最後まで彼は(戻ることにもその理由にも)納得せず、途中掴み合いの喧嘩になりかけたが、なんとか降ろすことに成功した。
「……、はぁ、はあ… …はあ。」
だらしないもんだ、と思う。
たったこれだけの雨で大の男が形無しだ。
けれども思い出すようだった。
今までこうやって、一人で(あるいは、たまに二人で)旅をしていたころを。
テントの中は酷い腐臭が満ちている。
自分の内から湧き上がる、その決して心地良いとは言えない匂いに自身で苦しみながら、それでも換気をするわけにいかず、ただ寝返りをうつだけだった。
自分の額を垂れる汗ですら紫色なのではないかと思うぐらいである。
今までは――たとえば、小屋の屋根裏、もしくは城の地下室で。
そういう頑丈なものに守られて耐えてきたが、久々に、まさに薄皮一枚でなんとか綱渡りをしている状態になってみて、自分の気の緩みを感じる。
昔の自分は、ちょっとやそっとじゃあこんなに苦しめられたりしなかったのに。
(それとも、腐食が進行している、とか……)
いやな考えが頭を過った。
自分の腹が腐っているのは知っていても、どれだけの部分がいつから腐っているかなんて知るよしもない。
すぐにその世界で一番に等しいいやな考えを払拭しようと頭を働かせるが、悲しいかな、雨の日の彼の頭はとことんネガティブな方向にしか回らないようにできている。
「………、……、」
言葉にならないような息を喘ぐように続ける。陸に上がったなんとやら。
ただ、刻むような呼吸を続けるしかなかった。今は、そう、今まで通り、不幸が過ぎ去るまで耐えるしかないのである。
ふいに、足音が聞こえてくる。すぐに六識であるとわかった。足音の次に必ず「ザクッ」っという六尺棒が地面にささる音が聞こえるからである。
計算よりも何時間も早い戻りだった。
まずい、とムゾリが体を上げようとするよりも早く(というかムゾリがのろのろとしているだけであるが)、そのシルエットが早足でテントの脇を通って、入り口を開ける。
「ムゾリ!大丈夫かよ!」
雨にふやけた右頬が無機質に浮かび上がって、それと対照的に切羽つまった人間の表情がその顔に浮かんでいた。
ムゾリが返事を返すどころか、言い終わらないうちに次の言葉でまくし立ててくる。
なんで里に降りさせたんだよ、とか、雨が降ってるのを見て飛んできた、とか、ワインはこれでいいか、とか。
テントに篭る悪臭にも動じた様子もなく、横になっているムゾリの近くに座り、雨の絡んだコートをすぐにたたんで仕舞った。
「バッカじゃねえの?雨降るの知ってたのか、お前」
「お前がいると香を焚く場所がねぇんだよ」
「じゃあずっと立ってりゃいいだろ。お香足りる?」
「ん……」
ああ、やだなあ、と心底そうムゾリは思った。
傍らに六識がいると、どこかほっとする。
その「ほっとさせてくれる」対象が六識であることが、すごくムカついた。
どうせならナイスバディのおねえさまとかだったら、恋愛小説のひとつでも書けよう。
横にいて、自分に安堵を与えているのは、死んでるのか生きてるのかわからないような人外の、それも男なのだ。
「走ってきたのか?」
「まあね。お前ほどご老体でもないし」
お香を増やしながら、なんでもないといった風に六識は言う。
そこでムゾリは、自分ほどではないにせよ、水を嫌う六識を無闇に雨に濡らしてしまったことに気付いた。
もう少しよく考えてやればよかった、などと脳裏で遅すぎる反省をし、直ちに謝ってみせた。
「……ごめん、ワリかった」
「いいよ、別に。奢ってやるよ」
いや、ワインじゃなくて。と言おうとしたが、なんだか面倒に感じてそのままにすることにした。
はらはら、と雨が弱まるのを感じる。
「何で追い出したのさ」
「ワイン飲みてーなーって」
「嘘つけっての、バカ」
あとは沈黙でごまかした。
六識は自分の体のことを知っている。
彼は、人間や、人間以上に敏感な鼻を持つ獣には耐えられないこの匂いに耐えられる(慣れている、とも言うべきか)。
そして、おしゃべりでいて、……
ごく最近のことであるが、雨の日はできれば一緒にいて話し相手になってくれないか、と六識に懇願した経緯があり、勿論六識は快く承諾していたのである。
(いつも威張っている家主から頼られることなどなかったのだから、さぞかし面白い出来事だったろう)
本当のところ、ムゾリは試そうと思ったのだ。
本当にもう一人では雨に耐え切れないのか?
六識だって鼻がないわけじゃない。いつまでもこの匂いに晒され、暑苦しい中年親父と雨の中束縛されるのはきっと滅入ってしまうだろうから。
けれども、結果はこのとおり、である。
強がり、それでも結局彼以上に彼に依存している自分に気付くだけで、何も二人の現状は変わらない。
(そもそも、俺が識を連れて行く理由は――)
「雨があがったよ、ムゾリ。乾杯しよう」
買ったばかりのラベルの綺麗なワインを見せながら、出し抜けに六識がそう言った。
ムゾリは「できねーよ」と思ったが、「悪くないなあ」とも思った。