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私には会ったことのない叔母がいる。
その人の名は別墅凪。幼い頃に原因不明の病魔に侵され、若くして逝ってしまった。私はその叔母に似ているらしい。そして彼女を長く愛している人を知っている。
柊木蒼。
父、別墅亮一朗とは友だというが、その人は私の想い人だ。
何しろ物心ついた時には、その記憶がある。特別の意味を知ったのは、たぶん蒼を『好き』という言葉で区別した時だ。
親にどんなに叱られても、いつも庇ってくれた。幼稚園やピアノの発表会があると言えば、父が来なくても彼は来てくれた。小学校の運動会は全員集合で、祖父母と両親が揃い、そこに必ず蒼はいた。
年頃になって、同級生の男子たちが子供に見えるのは仕方ない。蒼は父の世代の人なのだ。大人で、かっこよくて、そして優しい。
私、別墅なぎさ。もうすぐ二十四歳の誕生日を迎えるリストラされたばかりの女の子だ。
蒼にとって、海は一番大切なものだという。
凪と初めて遇ったのが生まれ育った場所にある海辺だったのだと。今は引っ越してきてしまったので毎日海を見に行くことはできない。
でも毎年夏になると蒼は行く。凪と出逢った、あの海へ。
その海は海水浴場ではない。様々な顔を見せる海を、ただ見に行く。穏やかな海だったり、冷たい海だったり、突然の雷雨に豹変する怖い海であったり。
それを見ている。何時間もそこにいる彼を、黙って私も見続ける。
気持ちを告げたことはない。
高校生の頃に仄めかして言ったことはあるけれど、上手にはぐらかされていると感じた時から言わなくなった。
大学時代には同世代の人とコンパにも行ったし、デートらしきことも経験はした。
でも心に好きな人がいると、誰と何をしていても心底楽しいとは感じなかった。
だから無理をしなくなった。女友達と食事したり、買い物に行ったりはするけれど、男友達もいるけれど恋人は作らない。
父は、凪を憶えているから好きなようにしたらいいと言う。好きな相手ができても(それは蒼だ)、一言も告げることができなかった凪は最期まで彼を想って逝った。
父には私が蒼を好きなことはバレている。ただし父にとって今の蒼は友達だから、応援はしないとも言われている。
小さな頃こそ、蒼のお嫁さんになるかという冗談も聞いたが、適齢期になりつつある最近は私よりも蒼に対し、まるで禁句になってしまったように誰も結婚の話をしなくなった。
先日も、父と二人で飲みに行った。そこで聞いた言葉は、辛かったけれどとても大事で必要なものだった――。
好きでも、どうにもならない時がある。
例えば、相手が死んでいる時。
しかし想い続けることはできる。
あいつは今も凪を想ってる。
お前の中に凪を見ているんじゃない。
凪の中から、なぎさを見てるんだ。
それを聞いて泣いた。
大好きだった人に似ていると言われて育った。顔形だけじゃなく、性格までも似ているらしかった。だから誤解してた。
どんなに好きでも死んでいる人とはどうにもならない。今は無理でも、いつか私を選んでくれると思い上がってた。そんな日は永遠にこないのに。
時間だけがたっぷりとあったため、考えなくてもいいことまでも考えてしまう。どうして自分じゃ駄目なのか、そんなに女として魅力がないのか。溢れる想いとは裏腹に、苦い言葉に押しつぶされそうになっていく。
私は居た堪れなくなって逃げ出した。そして二人の想い出がある、あの海へとやって来た――。
蒼の好きな海辺は、夏の気配を滲ませている。潮の香り、波の音、そして水面に輝く太陽の日差し。
以前は流れ着いた大きな木もあったと聞いた。その流木に凪が座っていたのだと。今は誰がしたのか、綺麗に清掃され流木もゴミもすっかりなくなっている。
もう前と同じ海じゃない。
寄せては返す波が、どんなに同じように見えても、此処はもう恋人たちの甘い想い出の場所じゃない…。
「なぎさ、亮一郎が捜してるぞ」
背後から聞こえた声は、愛しい男のものだった。
どうして見つかっちゃうんだろう。
小さな頃から迷子になりそうになっては捜しだしてくれた。いつ何処にいたって見つけられる。どこかで期待してしまうくらい、蒼には何を考えてるのかを知られてしまう。
「何か、あったのか」
そう問われても、振り返ることができない。涙で濡れた顔を見せられない。
ここに捜しにきたということは、凪のことを全部聞いたのだと知っているはずだ。なのに何も言わないんだね。
「私ね。蒼のことが好き…」
蒼が、凪以外の人を愛さないって分かっても、私は好き。一度くらい告白しても罰は当たらないだろう。
そんなことを海に向かって話した。
「ごめんな。凪だけは、特別なんだ」
蒼の唇が彼女の名を告げた時、これまで聞いたこともないような優しい想いが籠められていると感じた。ただ違う意味で私も特別だと言われる。凪の血をひく似た顔の女の子。でもそれだけじゃないって。
分かった。
言葉にはできなかったけれど、小さく頷く私の頭を撫でてくれた。
凪さん。貴女は倖せね。
この世になくとも、こんなに愛されてる。
「こっちに戻るよ」
その言葉に驚いて振り向いた。
蒼の顔には笑みがあった。海を見つめる視線は、私には向いてない。
「会えなくなるわけじゃない。そりゃ今までのようには会えなくなるけれど、月に一度は墓参りに行くよ」
その時に食事に行こうと誘われた。
思い返せば、蒼の言葉はいつも私を気遣い、そしてかけられる。今も凪の墓参に託けて約束をしてくれる。
恋人にはなれないけれど、きっと私は蒼にこうしてずっと大事にされる。それは分かる。
「私のこと、少しは好き?」
「当たり前だろ。大好きだよ」
また目頭が熱くなってきた。やがて零れていく涙を蒼が見ている。何もしてくれないけれど、でも見ててくれる。
会えなくなる人じゃない。
もう暫く蒼を好きでいたい。
凪の代わりじゃなく、ちゃんと私を見てくれるから。
海を背に肩を並べて歩き出すと、蒼が突然声を上げた。
「あ。お前、もうすぐ誕生日だろ」
プレゼントは何がいいかと尋ねられる。
いつものように何も要らないと答えた。欲しいものは手に入らないから。
今までなら、アクセサリーを一つ贈られていた。きっと今度も同じだろうと思っていると肩を抱かれる。
「じゃ、デートしよう。その時、欲しいもの買ってやるよ」
蒼と歩く海辺は、私にとっても特別だ。
引っ越してしまったら、今度は私が遊びにこよう。そうだ、父と一緒に来てもいい。
その時、気付いた。蒼はどうして私の住む町に、それも歩いて数分の場所に越してきたのだろうか。
「そんなの決まってるじゃん。なぎさの近くにいて構いたかったからだよ」
そう言ってウィンクし、魅せられた。
そんなこと言われたら、もう何も言えないじゃん。
私たちに別れなどないと信じられるから、私は漸く笑うことができた――。
【了】 著 作:紫 草
*この作品は'11年8~11月作品『海と月と雷鳴と』『夕暮れの月』『心の内』『凪』の番外編です。