お久しぶりです。
みてくださっている方がいるかもしれませんのでお知らせしておきますと
一世一代の賭けには勝ちました。
その後色々とあったのですが、人間は変われると言うことを証明していきたいと思っております。
ところで、2022年も終わります。
実は年間100冊の本を読破すると言う目標を掲げておりました。
昨日それを達成いたしました。
で、最近読んだ本の中に
「あふれでたのはやさしさだった」(寮美千子著 西日本出版社)
がありました。
1万円選書に当選し、選書していただいた本なのですが、教育をしている人間としても考えさせられる本でした。
内容としては、著者がご主人と「奈良少年刑務所」で「社会性涵養プログラム」の一環として
受刑者に講義を行った記録
講義の内容は著者の立場を生かし、絵本のロールプレイングや、詩の朗読、詩の作成
この経験を通じて社会性を身に付けさせ、二度と刑務所に戻ることがないように送り出そうというもの。
受刑者に優遇しすぎだという話がしたいわけではないので、そこの議論は置いといて
その講義の方法に注目したいのです。
「評価をしない」「無理強いしない」「助け舟を出さずに待つ」
この約束のもと授業は進むんです。
学校教育とはかけ離れています。
しかし、特にこの評価をしないという観点。ずっとずっと私が思っていたことと重なります。
教師が、なぜ生徒を評価するのか。どこにそんな権利があるのか、と。
もちろん教員免許持ってますからそういう意味では権利はあるんでしょうが
人が人を評価するって、そんな紙切れ一枚で与えられる特権なのでしょうか?
評価があるから
「俺はダメなんだ」「あいつより私は馬鹿なんだ」「俺は何をやってもできない」
みたいな
劣等感を抱き、自己肯定感や自己充足感を失う。
評価がなくなると、その人が勝手に他社と比較しない限りはこんな感情生まれませんよね。
「受け止めて寄り添う」ことが重要。しかも大袈裟にではなく、さりげなく。
めちゃくちゃ難しいことを要求している気がしますが、この本に登場する著者や教官、刑務官は実践しています。
肩をいからせて「俺は強いんだぞ」と虚勢をはっていた子、吃音があってうまく話せなかった子、話し始めるのに恐ろしく時間がかかった子、場面寡黙の子、あらゆる子が、評価されない、誰からも馬鹿にされない、みんな待ってくれる、という安心と安全に包まれた教室内で変わっていく様は、学校教育のやり方を考えるきっかけになった。
もちろん、学校教育のずべてがだめだというわけではないと思うが、特別活動までも評価して生徒に開示しようとするこの改変には疑問が残る。
学校で測れる技能や技術性質なんかはかなり限定的なものであって、それをその生徒そのものの評価のようにしてしまう制度は、変えていったほうが良いという気もする。
今までとは少し系統の違う話を書いてみました。
自分は断薬しました。
それに至るプロセスは、また今度。