ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

名護屋城(日本100名城)(佐賀県) 2019.11.17

(写真は、「名護屋城」の「天守台跡」から望む「玄界灘の島々」)

 

Q:お城の規模では、第1位が江戸城、第2位が

大阪城ですが、では第3位はどこの城でしょうか

A:名古屋城(なごやじょう)かな。

Q:残念、不正解です。

  しかし、読み方は正解です?

A:え~っ?・・・?、どういうこと?

Q:つまり、正解は、「愛知県の名古屋城

(なごやじょう)」ではなくて、「佐賀県の

名護屋城(なごやじょう)」です。

皆さん、半信半疑の様ですね。

それでは、これから、一緒に、第3位の佐賀県

の名護屋城を見に行きましょう。

 

「名護屋城」は、前回ご紹介した朝市や七つ釜で

有名な佐賀県の「呼子」(よぶこ)にあります。

実は、今回、私が呼子を訪れた一番の目的はこの

「名護屋城」でした。

 

「呼子」のバスセンターから、昭和バスで10分の

「名護屋城博物館入口」で下車、徒歩5分で

「名護屋城」です。

「名護屋城」は、大陸侵攻を目指す「豊臣秀吉」

が、朝鮮半島へ兵を送る前線基地として、

1日平均2万7千人も動員して、僅か5カ月で

築いた城です。

この豊臣秀吉による大陸侵攻は、歴史上は「文禄

・慶長の役」(1592年~1598年)と呼ばれて

います。

名護屋城は、下の屏風図の様に、中央の最上段に

本丸、そして中段には、本丸を取り囲むように、

二の丸、三の丸、遊撃丸、東出丸、弾正丸、

そして下段には、山里丸、台所丸を配置した

巨大な城でした。

本丸の北西の隅には、”金箔の瓦”の「五重七層

の天守」(地上六階・地下一階)が建って

いました。

(「肥前名護屋城図屏風」に描かれた五重七層の

  天守:上の屏風図の右手 

 :名護屋城博物館発行の特別企画展の小冊子

  より)

この”金箔瓦の天守”は、海側からよく見える

様に建てられているのが特徴で、明や朝鮮からの

使者に対して、秀吉の軍事力や財力を見せつけ、

出撃していく兵士には安心感を与えるための

”見せるための城”でした。

 

当時の名護屋城の城郭は、大坂城に次ぐ広壮な

規模で、城下には、全国から160もの戦国大名

が集結し、諸大名の陣屋が密集して構築され

ました。

これにより、名護屋城の周辺は、最盛期には人口

20万人を超える巨大な城下町となりました。

 

また、文禄・慶長の役の際、朝鮮半島から多くの

人々が日本に連れて来られ、これらの人々により、

佐賀県を代表する唐津焼、有田焼などが始まり

ました。

現在も、城下町の跡には、徳川家康、上杉景勝、

前田利家などの全国の大大名の陣屋跡が残って

います。

 

秀吉の死後、名護屋城は廃城となりましたが、

その際に多くの建物は、近くの「唐津城」に

移築されたそうです。

更に、江戸時代の島原の乱の後には、名護屋城が、

原城の様に一揆に使われることを恐れた幕府

により、石垣も徹底的に破壊されました。

 

「護屋城博物館入口」バス停で下車したら、

「名護屋城」へ向かう前に、先ず、お城の

道路向いにある「名護屋城博物館」に入ります。

( 月曜休館、入場無料:但し任意の歴史遺産維持

 協力金100円あり)

この館内で、名護屋城跡の散策地図を貰い、次頁

の写真の無料のタブレット(注)を借りましょう。

(注)無料のタブレット:往時の名護屋城の城郭の

様子を再現したアプリ「バーチャル名護屋城」が

見られ、この無料タブレットを使って名護屋城内

でかざせば、420年前の名護屋城の姿が甦ります。

「名護屋城博物館」には、「日本列島と朝鮮半島

との交流史」をテーマに、当時の名護屋城に

関する展示されているので、ここで予備知識を

得てから、名護屋城を散策しましょう。

 

名護屋城博物館を出て、道路向いの「名護屋城跡」

の長さ100メートルの「登城坂」を上って行き

ます。

 

上の写真は、登城坂の入口の「大手門」跡です。

 

登城坂を上り切ったところの右手が下の写真の

「東出丸」跡です。

 

上の写真は、東出丸の「西側 櫓(やぐら)台」

跡です。

 

 

東出丸から三の丸へ向かいます。

 

上の写真は、「三の丸」です。

 

 

上の写真は、三の丸の石垣です。

上の写真は、「三の丸」の「井戸跡」です。

「三の丸」の前方に見える上の写真の階段を上がる

と、本丸の入口となる「本丸大手門」跡です。

上の写真は、本丸大手門跡から三の丸を

見下ろしたところです。

 

上の写真は、「本丸」の名護屋城址の石碑です。

 

上の写真が「本丸」跡です。

 

 

上の写真は、本丸の南西隅櫓跡から眺めた

「櫓台と馬場」です。

 

写真は、本丸の北西に位置する「天守台」跡です。

 

「天守台」跡からは、玄界灘に浮かぶ島々が良く

見え、晴れた日には壱岐や対馬も見えるそうです。

この「天守台」の上には 、 当時、”金箔瓦”の

「五重七層の天守」がそびえていました。

上の写真は、天守台の地下1階部分の礎石です。

上の写真の左側は天守台から見た「二の丸跡」で、

土塁の右側は「遊撃丸跡」です。

(遊撃丸跡)

 

遊撃丸という名称は、文禄の役の際、朝鮮から

講和使節として来日した「遊撃将軍」の宿舎が

あったことによるそうです。

上の写真は、天守台から見た「本丸の多聞櫓」跡

です。

「多聞櫓跡」の地面は、上の写真の様に、

コンクリートで固められています。

三の丸に戻って「馬場」の方向に向かいます。

 

上の写真は、「二の丸」跡です。

 

上の写真は、二の丸から高さ17メートルの

天守台の石垣を見上げたところです。

天守台の海側の石垣は、上の写真の様に、隙間なく

石が積まれています。

 

この石垣の表面は、海側からの天守台の景観を

考慮した設計で、石垣は日の光を反射して

眩く輝いていたことでしょう。

この石垣は、次頁の写真の様に、2つに割った

石の割れ目を、石面の表面にして積んでいます。

 

この工法は非常に手間がかかるため、この石垣が

築かれている場所は、天守台の海から見える側や、

朝鮮使節の宿舎のある回り等に限られています。

 

 

上の写真は、「二の丸」の「長屋建物跡」です。

上の写真は、「弾正丸(だんじょうまる)」で、

奥に凹んで見えるのが、「搦手(からめて)口」

への降り口です。

弾正丸という名称は、ここが秀吉の姻戚の浅野

弾正長政の住居だったためです。

(搦手口)

名護屋城跡を出て、お城の周辺に点在する「陣跡」

を見物します。

現在、名護屋城周辺には、118ヵ所の陣跡が

確認されており、うち65ヵ所に遺構が残って

いるそうです。

このうち徳川家康、伊達政宗、加藤清正、

黒田長政、小西行長、島津義弘、鍋島直茂、

福島正則、上杉景勝、片桐且元、古田織部

などの23箇所の陣跡が特別史跡に指定

されています。

私は、次頁の写真の「木下延俊(のぶとし)」

(秀吉の正室の北政所の甥)の陣跡と、

その次の写真の「前田利家」の陣跡を見に

行きました。

(木下延俊の陣跡)

(前田利家の陣跡)

(前田利家の陣跡)

 

 

(大名・陣跡配置図)

 

(大名・陣跡配置図)


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コメント一覧

ウォーク更家
規模が3位の名護屋城
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、規模が3位というのは意外で、そそられますよね。

そうなんですよ、意外と、お城好きの人も名護屋城は福岡のどこかにあると思って居る人が多いんですよ。

そうですよね、名護屋城をみると、やはり、どうしても豊臣秀吉の小田原の一夜城を思い出しますよね。

基本的には、一夜城も名護屋城と同じ様な発想で、戦うための城ではなくて、籠城している小田原の北条氏に”見せるための城”で、敵のど肝を抜く規模が必要だったのでしょうね。
もののはじめのiina
たいそうな名護屋城 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/838502ef3b78df886aa10fee9ef4231e
行ってみたいお城の名護屋城(なごやじょう)を見学とはうらやましいです。福岡にあると思ってましたが佐賀県でした。^^
小説やテレビ番組で採り上げられる度に行く気を刺激されました。規模が3位というのも意外で、思いはつのるばかりです。

やはり豊臣秀吉が築いた城の小田原の一夜城を思いました。
https://blog.goo.ne.jp/mrsaraie/e/d9da4028da31a4c4db1b74ec18f4f0fb


大嘗宮見学を兼ねて居乾通りで紅葉も見ました。
晴れるのを待って4日に参りましたが、上着を脱いでも汗ばむほどの暖かさでしたょ。
きょうは、大嘗宮第2弾をしました、
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/606a18014548f842ef2fc85bbdad0697



ウォーク更家
太閤の権力の絶頂期
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、1日27000人を動員して、わずか5か月で築城しというのは、現代建築をベースに考えても想像がつかない壮大さですよね。

秀吉は、このとき、太閤という権力の絶頂期にあったということでしょうね。

そして、目に見える形でそれを誇示したくて、それが名護屋城だったんでしょうね。

秀吉は、”人たらし”と呼ばれたらしいので、権力だけでなく、何か人びとを駆り立てる魅力があったんでしょうね。
tadaox
太閤という人は・・・・
https://blog.goo.ne.jp/s1504
わずか5か月で、名護屋城を築城したんですか。
1日27000人を動員? いやはや太閤という人はなんという大きな器だったんでしょう。

陣跡の多さから権力と財力の集中がうかがえますが、それだけではこんな大仕事はできないでしょう。
人びとを駆り立てる目標、魅力があったんでしょうね。
ウォーク更家
名護屋城は凄い規模
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、名護屋城が凄い規模だったのは、現地へ行ってみて実感しました。

蜂須賀小六は、子供の頃、漫画本によく出ていたので、馴染み深く懐かしいです。

hide-sanの実家は、蜂須賀家から田畑を拝領した家柄だったとは、昔からの名門だったんですね。

蜂須賀家から直接借金に来られたら断り辛いですよね。

でも、働いて全て買い戻したのは、大変なご苦労だったのでしょうが、凄いです!

やはり、明治維新以降は、武家の商法で、騙されるケースも結構あったのでしょうね。

「お金を貸す時は差し上げるつもりで貸しなさい」、確かに、そうすれば、無用な恨みや憎しみ合いは無くなりますが、そうは言っても、金額が大きければ難しいですよね。

昔は家名を残すために養子をとるケースは多く、私の祖父も養子でしたし、叔母の夫も養子でしたので、養子の大変さは分かる様な気がします。
養子に出された子の辛さを考えると、「子供はどんなことがあっても、手元に置きなさい」という言葉はよく分かります。
hide-san
名護屋城跡
https://blog.goo.ne.jp/hidebach
名護屋城跡はすごい規模だったのですね。

ボクは名古屋市西区那古野(なこの)と言う所で生まれました。
人に言わせるとこの那古野が名古屋の由来ではないかと言いますが怪しいものです。

母の実家は蜂須賀小六の陣屋があった蜂須賀村の隣村で、
明治の廃藩置県で、蜂須賀家は子爵か男爵か知りませんが、になってお金もちだったようですが、
現代の振り込め詐欺ではありませんが、
騙されて無一文になり、母親の父のところへ借金に来たそうで、
この時、祖父はもともと蜂須賀家から拝領した田畑、
これを全部売ってお金を貸したそうです。
貸したとはいえ、返ってくるはずがないので、
祖父の代で働いて働いてすべてを買い戻したと言います。
そのため三人いた娘(ボクの母他2名)の内、一番出来の悪い次女を残して養女に出したと言います。
子供を育てる金が無かったのです。

この養女に出されたことが、死ぬまで頭に残って居て、
ボク達子供らに
「子供はどんなことがあっても、手元に置きなさい」
と事ある毎に言って居ました。
それからもう一つ、
「お金を貸す時は差し上げるつもりで貸しなさい」
これが遺言だったですね。

長くなり過ぎましたね。
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