東海道五十三次の一人旅で取り上げなかった箇所を、ご紹介
しますので、「東海道五十三次(完全踏破の一人旅)」の
下記と併せてご覧下さい。
「26:掛川宿 2011.11.15」「27:袋井宿 2011.11.15」
「28:見付宿 2011.11.15」「29:浜松宿 2011.11.16」「30:舞阪宿 2011.12.11」
「26:掛川宿」
浮世絵は、掛川宿周辺で、二瀬川と秋葉山です。
橋の上で、旅人が僧侶に深々と頭を下げています。
・掛川城
天守閣、御殿、それに立派な大手門が復元されています。
(天守閣と御殿:320円)
天守閣からは、音楽施設やホレルが点在する「ヤマハ
リゾート つま恋」の森が近くに見おろせます。
御殿では、殿様への謁見の手順を、何故か忍者が説明して
くれます。
御殿の廊下と庭は、時代劇の御前試合の撮影場面として
使われたそうです。
掛川城は、山之一豊が整備した城ですが、城が完成すると
直ぐに東軍だった山内一豊は、土佐藩主に栄転になります。
前の土佐藩主は、西軍だった長宗我部で、その家臣はその
まま山内家の家臣になります。
しかし、掛川から来た山内家の家臣は上士、もともとの土佐
の長宗我部の家臣は下士となり、厳しい上下の身分差別が
生まれます。
この差別と対立が、幕末に活躍した坂本龍馬などの脱藩の
伏線となります。
そうか!
NHK大河ドラマ「龍馬がゆく」の上士と下士の身分差別
には、そういう歴史があったんだ!
「27:袋井宿」
袋井宿は、江戸と京のどちらから数えても27番目の東海道
53次の中間点です。町中に遺構は残っていませんが、袋井
宿場公園、袋井宿東本陣公園が整備されています。
・東海道ど真ん中茶屋
ど真ん中茶屋は、広重の「出茶屋の図」を模して作られた店
で、地元のお年寄りが無料のお茶を出してくれます。
「28:見付宿」
・一里塚
見付(磐田)の市街地に入ると、先ず愛宕山の上に愛宕神社
があり、その奥に下の写真の見事な一里塚が残っています。
見付(磐田)の市街地には、今回は、至る所に、J1の
ジュビロ磐田のノボリがはためいていました。
・姫街道の道標
東海道は、見付宿の町中の街道を左折しますが、真っ直ぐ
行くと「姫街道」です。
これは、東海道の新居宿の新居関所の「女改め」が厳し
かったので、姫様たちがこれを嫌い、峠のある池田街道
(姫街道)を通る様になったそうです。
・国分寺跡
見付宿は、古代には遠江の中心として国府が置かれました。
国分寺の礎石があり、史跡公園として整備されています。
・府八幡宮
道路を挟んで、国分寺跡の向い側に、遠江の国の国府
八幡宮があります。
・天竜川
次の浮世絵は、天竜川の中州で、舟渡しの様子です。
天竜川は、歩いて渡れないくらい急流で、
”暴れ天竜”と呼ばれたそうです。
このため舟で渡りますが、舟が急流で下流に流される
のを想定して、渡し場は、その分だけ街道筋より上流に
あったそうです。 なるほど!舟が流されて、丁度、
対岸の街道筋の位置に着く訳ですね。
「29:浜松宿」
上の写真の浮世絵は、浜松宿周辺の冬景色で、田んぼで
焚き火をして暖をとる農民と旅人です。
右手の松の木の左奥に小さく浜松城が見えます。
・八百徳の鰻重
浜松市内は、何も東海道の遺跡が無いため、バス旅行は、
お昼を「八百徳」の鰻重を食べるために下車しただけで
浜松宿を通過します。
「30:舞阪宿」
浮世絵は鰻取りの小舟だそうです。
・松並木
松が340本、700メートル続く見事な松並木です!
歴史講師の先生による”東海道の見事な松並木”
総合ランキングです!
第一位:御油 第二位:舞阪 第三位:大磯
・今切の渡し
明応7年(1498年)の大地震により、陸が切れて、浜名湖
と海(遠州灘)とがつながってしまいます。
これを「今切(いまぎれ)」と呼び、舞阪宿は新居宿とを
結ぶ「今切の渡し」の要所となります。
・茗荷屋(みょうがや)脇本陣
脇本陣のおばさんの以下の説明が面白かったです。
今でも、舞阪の人は、対岸の人とは結婚しないそうです。
これは、江戸時代は、対岸の隣村に行くのに、新居の関所
を通らねばならず、このためにパスポート(通行手形)が
必要だったからだそうです。
しかも、通行手形をもらうためには、30キロも手前の磐田
まで行かなければなりません。
これにより、江戸時代になってから、両岸の人的交流が全く
無くなりました。
このため、言葉や食べ物の、関西と関東の境目になって
いて、隣村同士で言葉が通じないそうです。
そうか!
関西と関東の境目はここなんだ!
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更家
船橋原人
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