(写真は、府中宿の高札場(写真左)と、
本陣だった中久本店(写真右))
「府中宿」がある「府中市」に入りました。
「府中」の地名は、大化の改新後の律令時代に、武蔵国の国府
が置かれ、この地方の中心地だったことに由来します。
府中宿は、甲州街道と鎌倉街道とが交差する交通の要所
であり、生糸を扱う商家が軒を連ねていました。
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒、問屋3軒と大いに
賑わっていました。
少し歩くと、上の写真の「観音院」があり、その参道口には、
庚申塔、地蔵尊、馬頭観音などが並んでいます。
西武多摩川線の線路を渡ります。
更に歩くと、街道の左側に、新田義貞が鎌倉を攻め落とした
際の陣中の守仏を祀る上の写真の「染屋不動尊」があり
ました。
染屋不動尊の道路向こうの祠の中には、上の写真の「観世音
菩薩像」が安置されています。
「旧甲州街道」は「甲州街道」の南側を並行して走っています
が、その旧甲州街道の更に南側を、旧甲州街道よりも古い
「しながわ道」(江戸時代初期の旧甲州街道)が並行して
走っています。
府中宿の「一里塚跡」は、「旧甲州街道」よりも古い
「しながわ道」沿いにあるということなので、
「旧甲州街道」を左折して、この「しながわ道」
(品川街道)に出ます。
「しながわ道」を歩いていると、確かに、左手に写真の
「常久の一里塚跡」がありました!
案内板によると、「日本橋から7里目(28キロ)の甲州古道
の一里塚で、塚木は松と杉だった。この「しながわ道」は、
かっては東海道の品川に通じていた。」とあります。
「しながわ道」沿いの「常久の一里塚跡」を見たので、
満足して、京王線東府中駅の脇で、「しながわ道」から
「旧甲州街道」に戻ります。
旧甲州街道の左側に、写真の「国府八幡宮」への長~い参道が
ありました。
国府八幡宮は、一国一社の八幡宮として、武蔵国の八幡宮
として創建されました。
参道の先の鬱蒼とした森の奥に上の写真の社殿がありました。
旧甲州街道に戻って進むと、府中サウスビルの脇に
「明治天皇行在所跡」の解説碑があり、それによると、
ここ明治天皇行在所跡には、かって、田中三四郎家が務める
「柏屋本陣」があったそうです。
その先には、上の写真の「ケヤキ並木」があり、下の写真の
「ケヤキ並木馬場寄進碑」と「源義家の像」が建っています。
説明版によると、1062年、「八幡太郎」の名で知られる
源義家が、父の源頼義と共に、奥州の安倍一族を平定し
(前九年の役)、戦勝のお礼にケヤキの苗木1,000本を寄進
した、とあります。
また、ケヤキ並木両側の歩道部分は、かっては馬場だった
そうです。
「ケヤキ並木」の道路向こうは、次頁の写真の1900年も前に
創建されたという武蔵国の鎮守の「大国魂(おおくにたま)
神社」です。
大国魂神社は、江戸時代には、将軍家から武蔵国では最大の
朱印地を与えられていたそうです。
大国魂神社では、現在も、毎年5月に伝統の「くらやみ祭」が
行われ、80万人もの見物客で賑わっています。
「くらやみ祭」の名前の由来は、尊い神様が人の目に触れない
様に、御輿(みこし)を真夜中に担ぐためだそうです。
「司馬遼太郎」の名作「燃えよ剣」も、「くらやみ祭」の描写
で幕を開け、祭りへと繰り出す若き「新選組副長・土方歳三」
の姿が描かれています。
”新選組局長近藤勇(いさみ)が、副長の土方歳三(ひじかた
としぞう)とふたりっきりの場面では、「トシよ」と呼んだ、
という。
勇は上石原、歳三は石田村の出で、どちらも甲州街道ぞいの
在所で、三里と離れていない。
今夜は、府中の六社明神(大国魂神社)の「くらやみ祭」
であった。
この夜の参詣人は、府中周辺ばかりでなく三多摩の村々は
おろか、遠く江戸からも泊りがけでやってくるのだが、一郷
(いちごう)の灯が消されて浄闇(じょうあん)の天地に
なると、男も女も古代人にかえって、手あたり次第に
通じ合うのだ。”
この「燃えよ剣」に描かれている様に、江戸時代には、闇の中
で、若い男女が一期一会の出会いを求める風習があり、歳三も
そのために「くらやみ祭」に出掛けたのでした。
大国魂神社を出て、更に進むと、かって「札の辻」と
呼ばれた、旧甲州街道と鎌倉街道との交差点で、
その角には、写真の巨大な「高札場」があります。
高札場は、横幅4.6メートル、高さ5メートルで、当時の姿
をとどめる高札場は、都内では、東大和市の蔵敷高札場と
ここの2か所のみだそうです。
高札場の道路向かいは、1860年創業の上の写真の「酒屋・
中久本店」があり、その隣地が「問屋場」でした。