(写真は、大垣城の天守)
「奥の細道」のゴールの大垣を見学した我々のバス
旅行は、最後に、大垣城に立ち寄ります。
1600年の関ケ原の戦いでは、ここ大垣城は、西軍
の石田三成の本拠地となりました。
三成の本隊が、関ケ原に移動した後も、ここ
大垣城では、壮絶な攻防戦が繰り広げられ
ました。
(関ケ原の戦いについては、「中山道を歩く・
見てね。)
かつての大垣城は、水堀を幾重にもめぐらせた
堅城で、当時、敷地は現在の3倍以上もあり、
10もの櫓がある大規模な要塞でした。
江戸時代に入ると、戸田家が大垣藩の藩主となり、
以降、戸田家は11代にわたって、大垣藩十万石
の城主を続けました。
大垣城は、珍しい4層の天守を持っており、戦前
には国宝に指定されていました。
しかし、戦災で焼失、昭和34年に天守のみ再建
されました。
現在、大垣公園となっている城址には、上の写真
の様に、大垣藩の初代藩主 ・戸田氏鉄の像が、
城を背景に建っています。
西軍に属していた大垣城は、関ケ原の戦いの際
には、東軍による猛攻を受けました。
上の写真の「おあむ」という名の女性は、落城
寸前の大垣城から脱出し、この戦いの様子を
後の世に語り継ぎました。
「おあむ」は、城から脱出する際に、天守の脇の
松に飛び移り、そこから堀へ下りて、堀にあった
「たらい」に乗り移って逃げたそうです。
この「おあむ」が見た大垣城の籠城戦の様子は、
「おあむ物語」として後世に伝えられました。
(おあむの松)
上の写真は「大垣城東門」で、次頁の写真の
大垣城東門の右の櫓は、戦前は国宝だった
「艮隅櫓(うしとら すみやぐら)」です。
この東門は、昭和34年に天守が再建された際に、
大垣市内に残っていた「柳口門」を移築した
そうです。
上の写真は、昭和20年の米軍爆撃で焼失する前
の、国宝だったときの大垣城の天守です。
我々、バスツアーは、再建された天守への石段の
坂を上って行きます。
(入城料100円)
(大垣城下)
天守の中は、鉄筋コンクリート造りで、甲冑や
古文書など、大垣城にまつわる品々が展示されて
います。
また、当時の大垣城下の様子などをジオラマで
見ることもできます。
(大垣城設計図)
(大垣城)
(天守)
(天守からの眺め)
以下の写真は、天守内部に展示されている、
関ヶ原合戦の前日に大垣城を舞台に起きた
「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」の配置図と
ジオラマです。
関ケ原の戦いにおいて、西軍・石田三成が本拠地
を置いたこの大垣城から、東軍が陣をおいた岡山
(現在のお勝山)までは約5キロです。
家康は大垣の北東の赤坂岡山に着陣しました。
そこで、石田側の島左近は、杭瀬川(くいせがわ)
越しに東軍をおびき出し、徳川軍を壊滅させ
ました。
余り知られていませんが、関ケ原の戦いの前哨戦
にあたるこの戦いでは、上記の様に西軍が大勝
したのです!
(杭瀬川については、「中山道を歩く・赤坂」を
見てね。)
関ヶ原合戦後の大垣城の戦いでは、1週間の
籠城戦を経て本丸のみとなったところで、
降伏・開城しました。
(大垣城に籠る西軍と、杭瀬川(くいせがわ)に
出撃し東軍を蹴散らす島左近、そして赤坂・岡山
に陣取る家康率いる東軍)
(呂久の渡しの戦い:呂久の渡しについては、