ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

宮本武蔵 最後の5年間 (その4:「千葉城跡」 ) 2015.7.15


(写真は、熊本城内にある「千葉城跡」)

宮本武蔵が、熊本で過ごした最後の5年間に
ついては、武蔵が五輪書を執筆するために
籠ったという「霊厳洞」(れいがんどう)、
武蔵関連の肖像画、水墨画、刀剣などを
集めた「島田美術館」、参勤交代の無事を
祈るため立ったままの姿で葬られている
「武蔵塚」をご紹介しました。

お盆で熊本へ帰省(7/15~20)した際、「武蔵
塚」以外にも、武蔵ゆかりの地を訪ねてみました。

今回訪ねたのは、熊本城内にある「千葉城跡」
です。
「千葉城跡」は、熊本城の中にあります。

市電・熊本城の停留所からみて右手の橋が、お城
の前の坪井川に掛かる厩(うまや)橋で、橋の
右側が下の写真の千葉城公園です。



厩橋を渡り、左手に、熊本城の石垣と櫓を
見ながら、坂道を上がって行くと、下の写真
の様に、右手に分かれる細い上り坂があります。


下の写真は、その坂道の入口にある「千葉城跡」の石碑です。




現在は、 この細い上り坂は、NHK熊本放送局の
入口になっています。
熊本藩主・忠利から客分として迎えられた武蔵は、
ここ「千葉城跡」の一角に屋敷を与えられました。

(NHK放送局の入口の脇にある武蔵が使用していた井戸)
武蔵は、このNHKの入り口の坂を上り下りして、
毎日、与えられた屋敷とお城の本丸御殿を、
”通勤路”として行き来していたのでしょう。

ここで、”山本周五郎の武蔵”を、遅れ馳せ
ながら読んでみました。
吉川英治は、宮本武蔵を「剣聖」として描き
ました。
しかし、吉川・武蔵の「剣聖」に懐疑的だった
山本周五郎は、小説「よじょう」で、武蔵を
「滑稽な小人物」として描いています。
山本周五郎の小説「よじょう」は、
”肥後のくに熊本城の、大御殿の廊下で、宮本
武蔵という剣術の達人が、なにがしとかいう
包丁人を、斬った。
さしたることではない。
包丁人は武蔵を試そうとした。”、で始まります。

以下小説の粗筋です。
細川藩の殿様に仕える包丁人・長太夫は、剣術の
達人・宮本武蔵の技量を試そうとして、熊本城内
の廊下で、不意打ちを仕掛けます。
しかし、逆に、武蔵に、一刀のもとに斬り殺され、
返り討ちにあいました。

この惨殺された包丁人・長太夫の次男・岩太が、
この小説の主人公です。
岩太は、酒と博打に明け暮れていたので、家督を
継いだ長兄から勘当され、仕方なく掘立小屋で、
乞食生活をはじめます。

この掘立小屋の場所は、熊本城から、現在の観光
名所・水前寺公園の方へ向って、白川を渡る橋の
近くでした。
水前寺公園には、成趣園という藩主の別邸があり、
その途中には、重臣達の控え家も多数あり、家臣
達が控え家から登城する際の道筋でした。

この目障りな岩太の掘立小屋を撤去しようと、
見廻りの役人がやって来ますが、この乞食が
長太夫の息子だと分かると、丁重な礼をして
去ってゆきます。
その後、連日、次から次と、役人や町の人々が、
食べ物、衣類、銭などを置いてゆきます。
岩太は、そこで、自分は父の仇討ちを期待されて
いるのだ、と悟ります。
その後、武蔵は、住居を、千葉城内の本邸から、
水前寺の控え家に移して、毎日、掘立小屋の前を
通る様になります。
武蔵は、掘立小屋の前を通る度に、立ち止まり、
岩太の仇討ちを待ち、それがなければ、静かに
歩き出します。

やがて、武蔵は、下記の遺言と帷子(かたびら)を
残して、病死します。
「父の仇とつけ狙う心底あっぱれである。
 病死されては無念であろうから、身に着けた
 着物を遣わすゆえ、晋の故事にならって恨み
 をはらすように。」
岩太は、乞食生活で貯め込んだ元手で旅館を手に
入れ、予譲(よじょう)の故事にあやかり、
3太刀刺した帷子を展示して、旅館の名物に
してしまいます。
山本周五郎の短編小説「よじょう」は、
”さしたる仔細はない。
 そのために旅館は繁盛していった。”、
で終わります。


武蔵が熊本に腰を落ち着けたのは、武蔵の父・
無二の弟子であった細川藩家老・松井興長との
交流によるものだそうです。
武蔵は、藩主である細川忠利・光尚の相談役、
剣や兵法の指南役となりましたが、鷹狩りが
許されるなど、客分としては破格の待遇だった
そうです。
また、武蔵は、巌流島の決闘以降、大勢の弟子達
と行動を共にしています。
(巌流島の決闘については、2012/9の「下関
散策」を見てね。)

(巌流島)
細川藩にも、少なくとも3人の弟子を連れて来て
おり、彼らの指導もしていた様です。

そして、熊本での5年間、武蔵は、この千葉城跡
の屋敷では、茶、禅、書画製作の日々を送る、
文武両道の人でした。

(武蔵作の枯木鳴鵙図:島田美術館)
(このとき武蔵が残した肖像画や書、彫刻などの
 作品は、以前に ご紹介した「島田美術館」で
 見ることができます。)

武蔵の”実像”は、小説に書かれた様な「士官先
を求めて生涯彷徨した無頼漢」ではありません
でした。

一方で、養子の伊織を、小倉・小笠原藩を采配
する筆頭家老にまで育て上げました。
日本一の剣客であった武蔵は、息子の伊織には、
二天一流の極意を教えず、能を教えていたそう
です。
武蔵は、これからは、剣よりも教養の時代だと
考えていたのでしょう。

このような主君、家族、弟子などの環境下で、
細川藩の客分として、牢人出身者としては
数少ない悠悠自適の”勝ち組人生”を送って
いるのです。

関ケ原の戦い、大阪夏の陣、島原の乱の戦場を
駆け抜けた武蔵が求めたのは、徳川幕府の安泰
による安定した世の中だったのでしょう。

武蔵は、62歳で千葉城で亡くなりました。

ps.
熊本出身のコロッケの「ほら吹きと武蔵」は、
この「よじょう」を下敷きにしたらしいです。

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コメント一覧

更家
司馬遼太郎
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですか、司馬遼太郎の「宮本武蔵」も、武蔵にあまりいいイメージがない小説ですか。

三人三様ということかも知れませんが、それにしても、人物像の幅が広すぎますねえ・・・
Komoyo Mikomoti
宮本武蔵について
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
描く作家によって、人物像が変わってくるのは、
当然かもしれませんね。
余韻が残る作品だと思いました。

よくよく考えてみると、
自分は、司馬遼太郎の「宮本武蔵」しか読んだことがありません。
武蔵という人物にあまりいいイメージがないのは、そのせいかもしれません。
武蔵ファンには、おすすめできない本です。
更家
さしたる仔細はない
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
iinaさんは、4年も前に、「よじょう」について、ブログに詳細に書いておられたんですね。

最初と最後の”さしたる仔細はない。”というのが良いですよね。

山本周五郎は、吉川英治への対抗心がむき出しだつたんですね。
iina
周五郎の「よじょう」
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/cc80893753cf3d3a3e082878e94d10cf
熊本城内に「千葉城跡」があったのですか。その一角に屋敷を与えられた武蔵は、客分としては相当に遇せられていたのですね。^^
山本周五郎描く「よじょう」の武蔵は、吉川英治との確執で彼の代表作へのあてつけにされた観方もあるらしいです。

i余談ながら(^^ゞ、i na宅では 本作を3度ほどブログにしています。↓
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/502f3d598c8a1b7dcdcd98adae0cf8b7

座間のヒマワリは、2ヵ所で7月といまごろの8月に一斉に咲くようにしています。

更家
解釈の分かれるところ
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
予譲の故事にならって帷子を遣わしたのは、剣聖としてか、小心者としてか?

小説では、周五郎は、武蔵に悪意を持った印象で書いていますが、仰せの通り、ここは解釈の分かれるところで、周五郎の様な明解な解釈は出来ないと思います。

(ご指摘の通り、山本周五郎と入るべきところに誤って吉川英治が入ってました。単純ミスで失礼しました。)
hide-san
受け止め方
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
小説は読者の受け止め方によって解釈が変わりますね。

予譲の故事にならって、帷子を遣わしたのは、
剣聖としてか、小心者としてか、受け止め方が分かれるところ。

文中、吉川英治が山本周五郎と入るべきところに入っているように思えますが、読み間違いでしょうか。
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