![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/a7/19897b8f432ab921d7be09296b84152f.jpg)
(写真は、熊本城内にある「千葉城跡」)
宮本武蔵が、熊本で過ごした最後の5年間に
ついては、武蔵が五輪書を執筆するために
籠ったという「霊厳洞」(れいがんどう)、
武蔵関連の肖像画、水墨画、刀剣などを
集めた「島田美術館」、参勤交代の無事を
祈るため立ったままの姿で葬られている
「武蔵塚」をご紹介しました。
お盆で熊本へ帰省(7/15~20)した際、「武蔵
塚」以外にも、武蔵ゆかりの地を訪ねてみました。
今回訪ねたのは、熊本城内にある「千葉城跡」
です。
「千葉城跡」は、熊本城の中にあります。
市電・熊本城の停留所からみて右手の橋が、お城
の前の坪井川に掛かる厩(うまや)橋で、橋の
右側が下の写真の千葉城公園です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0235.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/9b/0af7d1a06e3e04b8c93980ec14a50afb.jpg)
厩橋を渡り、左手に、熊本城の石垣と櫓を
見ながら、坂道を上がって行くと、下の写真
の様に、右手に分かれる細い上り坂があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/18/71b4a584696690a23d749c6b3996020a.jpg)
下の写真は、その坂道の入口にある「千葉城跡」の石碑です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/64/35f71ac5ef58fe4d1a556f42d6e8793a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/99/3d78c6853f92a1abc0de46ab46ebb503.jpg)
現在は、 この細い上り坂は、NHK熊本放送局の
入口になっています。
熊本藩主・忠利から客分として迎えられた武蔵は、
ここ「千葉城跡」の一角に屋敷を与えられました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/a4/185f76a1b7955bb164545adec99c4017.jpg)
(NHK放送局の入口の脇にある武蔵が使用していた井戸)
武蔵は、このNHKの入り口の坂を上り下りして、
毎日、与えられた屋敷とお城の本丸御殿を、
”通勤路”として行き来していたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/01/64158895bcc59e6b9e8799c61653c534.jpg)
ここで、”山本周五郎の武蔵”を、遅れ馳せ
ながら読んでみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0070.gif)
吉川英治は、宮本武蔵を「剣聖」として描き
ました。
しかし、吉川・武蔵の「剣聖」に懐疑的だった
山本周五郎は、小説「よじょう」で、武蔵を
「滑稽な小人物」として描いています。
山本周五郎の小説「よじょう」は、
”肥後のくに熊本城の、大御殿の廊下で、宮本
武蔵という剣術の達人が、なにがしとかいう
包丁人を、斬った。
さしたることではない。
包丁人は武蔵を試そうとした。”、で始まります。
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以下小説の粗筋です。
細川藩の殿様に仕える包丁人・長太夫は、剣術の
達人・宮本武蔵の技量を試そうとして、熊本城内
の廊下で、不意打ちを仕掛けます。
しかし、逆に、武蔵に、一刀のもとに斬り殺され、
返り討ちにあいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_shock_s.gif)
この惨殺された包丁人・長太夫の次男・岩太が、
この小説の主人公です。
岩太は、酒と博打に明け暮れていたので、家督を
継いだ長兄から勘当され、仕方なく掘立小屋で、
乞食生活をはじめます。
この掘立小屋の場所は、熊本城から、現在の観光
名所・水前寺公園の方へ向って、白川を渡る橋の
近くでした。
水前寺公園には、成趣園という藩主の別邸があり、
その途中には、重臣達の控え家も多数あり、家臣
達が控え家から登城する際の道筋でした。
この目障りな岩太の掘立小屋を撤去しようと、
見廻りの役人がやって来ますが、この乞食が
長太夫の息子だと分かると、丁重な礼をして
去ってゆきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
その後、連日、次から次と、役人や町の人々が、
食べ物、衣類、銭などを置いてゆきます。
岩太は、そこで、自分は父の仇討ちを期待されて
いるのだ、と悟ります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0200.gif)
その後、武蔵は、住居を、千葉城内の本邸から、
水前寺の控え家に移して、毎日、掘立小屋の前を
通る様になります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ny_kimono_m.gif)
武蔵は、掘立小屋の前を通る度に、立ち止まり、
岩太の仇討ちを待ち、それがなければ、静かに
歩き出します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
やがて、武蔵は、下記の遺言と帷子(かたびら)を
残して、病死します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
「父の仇とつけ狙う心底あっぱれである。
病死されては無念であろうから、身に着けた
着物を遣わすゆえ、晋の故事にならって恨み
をはらすように。」
岩太は、乞食生活で貯め込んだ元手で旅館を手に
入れ、予譲(よじょう)の故事にあやかり、
3太刀刺した帷子を展示して、旅館の名物に
してしまいます。
山本周五郎の短編小説「よじょう」は、
”さしたる仔細はない。
そのために旅館は繁盛していった。”、
で終わります。
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武蔵が熊本に腰を落ち着けたのは、武蔵の父・
無二の弟子であった細川藩家老・松井興長との
交流によるものだそうです。
武蔵は、藩主である細川忠利・光尚の相談役、
剣や兵法の指南役となりましたが、鷹狩りが
許されるなど、客分としては破格の待遇だった
そうです。
また、武蔵は、巌流島の決闘以降、大勢の弟子達
と行動を共にしています。
(巌流島の決闘については、2012/9の「下関
散策」を見てね。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/0b/fb6096c1827bb30aa89767b6e756fb77.jpg)
(巌流島)
細川藩にも、少なくとも3人の弟子を連れて来て
おり、彼らの指導もしていた様です。
そして、熊本での5年間、武蔵は、この千葉城跡
の屋敷では、茶、禅、書画製作の日々を送る、
文武両道の人でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/eb/ccaa67a87d90cf6d9a81f2752ee2249c.jpg)
(武蔵作の枯木鳴鵙図:島田美術館)
(このとき武蔵が残した肖像画や書、彫刻などの
作品は、以前に ご紹介した「島田美術館」で
見ることができます。)
武蔵の”実像”は、小説に書かれた様な「士官先
を求めて生涯彷徨した無頼漢」ではありません
でした。
一方で、養子の伊織を、小倉・小笠原藩を采配
する筆頭家老にまで育て上げました。
日本一の剣客であった武蔵は、息子の伊織には、
二天一流の極意を教えず、能を教えていたそう
です。
武蔵は、これからは、剣よりも教養の時代だと
考えていたのでしょう。
このような主君、家族、弟子などの環境下で、
細川藩の客分として、牢人出身者としては
数少ない悠悠自適の”勝ち組人生”を送って
いるのです。
関ケ原の戦い、大阪夏の陣、島原の乱の戦場を
駆け抜けた武蔵が求めたのは、徳川幕府の安泰
による安定した世の中だったのでしょう。
武蔵は、62歳で千葉城で亡くなりました。
ps.
熊本出身のコロッケの「ほら吹きと武蔵」は、
この「よじょう」を下敷きにしたらしいです。