(写真は、「聴泉閣かめや」の「上段の間」)
遂に、甲州街道のゴールの「下諏訪宿」に到着しました。
「下諏訪宿」は、中山道との追分を控え、諏訪大社下社の
門前町として昔から栄えていました。
また、中山道の”唯一の”「温泉場」としても大いに賑わい
ました。
下諏訪宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠40軒でした。
旧甲州街道は、諏訪大社下社の前を通り過ぎると、下諏訪名物
「塩羊羹」の老舗「新鶴本店」に突き当たります。
中山道踏破のときに、ここで名物「塩羊羹」を買って
美味しかったので、今回もまた同じ塩羊羹を買います。
(塩羊羹:950円)
明治6年創業の新鶴本店は、幕末の尊皇派で南画家の天龍道人
(てんりゅうどうじん)の住居でした。
新鶴本店の少し先の「聴泉閣かめや」に入って、コーヒーを
飲みながら一休みします。
「かめや」は、江戸時代には、下諏訪宿の本陣の一部だった
ので、参勤交代の諸大名はもちろん、皇女和宮などの将軍の
御台所となった皇女の寝所もありました。
更に、明治以降になると、島崎藤村、芥川龍之介、与謝野鉄幹
・晶子なども宿泊しています。
「かめや」の「上段の間」が喫茶室になっているので、
上段の間から前庭を眺めながら、コーヒーを飲んで、
贅沢なひと時を過ごしました。
なお、「かめや」の隣の写真の「本陣岩波家」には、
近藤勇らの新撰組、赤報隊、水戸浪士などが宿泊し、
激動の幕末の舞台となりました。
(「本陣岩波家」の内部については「中山道を歩く・下諏訪宿」
を見てね。)
(また、赤報隊については「中山道を歩く・塩尻峠」
を見てね。)
「聴泉閣かめや」の出口の右手に、「下諏訪宿 甲州道中
中山道 合流之地」と刻まれた上の写真の「合流之地碑」が
あります。
この合流之地碑が、甲州街道の終点で、碑面には、
「中山道下諏訪宿 問屋場趾、甲州道中終点、
右 江戸へ五十三里十一丁、左 江戸より五十五里七丁
正面 京都へ七十七里三丁」と刻まれています。
ここには、上の写真の「問屋場跡」碑があります。
また、問屋場跡碑と並んで、ここには、下諏訪三名泉(児湯、
旦過の湯)のひとつの「綿の湯」の碑があります。
太古の昔から湧き出ていたという「綿の湯」は、諏訪大社下社
に由来するために、「やましい者が入ると、神の怒りに
触れて、湯口が濁った」そうです。
やましいことに心当たりのある人は入らない方が良さそうです
・・・
綿の湯の並びには、子宝に恵まれるという写真の日帰り温泉の
「児湯(こゆ)」があります。(入浴料230円)
児湯の前には、上の写真の「桔梗屋」旅館があります。
桔梗屋は、東海道中膝栗毛の作者の「十返舎一九」や、
浮世絵師の「安藤広重」などが宿泊しました。
(十返舎一九の旅加羅寿から:上の諏訪を発ちて 下の諏訪に
至る、このところ桔梗屋というに泊る。)
また、明治以降には、川合玉堂、竹久夢二、斎藤茂吉など
多くの文人も宿泊しています。
実は、私も、この桔梗屋に1泊して、五街道踏破の祝杯を
挙げようと思い、前日に予約の電話をしました。
しかし、このときの女将さんの説明によると、「現在、山梨
県民が対象の県民旅割が実施中なので、県内の観光地は
全て満席ですよ。」とのこと・・・
上の写真は、「桔梗屋」旅館と並ぶ老舗の旧脇本陣だった
「御宿まるや」(建物は最近忠実に復元)ですが、こちらも、
もちろん満室でした。
という訳で、温泉に浸りながらの五街道踏破の祝杯は断念、
泣く泣く日帰りの旅となりました。
桔梗屋の前の上の写真の「宿場街道資料館」に入って、
下諏訪宿の展示物を見学します。
下諏訪宿の見学を終わり、下諏訪駅から、JR中央本線の
普通列車に乗ります。