ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(58-2:関が原:宿場町) 岐阜県不破郡 4km 2015.11.12


(写真は、関が原宿の「たまり醤油製造所」)
旧中山道は国道21号と合流して、関が原宿に入ると、
「たまり」と書かれた古い建物の醤油製造所の蔵が
左手に見えます。
「たまり醤油」は、宮内庁御用達です。



    
醤油製造所の先の右手は、下の写真の「脇本陣」跡です。

   
更に街道を直進して行きますが、途中は宿場町らしい家
が散見される程度で、交通量が多いので、ゆっくりと
見物する気分にはなれません。




北国街道を横断歩道で横切り、中山道を直進すると、
右手に「西首塚」がありました。



奥の方には、大小2つの祠が並んでおり、古い石柱には、
「関が原合戦 戦死者 胴塚」と刻まれています。
えぇっ?、
首塚ではなくて胴塚なの?
案内板によると、「戦死者数千の首級(討ち取った首)
を葬った塚」とあります。
ここに、数千人もの首が埋まっているの?!
ひぇ~! 怖っ~・・・

「首級を葬った塚」の案内板と、「胴塚」の石柱の両方
があるという事は、首実検をした首と、首の無い胴体との
両方が、この下に埋葬されているという事なのでしょうかねえ・・・

塚の上には小さな五輪塔が並んでいます。
この「西首塚」が、関が原宿の西の外れになります。
中山道は、西首塚の少し先で、国道21号線から分かれて、
左手の道に入って、真っ直ぐに進んで行きます。

「天武天皇 兜掛け石 沓脱ぎ石」の標識があったので、
標識に従って、個人の庭の一部だと思われる細い道を
たどって行きます。



すると、個人の家の庭先に、下の写真の「天武天皇」の
「兜掛け石」と「沓(くつ)脱ぎ石」がありました。

(兜掛け石)

(沓脱ぎ石)
壬申の乱(672年)では、この付近を境にして、
西方の弘文天皇と、東方の「天武天皇」が対峙して
合戦を行い、「天武天皇」側が勝利しました。


広重の浮世絵「木曽街道69次之内 関か原」は、関が原の
西の外れから、宿場町の方角である東を向いて描かれた
らしいです。
関が原は、壬申の乱(672年)と関ケ原合戦(1600年)の
二大古戦場として余りにも有名です。
従って、関が原宿は、古戦場をイメージした浮世絵の題材
には事欠きません。
にも拘わらず、広重は、敢えて、何処にでもある平凡な風景
を描いています。
右手の茶屋の軒下に下がる提灯には、「名ぶつさとうもち」
(名物 砂糖餅)の文字が見えます。
また、茶店の看板には、「そばぎり」「うんどん」と書かれて
います。
茶店の前の縁台の旅人は、名物の砂糖餅に箸をつけようと
しています。
そして、お盆にお茶を乗せてきた老婆が、もう一人の旅人の
注文を聞いています。
その左手は、馬を引いた馬子、そして、更にその左奥には
2頭の馬を引く女が描かれています。

天武天皇の兜掛け石から中山道に戻り、少し進むと、左手の
白壁の家の前に「不破の関守跡」碑がありました。



天武天皇の時代に、”三関”として、東海道「鈴鹿の関」、
北陸道「愛発(あらち)の関」、東山道「美濃不破の関」が
設けられました。
しかし、798年には廃止されて、関守だけが置かれましたが、
平安時代以降、多くの文学作品や紀行文に関跡として登場する
様になったそうです。

この白壁の家の奥に、上の写真の「不破の関守の屋敷跡」が
あり、芭蕉やその他の歌人の句碑等が立っています。

”秋風や 藪も畑も 不破の関”(芭蕉)
(田んぼや畑に変わり果てた虚しい不破の関跡に、秋風が
寂しく吹いている。)

不破の関跡の前から道は下り坂になり、その途中に「不破の
関資料館」(100円)があり、壬申の乱のビデオや不破の
関のジオラマが展示されています。





不破の関跡の前の坂を下り切ると、藤古川が流れていますが、
壬申の乱では、この川を挟んで、天武天皇軍と弘文天皇軍が
睨み合ったそうです。




藤古川を渡り、中山道を直進して、国道21号を歩道橋で


斜めに越えて進んで行き、右手の「若宮八幡神社」を過ぎる
と、大谷吉隆の墓の標識がありました。


私の好きな「大谷吉隆」の墓にお参りするために、標識に従い
頑張って山道を上って行きます。





山道を上りきったところに、「大谷吉継の陣跡」があり、正面
に小早川秀秋が陣取った松尾山を望むことが出来ます。





「大谷吉継」は、石田三成の盟友で、病身を押して参戦、
”義”を貫いた武将です。


(小早川秀秋が陣取った松尾山)
吉継は、小早川の寝返りを予想しており、寝返りに動じずに
応戦しますが、吉継の配下の脇坂隊の裏切りにより吉継軍は
混乱、あえなくこの地で自害しました。

大谷吉継陣跡から中山道に戻り、高札場跡の前を過ぎ、さらに
進んで「黒血川」を渡ります。

壬申の乱で、この川を挟んで両軍が衝突して激戦となり、両軍
兵士の流血が、川底の石を黒く染めたことから、「黒血川」の
名前が付きました。

黒血川の先の左手には、「鶯の滝」があり、滝の下は綺麗な
水の川が流れていて、一休みしたくなる心地よい場所です。
年中、ウグイスが鳴くことから、「鶯の滝」と呼ばれる様になったそうです。




鶯の滝の先で、東海道線のガードをくぐり、少し歩くと、右手
に小公園があり、その中に、「常盤御前」の墓がありました。



常盤御前は、都一の美女と言われ、源義朝の側室として牛若丸
を生みますが、平治の乱で源義朝が敗れたので、仕方なく
平清盛の愛妾となりました。

ここの案内板によると、東国へ向かった牛若丸を案じ、あとを
追ってきた常盤御前は、ここで山賊に襲われて息を引き取り
ました。
これを哀れに思った村人が、ここに葬り塚を築いたそうです。また、この小公園には、芭蕉の句碑も建っています。
”義朝の 心に似たり 秋の風” 
(ここに立つと秋風が吹きすさんでいるが、この感じは、あの
源義朝が平治の乱で敗れ、最後は家人に殺されてしまった
心とどこか似ているかもしれない。
常盤御前墓を出て、線路沿いに少し歩いて、踏切を渡ると、
やがて緩やかな上り坂になり、山の中へ入って行きますが、
これが今須峠です。



この今須峠を超えて、旧道から国道21号に合流すると、もうそこは今須宿です。

関が原宿から今須宿までは、約4キロです。


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コメント一覧

更家
宿場町としても
そうですね、ここは合戦場として有名過ぎるため、むしろ、宿場町でもあると聞いて驚く人が大部分です。

町役場には、合戦場のPRだけでなく、宿場町としての遺構保存にも努力して欲しいです。
Komoyo Mikomoti
関ヶ原宿
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
宿場町としての関ヶ原は、あまり魅力がないですね。
ここは旧街道がそのまま国道になってしまっているのが残念ですね。
更家
懐かしさに引き込まれて
この辺りは、hide-sanさんが以前に歩かれてから、だいぶ経っているでしょうけど、でも、その頃と余り変わらない風景かも知れませんね。
hide-san
引き込まれる
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
以前歩いた場所についつい引き込まれてしまいます。

写真を有り難うございました。
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