ウォーク更家の散歩 (東海道、中山道、日光街道、奥州街道)

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中山道を歩く(完全踏破の一人旅)

日光街道を歩く(09:古河) 茨城県古河市 3km 2016.11.8

2017-01-25 16:54:56 | Weblog
 
(写真は「鷹見泉石 記念館」)

旧日光街道沿いの「古河(こが)宿」と書かれた常夜灯の辺り
から、古河宿に入って行きます。

常夜灯の脇の「松並木のある風景 日光街道」と書かれた
説明板によると、
「江戸時代、ここには、約5キロにわたって松並木が整然と
続いていました。」とあります。
綺麗に整備された気持ちの良い歩道が続きます。

宿場町の案内文が書かれた立派な「常夜灯」が一定間隔で設置
されていて、古河市の古河宿への熱い思い入れが伝わって来ます。

解り易い案内文が続き、街道歩きの私もワクワクしてきます。



更に街道沿いに進むと、左手に、上の写真の「茶屋口」碑が
ありました。

将軍の日光社参の宿泊のための古河城入場の際は、ここ
「茶屋口」に休息所を設けて将軍を迎え、将軍はここから
御成門へ向かいました。

私も、ここで左折して、将軍が古河城へ向かったのと同じ
「鍵の手」の道を古河城跡へ向かいます。

鍵の手の道の両側には、次頁の写真のような雰囲気のある
建物が並んでいます。







更に進むと、城跡の敷地に建てられた上の写真の古河第一
小学校がありますが、まるで私立のミッションスクールの
様な雰囲気で、とても市立の小学校とは思えません!

小学校の先の古河城跡に建てられたという「古河歴史博物館」
(400円)に入ります。(館内撮影禁止)







博物館の入口に、上の写真の「史跡 古河城 出城 諏訪郭」」
の石碑がありました。

江戸時代には、この石碑の辺りに、「古河城の出城」が建て
られ、「古河歴史博物館」はこの出城の跡に建てられました。
館内のビデオ映像で、古河城の歴史について学びます。

「古河城」は、1663年に、初代大老の土井利勝が城主になり
ますが、その後次々と譜代大名が城主になり、1762年に
土井家が再び城主となって明治に及びました。
館内は、CGによる古河城の全容復元や、古河城と城下町の
復元模型などの充実した展示物で、なかなか見応えがあり
お薦めです。

これによると、古河城は、西は渡良瀬川、東は百軒堀に
囲まれた細長い敷地の中にあり、本丸の三階櫓が天守閣
の役割を果たしていたそうです。

「古河城」は、日光に詣でる将軍の宿泊所として利用され
ましたが、明治以降、渡良瀬川の河川改修によって大半が
取り壊され、堤防や河川敷になってしまい失われました。

展示物の中には、江戸から日光までの各宿間の距離が一目で
分かる様に工夫された「日光駅路数之表」や、鷹見泉石
(たかみせんせき)が書いた世界地図「新製興地全図」
なども展示されており充実しています。

館内の展示資料によると、滝沢馬琴「南総里見八犬伝」の
八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が、ここ古河城の芳流閣(架空
の建物)の屋根の上で、一騎打ちをします。
そして二人は、屋根の上から渡良瀬川に飛び込み、利根川
を下って、行徳(千葉県)の入江まで流れ着いたそうです!

(歌舞伎「芳流閣屋根上」の場の錦絵:館山城のパンフレットから)


(歌川豊国の錦絵「行徳の入江」:館山城のパンフレットから)

博物館の前庭は、古河城のお堀の発掘調査をしたあとに、お堀
をかさ上げして写真の様な素敵な「親水公園」になっています。




博物館の道路向いには、古河藩・家老「鷹見泉石(たかみ
せんせき)」が晩年を送った武家屋敷を復元した
「鷹見泉石 記念館」(無料)がありました。











家老の鷹見泉石は、藩主・土井利位(としつら)が大阪城代
だったときに、大塩平八郎の乱の鎮圧を直接指揮しました。

泉石は、司馬江漢、渡辺崋山らとも交友があり、下の写真は、
崋山が描いた鷹見泉石の肖像画です。

泉石は、蘭学者で、天文、地理、軍事など広範囲にわたる研究
成果を残しています。
また、泉石は、広い視野をもって、早くから開国論を唱えて
いましたが、そのためにのちに幕府から咎められ、免職と
なって古河に隠居させられました。

鷹見泉石記念館の前の道を進むと、左手に次頁の写真の
1493年創建の「長谷寺」があります。

「長谷寺」は、古河城の鬼門除けとして、1493年に、鎌倉の
長谷寺から勧請したもので、奈良の長谷寺、鎌倉の長谷寺と
共に「日本三長谷の観音」と称されるそうです。



長谷寺の前の道を、博物館入口の信号まで進み、左折して少し
進むと、左手奥に、上の写真の「古河城の大手門」跡の石碑が
ありました。
大手門跡の石碑から、博物館入口の信号まで戻り、更に直進
してJR古河駅に向かいます。
JR古河駅から、上野東京ラインで、乗換えなしで横浜へ
帰りました。


翌朝、昨夕のゴールになったJR古河駅をスタートします。

JR古河駅の前には、写真の「万葉古河の歌碑」が建って
いました。

「古河」は、万葉の時代は「許我(こが)」と表記されて
いたそうです。

歌碑には、「古河(許我)」の地名を含む歌が刻まれて
います。
 ”逢わずして 行かば惜しけむ まくらがの 
許我(こが)漕ぐ船に 君も逢わぬかも”
  (会わないまま出かけるのは心残りです。古河を漕ぐ舟の
中でも会えないものでしょうか。)

古河駅の前の道を直進すると、昨日歩いた旧日光街道と交差
します。




その街道沿いの古河宿の各名所案内が書かれた常夜灯の中に
前頁の写真の「公方(くぼう)の城 古河城」の説明があり
ました。
それによると、古河は古くから拓け、利根川の河川交通の要所
として発展してきました。
鎌倉を追われた室町幕府将軍・足利尊氏の子孫が、「古河公方
(くぼう)」として、5代120年にわたり、古河を居城
(御座所)としていました。
そして、江戸時代に入ると、徳川譜代大名の城下町として、
大老の土井氏、堀田氏を筆頭に、閣老級の大名が次々と
城主となり、将軍の日光社参の際の御泊城となりました。

古河駅から来た道と旧日光街道との交差点の近くに、上の
写真の「高札場跡」の石碑があります。
そして、高札場跡の道路向い側に次頁の写真の「本陣跡」の
碑もあります。
その高札場跡と本陣跡の間の道を、古河駅とは反対の方向へ
向かって歩いて行きます。

すると、博物館入口の信号の右手に、「正定寺」(しょう
じょうじ)の通用門である「赤門」がありました。



「正定寺」は、家康・秀忠・家光に仕えた古河城主の土井利勝
が、1633年に創建した土井家の菩提寺で、境内には土井一族
の墓があります。

城主の土井利勝は、秀忠のときに老中に、家光のときに大老に
と、とんとん拍子の大出世をしました。




上の写真は、正定寺の正門である「黒門」で、案内板による
と、東京・本郷にあった土井家・下屋敷の表門を、昭和8年
に、ここに移築したのだそうです。

境内に入ると、本堂の前には、次頁の写真の「土井利勝公の
銅像」があり、本堂の裏手には、「古河城主 土井家墓所」
の案内板がありました。





案内板に従って、奥に進むと、写真の様に、土井家一族の墓が
ありました。

また境内には、下の写真の「お楽の方の供養塔」がありました。

説明板によると、「お楽の方」は、ここ古河の出身で、春日局
の目にとまって大奥に入り、4代将軍・徳川家綱を生みました。

前頁の写真の供養塔の左脇のお地蔵様は、江戸城内にあった
子育て祈願のお地蔵様を貰い受けたものだそうです。

正定寺を出て、旧日光街道に戻り、更に進むと、以下の写真の
様な雰囲気のある民家が点在します。










やがて、1861年に建てられたという下の写真の常夜燈を
備えた立派な「常夜燈の道しるべ」がありました。




道標には、「右 江戸衛(へ)」、「左 日光道」と彫られて
います。


その道標のある交差点に、写真の「左 日光道」の小さな道標
があったので、これに従い左折します。



小さな道標から、街道は鉤の手になっており、直ぐに右折する
と、「よこまち柳通り」になります。





この通りを進むと、直ぐに県道261号に合流しますが、
合流地点に古河宿の常夜灯があり、古河宿がここで終わる
ことを示しています。
間もなく、県道261号は、茨城県から栃木県に入って行きます。




古河宿から次の野木宿までは、約3キロです。/
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