山梨盲ろう教育資料電子化事業」への協力のお願い
日本初の盲ろう教育が、山梨県立盲学校で行われたのは戦後間もない頃です。
当時の校長堀江貞尚氏は、盲学校・ろう学校の義務教育化が実施された昭和
23年、小中学校及び師範学校の協力を得て、山梨県下の盲児及びろう児の実
態調査を行いました。この時、堀江氏自身が実際に踏査し、その中で「教育可
能」とされた4歳の盲ろう二重障害児を発見し、家庭訪問による教育を開始し
ました。そして、昭和24年、その男児の入学を、翌年には、7歳の女児の入
学を許可し、わが国で初めての盲ろう教育が始まったのです。
その後約20年間、東京大学の梅津八三先生、中島昭美先生など大学の研究
者と共に、校長、学級担任、寄宿舎の寮母が一体となり取り組んだ盲ろう教育
の研究体制、指導体制は、その当時世界に類を見ないものでした。地方の盲学
校で始まったこの実践研究は、9年にわたり文部省の実験学校としての指定を
受け、世界からも注目されるようになりました。
当時のこれらの取組に関わる資料、2,250点あまりの指導記録・学習記録
(墨字、点字、写真、音声、映像等)、教材教具は、現在山梨県立盲学校に保管
されています。散逸することなく現在に残されているということにおいて、希
少性が高く、現在の特別支援教育においても大いに参考になるものです。
山梨県立盲学校では、その資料を現在の教育への活用のため公開の取組を行っ
ています。しかし、古い資料等は、70年を経過し劣化による損傷が著しく、
今後の保存と活用が危ぶまれています。
そこで、平成30年3月に山梨県立盲学校を退職した校長や教育関係者が中
心となり実行委員会を立ち上げ、資料保存のための電子化事業に取り組み始め
ました。これまでに多くの皆様からの御理解、御協力を得て募金を賜り、8万
枚に及ぶ点字資料の電子化に着手することができました。
しかし、緊急性の高い音声・映像の資料、教材教具、そして残りの点字資料
の電子化の目途は立っておりません。そこで、改めて300万円を目標金額と
してとして募金を行いたく存じます。全てを電子化した後には、データを公開
し、全国の皆様の教育活動に寄与していく所存です。
どうぞ、趣旨を御理解のうえ、更なる募金に御協力いただけますようお願い
申し上げます。
令和元年 7月 山梨盲ろう教育資料電子化実行委員会
会 長 引田 秋生
当時の校長堀江貞尚氏は、盲学校・ろう学校の義務教育化が実施された昭和
23年、小中学校及び師範学校の協力を得て、山梨県下の盲児及びろう児の実
態調査を行いました。この時、堀江氏自身が実際に踏査し、その中で「教育可
能」とされた4歳の盲ろう二重障害児を発見し、家庭訪問による教育を開始し
ました。そして、昭和24年、その男児の入学を、翌年には、7歳の女児の入
学を許可し、わが国で初めての盲ろう教育が始まったのです。
その後約20年間、東京大学の梅津八三先生、中島昭美先生など大学の研究
者と共に、校長、学級担任、寄宿舎の寮母が一体となり取り組んだ盲ろう教育
の研究体制、指導体制は、その当時世界に類を見ないものでした。地方の盲学
校で始まったこの実践研究は、9年にわたり文部省の実験学校としての指定を
受け、世界からも注目されるようになりました。
当時のこれらの取組に関わる資料、2,250点あまりの指導記録・学習記録
(墨字、点字、写真、音声、映像等)、教材教具は、現在山梨県立盲学校に保管
されています。散逸することなく現在に残されているということにおいて、希
少性が高く、現在の特別支援教育においても大いに参考になるものです。
山梨県立盲学校では、その資料を現在の教育への活用のため公開の取組を行っ
ています。しかし、古い資料等は、70年を経過し劣化による損傷が著しく、
今後の保存と活用が危ぶまれています。
そこで、平成30年3月に山梨県立盲学校を退職した校長や教育関係者が中
心となり実行委員会を立ち上げ、資料保存のための電子化事業に取り組み始め
ました。これまでに多くの皆様からの御理解、御協力を得て募金を賜り、8万
枚に及ぶ点字資料の電子化に着手することができました。
しかし、緊急性の高い音声・映像の資料、教材教具、そして残りの点字資料
の電子化の目途は立っておりません。そこで、改めて300万円を目標金額と
してとして募金を行いたく存じます。全てを電子化した後には、データを公開
し、全国の皆様の教育活動に寄与していく所存です。
どうぞ、趣旨を御理解のうえ、更なる募金に御協力いただけますようお願い
申し上げます。
令和元年 7月 山梨盲ろう教育資料電子化実行委員会
会 長 引田 秋生