伊崎一徳 青森県青森市三内稲本110-47
(ちち) 夫
良 蔵 |一徳
|公徳
|----ー|幸徳
(祖父) |良(女)
清太郎
|-----ーー きよへ
はるへ (はは)
(祖母)
下船の時の外の匂い(港には大小さまざまの汚い船が居た)には
耐えられないと母が体調を崩したので最初の目的地の大同までは無理
とのことで 北京で休養してから大同に向かったそう。
何泊したかは記憶にないが、気分のいい日には北白公園まで出かけたと母はいうが記憶にない。
大同には国民学校に入学してから3年の春までいたことになる。2年生の時「雲崗の石仏」に遠足した写真が新城の祖父宛てに送られたものが残っている。
大同の家や街の様子は記憶に残っていたので1999年(平成11年)初めての訪中の際に個人行動は出来ないといわれていたのだがお願いしてガイド友人と三人で昔の市街地図を頼りの出かけたが、最後は私の記を優先して住んでいた旧居にたどり着くことができました。土壁の四合院造りの家だったが半世紀余も過ぎたその時には余りにもくたびれていてに、昔の面影は朽ち果てた門の扉に残すのみでした。
お土産を持参んしたのですがタクシーからは下りないでくれと言われたので危険を感じて周りを見たら大勢の人だかりができていました。車窓から懐かしい街並みを見ながらホテルに帰り翌日早朝の汽車で北京に向かいました。
この時の街並の様子はほとんど変わっていないのに駅だけは街に不釣り合いなほど大きなものに変わっていた。
この時の訪中では張家口は予定にはいっていなかったのです。
耐えられないと母が体調を崩したので最初の目的地の大同までは無理
とのことで 北京で休養してから大同に向かったそう。
何泊したかは記憶にないが、気分のいい日には北白公園まで出かけたと母はいうが記憶にない。
大同には国民学校に入学してから3年の春までいたことになる。2年生の時「雲崗の石仏」に遠足した写真が新城の祖父宛てに送られたものが残っている。
大同の家や街の様子は記憶に残っていたので1999年(平成11年)初めての訪中の際に個人行動は出来ないといわれていたのだがお願いしてガイド友人と三人で昔の市街地図を頼りの出かけたが、最後は私の記を優先して住んでいた旧居にたどり着くことができました。土壁の四合院造りの家だったが半世紀余も過ぎたその時には余りにもくたびれていてに、昔の面影は朽ち果てた門の扉に残すのみでした。
お土産を持参んしたのですがタクシーからは下りないでくれと言われたので危険を感じて周りを見たら大勢の人だかりができていました。車窓から懐かしい街並みを見ながらホテルに帰り翌日早朝の汽車で北京に向かいました。
この時の街並の様子はほとんど変わっていないのに駅だけは街に不釣り合いなほど大きなものに変わっていた。
この時の訪中では張家口は予定にはいっていなかったのです。
五所川原市の五能線国鉄宿舎で生まれて3歳まで、父の職名は五所川原
保線分区長母は若いのに「旦那様の奥さん」と呼ばれていたそうです。
4歳で奥羽本線川辺保線分区長に転勤になり、川辺国鉄宿舎で暮らしたその後
中国で国民学校に入学したのだがそのあたりの記憶が飛び飛びで、残念なことに定かでない。
その頃の新城での写真を見てもあまり記憶がない。
東京三越で入学式の洋服と帽子を買ってもらった事は写真があるのでそうかなと思うぐらいの
記憶しかない。船での記憶もあまりないのだが弟3歳昭一が騒いで食堂に行けなかっつたとか、
母は毎食船室でお弁当を食べたとか話には聞かされたが・・・
、
保線分区長母は若いのに「旦那様の奥さん」と呼ばれていたそうです。
4歳で奥羽本線川辺保線分区長に転勤になり、川辺国鉄宿舎で暮らしたその後
中国で国民学校に入学したのだがそのあたりの記憶が飛び飛びで、残念なことに定かでない。
その頃の新城での写真を見てもあまり記憶がない。
東京三越で入学式の洋服と帽子を買ってもらった事は写真があるのでそうかなと思うぐらいの
記憶しかない。船での記憶もあまりないのだが弟3歳昭一が騒いで食堂に行けなかっつたとか、
母は毎食船室でお弁当を食べたとか話には聞かされたが・・・
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