
土曜日
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%86%A8%E8%98%86%E8%8A%B1
http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/card1708.html
徳富蘆花
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/torusutoi.htm
文豪トルストイ
名字の言
4月11日
最初は農民のようにも見えたが、すぐに分かった。「ああ、あなたは先生」。彼が握った、その手は大きく、温かかった。作家の徳富蘆花がロシアで文豪トルストイと出会った情景だ(『蘆花全集7』)
▼日露戦争後の激動期。執筆活動に行き詰まった蘆花は、トルストイの思想に共感を深め、“ひと目、会いたい”と単身ロシアに。決して反戦論者ではなかった蘆花を、文豪は歓迎した。平和、宗教、文学など多岐にわたった語らいは、蘆花の生涯で、最も幸せな思い出に。帰国した彼は非暴力主義を表明し、新たな言論戦を開始した
▼彼だけではない。トルストイのもとには世界中から友が訪れ、皆、語らいの中で勇気を奮い起こした。友情の対話が人間を結び、平和の連帯を拡大していった
▼19世紀に夢物語と嘲笑された、文豪の非暴力主義。その精神を謳った著作は、没後100年を迎える現在も読み継がれ、混迷の21世紀を生きる民衆に希望の光を放っている
▼池田SGI会長に「トルストイの時代」賞を授与した文豪の玄孫ウラジーミル氏は、“池田会長はトルストイの人間主義思想を見事に貫く人物”と、その平和行動をたたえてやまない。文豪の魂は、正義と友情を拡大する創価の人間主義運動に脈打っている。(弘)
小説「新・人間革命」
4月10日
明治大学四年の藤森敦は、電流が全身を貫くような思いで、二部学生大会への山本伸一のメッセージを聞いた。
彼は、高校卒業後、アルバイトをして学費を貯め、政治経済学部の二部に入学した。実家は、東京の人情味あふれる下町の江東区であった。暮らしは、決して豊かではなく、本来ならば、大学に進める状況ではなかった。
そのなかで彼が、大学進学を決意したのは、中学時代に「男子は、全員、大学へ」との会長・山本伸一の指導を聞いたからであった。
知識、教養は、知恵を開く門である。したがって伸一は、できるなら、男女の別なく、大学等に進学し、勉学に励んでほしかった。
しかし、あえて男子に、強く大学進学を呼びかけたのは、男子は社会に出て働き、女子の多くは、結婚後、専業主婦になるという、当時の日本の現実を見すえてのことであった。学歴が重視される日本社会にあって、存分に力を発揮していくには、大学卒業の資格と学力を得ることが望ましかった。
伸一は、中等部員や高等部員に対して、もし、昼間の大学に行けない場合には、夜学でも、通信教育でもよいから、勉学を重ねていくように訴えていたのである。二部学生のなかには、この伸一の指導を聞いて、大学進学を決意した人が少なくなかった。
藤森は、希望に燃えて二部学生となり、昼は、ホテルに勤めた。仕事、学業、学会活動に、体当たりする思いで挑戦していった。
しかし、その生活は、肉体的にも、精神的にも、予想以上に厳しかった。睡眠時間を削らなければならないことも、少なくない。
朝、勤務先で清掃しながら、あまりの疲労から、掃除機の柄を支えにして眠ってしまうこともあった。大学の前期試験を終えて、本部幹部会の会場である日大講堂に駆けつけると、既に終了していたこともあった。
苦闘の渦中は、ただ、必死なだけかもしれない。しかし、その時が、最も成長し、前進し、自身を磨き上げている時なのだ。苦闘即栄光であり、苦闘即勝利となるのだ
立正安国論
嗟呼悲しいかな、
如来誠諦の禁言に背くこと、
哀なるかな愚侶迷惑の麤語に随うこと、
早く天下の静謐を思わば
須く国中の謗法を断つべし。