なんとかなっぺ

タイではマイペンライ、インドネシアではティダアパアパ、マレーシアではOKラ! 沖縄ではなんくるないさって言うんだって。

ファンタジーのDNA

2010-01-11 | 
本より抜粋 荻原 規子著 理論社刊


創作に神話っをもちいながら、あくまで細部の感覚にこだわっていく書き方は、現代人のわれわれが神話をもう一度自分のものとして味わいなおすため、直感的に用いている方策だと言えなくもない。

(略)神話と言い切ると、少々限定されすぎてしまうが、昔話も英雄伝説も、人類がかかえている「典型」のお話し、類話が数あっても本質が抽出できるようなお話は、ぜんぶこの範疇にはいる。p39


太古からわれわれは別世界を創って想像していたのであり、そこでのふるまい方には、はるかな過去にさかのぼる軌跡があるからだ。神話、伝説、昔話にそのノウハウが残されている。
 一方、自分を消していく方法でファンタジーを創らず、核となる自我を捨てずにファンタジー世界を旅しようとすると、たいへん危険な行為になる。生々しい個人の問題に没頭しながら神話的な表象にふれると、スパークしてとんでもないものを暴き出すかもしれないのだ。
 傑作が生まれる余地がないとは言わないが、万人に伝わる形をとる前に個人が傷つくだろう。
 じつは、この神話、伝説、昔話がもっている派茶ーんを、紋切り型と読んでもそれほどまちがっていない。ものごとには、どこへ行ってみても紋切り型があるものなのだ。P48


ファンタジーが必ずもっている要素は、昔ばなしが細部をそぎおとして汎用の紋切り型に変えたものを、もう一度個人の想像で膨らませることだろう。
 魔法や、要請や、神話的次元に、独自の解釈をもたせて色をつけ、登場人物を印象的に造形し、ストーリーの細部を個性で味つけていく。
このプロセスをもっていながら、短く簡素におさめるはずがないのだ。もとは簡潔だったものを、個人の色づけによって膨らませるところに眼目があるのだから。作品の見せどころも価値も、いかに独創的な色づけをしたかという点にあるのだから。P101

ファンタジーの登場人物たちもまた、主役も脇役もそれぞれに、背後の世界を体現いて行動する存在だ。いやがおうでもそうなるのであって、世界との関係性が何もなければ、ファンタジーは作品として意味をなさないだろう。そして、人物とストーリーと世界が分かちがたく一体になって初めて、味わう価値のある作品になるのだ。
なぜ、そこに価値が出てkるのかというと、わたしたちがファンタジーのようなフィクションを求める同期は、ひとからげに言ってしまえば、世界と自分に関係性があるという感覚を味わうためだと思うのだ。
それが一時的であったも、空想と言いきかせた上であっても。
神話を創造した太古の時代から変わらず、わたしたちは、世界と自分の関係性をいつになっても欲しているのでないだろうか。エンターテインメントの現場で手を変え品を変え、本質は同じ物語が求められる理由は、そうとでも捉えるしかない。
ときどき、「しあわせ」とは何を指す言葉だろうと考えるが、最近では、自分の外界にあって努力や工夫だけで動かせないもの(…他人の心でも、生物でも、神様でも、びっぴんでも、天候やツキのようなものでも)が、自分に応えてくれたと感じることではないかと思うようになった。
そして、わたしたちがこれを求め続けるかぎり、昔も今もファンタジーは必要とされ続けるのだと思う。p181-183

けれども、この作者はどこまでも傲慢なのではなく、インドの自然には畏敬の念をこめることを知っている。それから外界に驚嘆する能力を内面に集約し、既存の概念によりかからずにまるごとの世界を紡ぎ出す力がある。
よいファンタジーに不可欠なのは、この力なのだとわたしは思う。p205-206

人類がいにしえから語り継いだ物語ー神話伝説のもつ力を、取り入れながら個人の捜索をこころみるのがファンタジーであるらしいと、「ナルニア国物語」をふり返りながら考えてみた。
そのことに魅力を感じると同時に、それはいったい何をすることなのか、ファンタジーを書く行為とリアリズムの小説を書く行為とは、どこがどれくらい異なるのか知りたいと考えた。P222