なんとかなっぺ

タイではマイペンライ、インドネシアではティダアパアパ、マレーシアではOKラ! 沖縄ではなんくるないさって言うんだって。

ひとりで生きられないのも芸のうち

2009-09-17 | 
『ひとりで生きられないのも芸のうち』2008年1月30日 文藝春秋 1400+税

から、かねてから気になっていた「贈与」についての一項目が掲載されていたのでメモ。

自分がしなければいけないことを誰かがしてくれれば、そうやって浮いたリソースで他人のしなければいけないことを私が代わりにやってあげることができる。
 それがレヴィナスの言うpour l,autre(他者のために/他者の身代わりとして)ということの原基敵な形態だと思う。
 それが「交換」であり、それが人性の自然なのだと私は思う。
 ひとりでできることをどうして二人がかりでやらなければならないのか、理解できない人がいるかも知れない。その人はたぶん「交換」というものがどのように構造化されているのか、その人類学的な根本事実を理解し損ねている。
 「交換」の起源的なかたちは「キャッチボール」という遊びのうちに生き残っている。
 ひとりが投げる、ひとりがそれを受け取り、投げ返す。この遊びが「交換」の原型である。
 このやりとりは何の価値も生み出していない。だから、経済合理性を信じる人には、これはエネルギーと時間だけがむなしく費消され、ボールやグローブが少しずつ摩擦する「純然たる無為」に映る。けれども、私たちは実際には飽きることなくこのボールのやりとりに興じる。
 それはここに交換の本質があることを私たちが無意識のうちに知っているからである。
 キャッチボールはひとりではできない。私が投げる球を捕球したときの手のひらの満足げな痺れのうちに、私たちは自分たちがそのつど相手の存在を要請し、同時に相手によって存在することを要請されていることを知る。
 あなたなしでは私はこのゲームを続けることができない。キャッチボールをしている二人は際限なくそのようなメッセージをやりとりしているのである。このとき、ボールとともに行き来しているのは「I cannot live Without you」という言葉なのである。
 これが根源的な意味での「贈与」である。
 「私はここにいてもよいのだ。なぜなら、私の存在を必要としている人が現に目の前にいるからである」という論理形式で交換は人間の人間的尊厳を基礎づける。交換の本義はそのような相互的な「存在の根拠づけ」に属するのであり、交換される記号や商品や財貨といった「コンテンツ」には副次的な意味しかない。
 ひとりでできることを二人がかりでやる。それによって「あなたなしでは私はこのことを完遂できない」というメッセージを相互に贈り合うこと。それがもっとも純粋な交換のかたちである。

I cannot live Without you.

これは私たちが発することのできるもっとも純度の高い愛の言葉である。
 私はこのyouの数をどれだけ増やすことができるのか、それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると思っている。
 幼児にとってこのyouの数をどれだけ増やすことができるか、それが共同的に生きる人間の社会的成熟の指標であると思っている。 
 幼児にとってこのyouはとりあえず母親ひとりである。子どもがだんだん成熟するに従って、youの数は増えてゆく。
 たぶん、ほとんどの人は逆に考えていると思うけれど、「その人がいなくては生きてゆけない人間」の数の多さこそが「成熟」の指標なのである。
 どうして「その人なしでは生きてゆけない人」が増えることが生存確率を工場させるのか、むしろ話は逆ではないのかと疑問に思われる向きもおられるであろう。「誰にも頼らなくても、ひとりで生きてゆける」能力の開発の方が生き延びる確率を高めるのではないか。経済合理性を信じる人ならそのように考えるだろう。
 だか、それは短見である。
 「あなたがいなければ生きてゆけない」という言葉は「私」の無能や欠乏についての事実認知的言明ではない。そうではなくて、「だからこそ、あなたにはこれからもずっと元気で生きて欲しい」という、「あなた」の健康と幸福を願う予祝の言葉なのである。
 自分のまわりにその健康と幸福を願わずにはいられない多くの人々を有している人は、そうでない人よりも健康と幸福に恵まれる可能性が高い。それは、(キャッチボールの例から知れるように)祝福とは本質的に相互的なものだからである。
P280~282